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森の中の男

 斧が振り下ろされる。


 乾いた音が、森の中に響いた。だがその音は広がらない。空気に溶けることもなく、ただその場に落ちるようにして途切れる。


 もう一度、振り上げて振り下ろす。


 同じ音。同じ終わり方。

 その繰り返しの中で、時間の感覚だけが、少しずつ曖昧になっていく。


 それを繰り返しているのは、一人の男。


 名を呼ぶ者は、ここにはいない。呼ぶ必要もない。


 男は斧を置き、割れた薪を拾って脇に積む。動きは無駄がなく、迷いもない。ただ決められた手順をなぞるように、一定のリズムで繰り返されている。


 ふと、手が止まる。


 男は何もない空間へと視線を向けた


 そこには何もない。木々があり、影があり、風がわずかに葉を揺らしているだけだ。


 それでも、しばらく動かない。


 時間にすれば、ほんの数秒。


 だがその静止は、この森の中ではわずかに長く感じられた。


 やがて男は、何事もなかったかのように作業を再開する。


 風が吹く。


 木々が揺れる。


 葉が擦れるはずの音は、やはり遠い。どこか一枚隔てた向こう側で鳴っているような、鈍い響きだった。


 男は気にしない。


 気にする様子もない。


 慣れている、というより──それが()()だった。


 薪を抱え、小屋へ向かう。


 森の奥にひっそりと建つ小さな家は、人の手で作られたもののはずなのに、不自然なほど周囲と馴染んでいた。輪郭が曖昧で、そこにあるのに強く主張しない。まるで最初から森の一部であったかのように、静かに存在している。


 男は扉を開ける。軋む音は鳴らない。


 開いた事すら、音として残らなかった。


 中に入れば、生活の痕跡は確かにある。

 机、椅子、簡素な寝台。生活に必要なものだけが過不足なく置かれている。整えられていると言うより、変化が存在していないような空間だった。


 余計なものはない。


 飾りもない。


 ただ“生きるためだけ”に整えられた、静かすぎる空間。


 男は薪を積み、火を起こす。


 火は、普通に燃える。


 揺らぎ、光を放ち、熱を生む。


 だがその音だけが、どこか弱い。


 ぱち、と弾けるはずの音が、半分ほど削り取られているように感じる。


 音が、最後まで鳴りきらない。


 それでも、男は何も思わない。


 座り、火を見つめる。


 その視線は炎を追っているようで、どこか焦点が合っていない。目の前の光ではなく、もっと別の何かを見ているようでもあった。


 時間が過ぎる。


 どれほどかは分からない。


 この場所では、時間は測るものではなく、ただ過ぎていくものだった。


 ふと。


 視線が、わずかに揺れた。


 何かを感じ取ったような、ごく小さな反応だった。

 だが、それはすぐに消える。


 男は、ゆっくりと口を開いた。


「……誰だ」


 低い声。それは問いかけというより、確認に近い。


 返事はない。


 静寂だけが、そこにある。


 男はそれ以上何も言わず、ゆっくりと目を閉じた。


 森は変わらない。


 風も、光も、何一つとして変化していない。


 それでも。


 確かに、何かが()()()


 気配とも、感覚とも言い切れない、説明のつかない違和感だけが、僅かに残っている。


 目を開ける。


 男は、ほんのわずかにだけ眉を寄せた。


 それは感情と呼べるほどのものではない。だが、完全に無でもない。


 “違和感”だけが、そこにあった。


 立ち上がり、外へ出て森を見る。


 広がる木々。重なり合う影。変わらないはずの景色。


 だが。


「……」


 言葉は出ない。


 ただ、少しだけ長く、そこに立ち尽くす。


 何かを探しているわけでもなく、何かを理解しているわけでもない。ただ、()()()()()だけが残っていた。


 やがて視線を外し、何事もなかったかのように再び、日常に戻る。


 斧を手に取り、振り上げ、振り下ろす。


 乾いた音が、またその場で止まった。


 男は、それを不思議とも思わない。


 この森は、そういう場所だ。


 そして。


 自分は、その中にいる。


 ただ、それだけだった。


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