森の応答
森は、静かだった。
ただ、その静けさは、わずかに遅れて届く。
風は通っている。葉が揺れている。音はある。それでも、それらは出来事して起きたあとに、追いかけるように意識へ届いてくるような、そんなズレがあった。
森は同じように見える。けれどその同じが、どこかで保たれていない。
気づいたときには、もう戻れなくなっている。今この瞬間の感覚だけが、どこか取り残されている。
「……なんか」
リオが、小さく呟いた。
歩きながら、周囲を見渡す。その動作はいつもと変わらない。けれど、その視線はほんの少しだけ落ち着かない。
「……ちょっとだけ、変だな」
言葉は軽い。けれどそこに含まれる違和感は、これまでとは違うものだった。
レンは、その言葉にすぐには反応しなかった。
いや、正確には──できなかった。
一歩、足を踏み出す。
その瞬間、何かが引っかかり、視界の端でわずかに光が歪んだ気がして、立ち止まる。
「……?」
リオは気づかない。そのまま数歩進み、振り返る。
「どうしたの?」
何でもないような声だった。
レンは答えない。
視線だけが、さっき歪んだはずの場所に向いている。
カイルは、その様子を一度だけ見る。
だが、すぐに視線を外した。
そこに“何もなかった”かのように。
そこには、何もない。
木々が並び、光が差し込んでいる。風が通り、葉が揺れる。どこにでもある森の一部。違和感を持つ理由など、どこにもない。
それでも──
「……いや」
小さく呟く。
だが、その言葉の意味を、自分でも理解していなかった。
レンは再び歩き出す。
一歩。
二歩。
その途中で、また。
──途切れる。
視界が、瞬いた。
音が消える。
次の瞬間、そこにあったのは──王都だった。
見覚えのある石畳。
広がる街並み。
そして、高くそびえる城壁。
だが、そのすべてがどこか曖昧で、輪郭だけが浮かび上がっている。
人の姿はある。なのに、誰も動いていない。
時間だけが切り取られたように、すべてが静止している。
風は吹いていない。
音もない。
ただ、静止画のような王都の光景だけがそこにある。
その中に──ひとつの影があった。
白いドレス。
長い髪。
けれど、その顔は見えない。
こちらを向いているはずなのに、その表情だけが認識できない。焦点を合わせようとした瞬間、そこだけがぼやける。
(……誰だ)
思考が浮かぶ。なのに、その先に進まない。
影が、わずかに揺れる。
──声は、ない。
何かを伝えようとしているように見える。だが、そのすべてが音を持たないまま流れていく。
手を、伸ばそうとする。
触れられるはずだと、どこかで確信していた。
その一瞬が、やけに長く感じられた。伸ばしたはずの腕が、届く前に時間だけが引き延ばされていく。
距離は変わらない。なのにその間だけが歪んでいる。
──触れられない。
その理解しかけた瞬間、すべてが、崩れた。
視界が戻った先にあったのは、森だった。
風が吹く。葉が揺れる。音が戻る。
だが、その戻り方がどこか歪んでいる。さっきまで何もなかったかのように、すべてが自然に繋がっている。
「……ねぇ」
リオの声がして視線を移せば、すぐ近くに立っていた。
「さっきから、ぼーっとしてるけど大丈夫?」
いつも通りの声音だった。何も見ていない、何も感じていない声。
レンは、しばらく何も答えなかった。
「……今」
言葉を探す。
だが、うまく形にならない。
「……何か」
そこまで言って、止まる。
何を見たのか。
何を感じたのか。
それが分からない。
「……何も、ない」
結局、そう言うしかなかった。
リオは少しだけ不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
「変なの」
軽くそう言って、また歩き出す。
その背中を、レンはしばらく見ていた。
──本当に、何も感じていないのか。
さっきの光景。
あの影。
あの何か。
それが、最初から存在しなかったかのように、リオはそこにいる。
違和感が残る。
だが、その正体が分からない。
ふと。
風が、止まった。
葉の揺れが止まる。
音が消える。
森が、静止する。
その中心にいるのは──レンだった。
視界が、わずかに歪む。
光が、屈折する。
だが──それは周囲ではなく、自分の位置を中心に起きていると分かる。
木々の配置が変わったわけではない。
世界の方が歪んだわけでもない。
ただ、自分を起点にして、すべてがずれている。
(……なんだ、これ)
思考が追いつかない。
足元の感覚が揺らぐ。
地面があるはずなのに、その確かさが薄れる。
それでも、立っている。
崩れない。
ただ、どこかに繋がっているという感覚だけがある。
それが何と繋がっているのかは、分からない。
ただ──確かに、何かに触れている。
「……まるで」
一瞬、言葉を探すように間が落ちる。
「……人じゃないみたいだ」
小さく、呟いた。
その言葉の意味を、自分で理解することはできなかった。
次の瞬間。
すべてが、元に戻った。
風が吹く。
葉が揺れる。
音が戻る。
森は、再び動き出す。
「……?」
リオが振り返る。
「今、なにかした?」
その言葉に、レンは首を振る。
「……いや」
それ以上は何も言えなかった。
何が起きたのか、自分でも分からない。
さっきまで確かに何かがあったはずなのに、その内容だけが抜け落ちている。
思い出そうとする。
だが──思い出せない。
断片は、音もなく途切れていた。
さっきまで確かに何かを見ていたはずなのに、その輪郭だけが曖昧にほどけていく。
理解には至らない。
ただ──触れてしまった、という感覚だけが残る。
森は、再び静かになった。
だがその静けさは、もう以前のものではなかった。
何も残っていないはずなのに──確かに“何かが応えた”感覚だけが、消えずに残っていた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
この物語が、少しでもあなたの心に残るものであれば嬉しいです。
もし気に入っていただけたなら、これからも静かに見守っていただけると幸いです。




