森へ
夜は音が少なかった。
塔の中は、昼よりもさらに静かになる。灯りが落とされ、足音も消える。壁に囲まれた空間は、昼間よりもわずかに狭く感じられた。
誰もいないわけではない。だが、いる気配が薄い。人の存在そのものが、どこか遠ざけられているようだった。
リオは目を開けて、天井を見つめていた。
(……眠れない)
その理由は分かっている。考え続けているからだ。地図の空白。記録の欠落。予定の“何もない時間”。
そして──森。
意識を向ける度、その場所だけが輪郭を持って浮かび上がる。
「……行くしかない」
小さく呟いた言葉は、もう何度も繰り返していた。
音を立てないようにゆっくりと起き上がって、扉へ向かう。足元の感触すら、どこか曖昧に感じる。
手をかけようとして、ふと止まった。
(本当に、出られるのか)
これまで出ようとしたことはない。必要がなかったからだ。
だが今は違う。理由がある。
目を閉じて、一つ、息を吐く。胸の奥に溜まっていたものを押し出すように。
そしてゆっくりと、扉を開けた。
音は──しなかった。
まるで最初から、音というものが存在しなかったように。
廊下は暗かった。灯りは最小限で、人の気配はない。壁にかかる灯りが、床に細く影を落としている。
リオは足を進める。
迷いは、不思議とない。
初めて歩くはずの道なのに、なぜだろうか。足が次に進む場所を、最初から知っているかのようだった。
角を曲がって階段を下りる。石の階段は冷たく、靴越しにその感触が伝わってくる。
足は止まらない。
誰にも、会わない。
それが当然であるかのように、何も起きない。まるで、この時間だけが世界から切り離されているようで。
(おかしい)
そう思いながらも、それでも進んでいく。
やがて、大きな扉の前に出た。
外へと続く扉だ。
これまで、一度も使ったことがない場所。近づくにつれて、わずかに空気が動くのを感じた。
「……ここか」
手を伸ばして触れれば、それは冷たい。石とも鉄とも違う、乾いた冷たさだった。
おそるおそる押せば、思っていたよりもあっさりと開いた。
夜の空気が流れ込み、思わず息を止める。
知らないはずの感覚だった。けれど、どこかで一度だけ触れたことがある気がして。
胸の奥が、わずかに揺れた。
懐かしさに似ている。
だが、それが何なのかは分からない。
「……」
ゆっくりと、息を吸う。
空気が、肺に満ちる。
ひんやりとしていて、どこまでも澄んでいる。
軽い──それだけで、どこか落ち着かない。体の内側だけが取り残されているような感覚。
塔の中とはまるで違う。
何かが、ずれている。
「……変だな」
小さく呟いて、一歩踏み出す。
塔の外に出て、振り返る。
高い壁。閉ざされた構造。夜の闇の中で、それはより一層、外界を拒むように見えた。
あそこに、リオはずっといた。
「……なんで」
疑問は浮かぶ。だが、それ以上は考えない。
視線を前へ向ければ、遠くに森がある。
暗い。光を吸い込むように、その部分だけが沈んでいる。
だが、不思議と目を引く森がある。
「……あそこだ」
歩き出す。
夜の王都は静かだった。
人の気配はある。窓の奥に灯りが揺れ、どこかで人の話し声がかすかに聞こえる。
だが、誰もこちらを見ない。
まるで──気付かれていないような感覚。
(本当に、これでいいのか)
不安がよぎる。
それでも、足は止まらない。
リオは進む。ただ、森へ向かって。
***
森の入口に立てば、空気が変わった。
冷たいわけではない。だが、肌に触れる感覚が明らかに違う。
空気が重くなるでもなく、軽くなるでもなく──ただ、別のものに入ったような、そんな感覚。
「……」
躊躇は、一瞬だけだった。
踏み込むと、音が消える。世界が遠のいて、自分の足音さえも曖昧になる。
振り返る。
外が、少し遠い。境界がぼやけている。
「……変だな」
呟く。だがその声すら、はっきりしない。空気に吸い込まれて行くようだった。
ただ、奥へ進む。
理由は分からない。
それでも、“行かなければならない”と感じた。
木々の間を抜ける。景色は似ている。だが、同じではない。
木の配置も、影の落ち方も、どこか僅かにずれている。
どこか、歪んでいる。
時間の感覚が、曖昧になる。
歩いているはずなのに、進んでいる実感が薄い。
どれだけ歩いたのか、分からない。
ふと、足が止まる。
開けた場所。
何もない空間。
その中心に、立つ。
周囲の木々だけが、そこを避けるように円を描いていた。
「……ここ」
そう思った瞬間、意識が揺れた。
***
夢を見ている。
ぼやけていて、形が定まらない夢だ。
誰かがいる。
女性。
顔は見えない。
ただ、知っている気がした。
声が──聞こえない。
口は動いている。何かを伝えようとしている。
だが、音がない。届かない。
手を伸ばすが、触れられない。
距離が縮まらない。
どれだけ手を伸ばしても、その距離だけが変わらず残る。
景色が揺れて、崩れていく。
光。
白。
すべてを塗りつぶすような白。
そして──消えた。
***
ふっと目を開ければ、そこは森の中だった。先ほどと同じ場所。
「……今のは」
息が浅い。
鼓動が少し速い。
けれど、それ以上の何かが残っている。
胸の奥に、かすかな余熱のように。
懐かしさ。
そして、説明のつかない不安。
「……誰なんだ」
ぽつりと呟く。
答えはない。ただ、森がそこにあるだけだ。
だが確かに、何かに触れた。
その感覚だけが、消えずに残っていた。




