男
森は、再び静けさを取り戻していた。
だがそれは、先ほどまでの静けさとは違う。
何かが“終わった”あとの静寂だった。
夜は、まだ終わっていない。
リオは、その場に立ったまま、しばらく動けずにいた。
呼吸が乱れている。胸が上下しているのが、自分でも分かる。
遅れて、鼓動が戻ってくる。
「……はっ……」
ようやく、息を吐いた。
助かった。
その実感が、少し遅れて身体に広がる。
だが同時に、別の感覚が残っていた。
まだ、終わっていないような感覚。
「……」
視線を上げる。
そこに、男がいた。
月明かりの中に、立っている。
動かない。ただ、そこにいる。
それだけなのに。
妙に、はっきりして見えた。
森の中で、その存在だけが輪郭を持っているようだった。
足元に、視線が落ちる。
さっきまでそこにあったそれは、もう形を保っていなかった。
崩れている。
何かに斬られたように。
原形を失って、ただそこに散らばっている。
それを見た瞬間。
現実が、少しだけ追いついた。
「……あなたが」
言葉が、うまく出てこない。
さっきの“何か”。
助かった理由。
目の前の男。
すべて繋がっているはずなのに、理解が追いつかない。
「……助けてくれたの」
問いかける。
男は、わずかに視線をずらした。
地面。
何もない空間。
ほんの一瞬だけ、そこを見てから、再びリオを見る。
「……」
何も言わない。
肯定も、否定もない。
だが、その沈黙が答えのように感じられた。
「……強いね」
ぽつりと、リオは言う。
それは感想だった。
それ以外に、言葉が見つからなかった。
男は、反応しない。
ただ、視線が動く。
リオではなく、森の奥へ。
その動きは自然だった。
けれど、警戒とは違う。
確認しているような視線だった。
それから。
短く、言った。
「……森に入るな」
低い声。
感情が、ほとんど乗っていない。
命令でも、忠告でもない。
ただ、そういうものだと知っている者の言い方だった。
「……今さらだよ」
リオは、小さく息を吐くように笑う。
すでに入っている。
その事実が、どこか現実味を持たなかった。
男は、笑わない。
「……そうだな」
短く返す。
それだけだった。
会話が、途切れる。
沈黙が落ちる。
不思議と、気まずさはない。
だが。
落ち着かない。
理由は分からない。
ただ。
この男は、どこかずれている。
人間のはずなのに。
森の中で、あまりにも自然に立っている。
まるで。
ここが本来いるべき場所であるかのように。
「……あなたは」
名前を聞こうとして。
言葉が止まる。
なぜか、聞いてはいけない気がした。
理由はない。
男は、何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
その視線は。
冷たくはない。
だが、温かくもない。
何かを測るようでもなく、理解しようとしているわけでもない。
ただ、“そこにあるもの”を見るような、静かな目だった。
「……」
リオは、視線を逸らす。
森を見る。
さっきまでの恐怖が、嘘のように消えている。
だが。
安心も、できない。
代わりに、別の違和感が残っている。
「……なんなんだよ、ここ」
小さく呟く。
森は、何も答えない。
男も、何も言わない。
ただ。
そこにいる。
それだけだった。




