閉じられた日常
朝は、決まった時間に来る。
鐘の音が鳴る。正確に。一度の狂いもなく、同じ間隔で空気を震わせるその音は、まるで世界そのものが律されているかのようだった。
リオは目を開ける。
眠っていたはずなのに、休んだ感覚は薄い。意識だけが途切れて、また同じ場所に戻ってきたような感覚が残る。
天井を見る。
何も変わらない。昨日と同じで、一昨日とも同じ光景がそこにあった。
「……朝か」
小さく呟く。
返事はない。
この部屋では、それが普通だった。
起き上がって、用意された衣服に袖を通す。
布は整えられ、皺ひとつない。まるで着る者の動きまで予測して配置されているかのように、寸分の狂いもなかった。
わずかな違和感が残る。
だが、それが何なのかは分からない。
扉の外で、足音が止まる。
「失礼いたします、殿下」
開く前に分かる。
毎日、同じ時間。同じ間。同じ声色。
扉が開き、侍女が入ってくる。
一礼。
動きに無駄はない。滑らかすぎて、逆に引っかかるものがない。
「本日のご予定でございます」
差し出される書類を受け取り、視線を落とす。
その中に、“空白”があった。
一瞬だけ、思考が止まる。
だが、次の瞬間には何も感じなくなる。
(……違う)
遅れて、違和感だけが残る。
「……ここ」
指で示す。
予定の一部。本来、何かが入るはずの場所。
「何も書かれていないけど」
侍女は、すぐに答える。
「特に予定はございません」
迷いはない。
考える間もない。
最初から、そう決まっているかのように。
「……そう」
それ以上は、何も続かない。
けれど。
(またか)
昨日も見た。
地図の空白。記録の欠落。
そして今。
予定の中の“何もない時間”。
偶然とは思えない。
「……ねえ」
リオは顔を上げる。
侍女は静かに視線を向ける。
「この城ってさ、全部、把握されてるよね」
「はい。管理されております」
淀みのない返答。
「じゃあさ」
言葉を選ぶ。
言葉を選んでいるはずなのに、どこか選ばされているような感覚がある。
「“分からない場所”とか、“記録にないもの”って、あると思う?」
ほんの一瞬。
空気が止まる。
だが、それもすぐに消える。
「いいえ。存在いたしません」
即答だった。
迷いも、揺らぎもない。
それ以外の答えが存在しないかのような、完成された返答。
「……そっか」
視線を落とす。
(やっぱり、おかしい)
だが、それをおかしいと思っているのは自分だけだ。
その事実が、ゆっくりを形を持つのを感じて、息が少しだけ浅くなった。
空気が足りないわけではない。
ただ、うまく吸えていないような感覚。
「……下がっていいよ」
「かしこまりました」
侍女は一礼し、部屋を出ていく。
扉が閉まる。
音が、やけに重く響いた。
静かだ。変わらないはずの静けさ。
けれど今は、その静けさが密閉された箱のように感じられる。
「……息が詰まる」
思わず、そう呟いていた。
部屋を見渡す。
整えられた空間。何一つ乱れていない。全てが正しい位置にある。
だからこそ、“逃げ場がない”。そう感じてしまう。
視線を逃がす場所すら、用意されていないように思えた。
窓へ向かう。
高い位置にある窓。開かない構造。
外を見る。
遠くに、森が見える。
あの場所だけ、色が違う。光を受けているはずなのに、わずかに沈み、周囲から切り離されているように見える。
風に揺れているはずなのに、やはりどこか止まっている。
「……あそこは」
言葉が、途切れる。
昨日から続いている感覚。
“何かがある”。
理由はない。説明もできない。
けれど、確かにある。
「……行けば分かる」
確信に近いものがあった。
だが同時に。
「……行けない」
それも分かっている。
この塔から出ることは許されていない。
理由は知らない。けれど、それが“絶対”であることだけは理解している。
だからこそ。
(おかしい)
なぜ、外に出てはいけないのか。
なぜ、誰も疑問に思わないのか。
なぜ、自分だけが気づいているのか。
考えれば考えるほど、思考は途中で止まる。
それ以上、進めない。
“そこに触れてはいけない”と、何かに制限されているように。
「……っ」
頭を押さえる。
一瞬だけ、強いノイズが走る。視界がわずかに歪む。
だが、それもすぐに消える。何事もなかったかのように。
「……今のは」
答えは出ない。
ただ、確実に分かることがある。
この場所は、おかしい。
この世界は、どこか歪んでいる。
そして、その歪みの先に。
あの森がある。
「……行くしかない」
小さく、呟く。
それはもう、迷いではない。
決定だった。
閉じられた世界の中で。
ただ一つ残された“外”へ向かうための。




