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歪み

 森は、静かだった。


 静かなはずだった。


 リオは、その場に立ったまま、しばらく動けずにいた。


 夢から覚めた直後だと言うのに、現実の輪郭がどこか曖昧だった。足元の感触も、空気の重さも、少しだけ現実からずれている。


(……さっきのは)


 思い出そうとしても、うまく掴めない。


 残っているのは、感情だけだった。


 懐かしさと、不安。


 それだけが、胸の奥に残っては沈んでいた。


「……」


 息を吐く。僅かに白くなる吐息が、すぐに空気に溶ける。


 そのときだった。


 違和感が、走る。


 音がない。


 いや──違う。


 “音が、少なすぎる”。


 森に入ったときから静かだった。だが今は、それとは別の静けさだ。


 耳を済ましてみても、音がない。風が吹いているはずなのに、葉の擦れる音すらも鳴らない。


 削られている。


 何かが、意図的に。


 自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。


「……なんだ、これ」


 小さく呟く。


 その声は、今度ははっきりと耳に届いた。


 戻っている。


 音が、少しずつ。


 だが。


(違う)


 そう、直感が告げる。


 これは“戻っている”のではない。


 “ズレている”。


 違和感が、はっきりと形を持ち始める。


 次の瞬間だった。


 ガサリ、と。


 背後で音がした。


 リオは振り返る。


 遅れて、心臓が強く脈打つ。


 何もいない。木々が並んでいるだけ。


 だが、確かに、今──


「……誰か、いるのか?」


 返事はない。


 張り詰めた静寂。


(……見られてる)


 理由はない。


 だが、そう感じた。


 喉が、わずかに乾く。


 一歩、下がる。


 その瞬間。


 音が弾けた。


 ──ドン、と。


 地面が揺れる。


 次の瞬間、目の前の木々が、横から()()()()()()


 あり得ない方向からの衝撃。


 遅れて、何かが飛び出してくる。


 黒い塊。


 いや──


「っ……!」


 息を呑む。


 それは、生き物だった。


 歪な体。


 四足のようで、どこか崩れている。


 皮膚は裂けたように黒く、目の位置が定まっていない。


 何より──“形が安定していない”。


 見ているだけで、認識がずれる。


「……なんだ、あれ……」


 言葉が、震える。


 背筋が、凍る。


 理解ができない。


 だが、理解する必要はなかった。


 “危険だ”。


 今はただ、それだけで十分だった。


「……っ」


 本能が告げる。


 ここにいてはいけない、と。


 音を立てないよう、ゆっくりと後退る。


 一歩。


 二歩。


 その時。


 パキン、と。


 足元で、何かが折れるような音がした。


 それは、ゆっくりとこちらを見る。


「──っ!」


 反射的に、走る。


 足がもつれる。


 地面が、やけに不安定に感じる。


 後ろを見ない。


 見たら、終わる。


 そう分かる。


 それでも。


 気配が、すぐ後ろにある。


 近い。


 近すぎる。


「はっ……はっ……」


 息が乱れる。


 肺が痛い。


 だが、止まれない。


 木々の間を抜ける。枝が腕に当たる。


 痛みを感じる余裕はない。


 ただ、走る。


 それが、追ってくる。


 音は、ない。


 だが、“いる”のが分かる。


 背中に張り付くような気配。


「……っ」


 足が、もつれる。


 視界が揺れる。


 転びかける。


 踏みとどまる。


 だが、もう限界だった。


 呼吸が続かない。


 体が重い。


「……っ、くそ……」


 立ち止まって、振り返る。


 それが、いた。


 すぐそこに。


 手を伸ばせば届く距離。


 輪郭が揺れている。


 顔のようなもの。


 だが、“目”だけがはっきりと見えた。


 こちらを見ている。


 理解できない感情で。


「……っ」


 動けない。


 体が、言うことを聞かない。


 逃げなければならない。


 そんなこと分かっているのに、足が動かない。


 それが、腕を伸ばす。


 ゆっくりと。


 確実に。


 距離が、ゼロになる。


 声が出ない。


 逃げられない。


(ここで、終わるのか)


 そう思った、その瞬間──


「──……」


 風が、揺れた。


 その瞬間。


 一閃。


 何かが通り抜ける。


 次の瞬間。


 それは、崩れていた。


 何かに、斬られたように。


 音もなく。


 まるで最初から形を保てなかったかのように、静かに。


 リオは、息をすることも忘れていた。


「……え」


 理解が、追いつかない。


 何が起きたのか、分からない。


 ただ、目の前に──誰かが立っていた。


 月明かりの下に、一人の男が背を向けている。


 斧を持っている。


 呼吸は乱れていない。


 ただ、そこにいる。


 それだけなのに。


 空気が、変わっていた。


 さっきまでの異質な圧が、消えている。


 代わりにあるのは──静かな確信。


「……」


 声が出ない。


 リオは、その背中を見上げることしかできなかった。


 男は、何も言わない。


 それから。


 ゆっくりと、こちらへ視線を向けた。


 その目は──あまりにも静かだった。

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