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仮説

 静かな室内だった。

 いつから話していたのかは、はっきりしない。


 紙をめくる音だけが、わずかに響いている。

 それ以外の音はほとんど存在していない。


 空気は動いているはずなのに、その流れをうまく捉えられない。

 時間だけが、ゆっくりと沈んでいるようだった。


 その中で、男が口を開いた。


「……まず、前提として言っておく」


 一度、言葉を区切る。

 短い間。だが、なぜかその一瞬だけが妙に長く感じられた。


「これから話すのは、すべて仮説だ。確証はない」


 淡々とした声音だった。

 断言を避けるその言い方が、逆に妙な現実味を帯びる。


「だが……いくつかの現象を説明するには、それが一番“筋が通る”」


「現象、って……」


 リオが小さく首を傾げる。


「記録の欠損。地図の空白。認識の齟齬」


 一つずつ、指でなぞるように並べる。


「本来なら、あり得ないことが起きている」


「……確かに、おかしいなとは思ってた」


 リオは少しだけ間を置いてから、


「……でも、それってただの見落としとかって可能性はないの?」


 軽い調子で言う。


 男は、わずかに視線を上げた。

 その視線だけが、ほんの少しだけ鋭くなる。


「“全員が同時に同じ見落としをする”可能性は?」


「……ああ」


 少しだけ、言葉に詰まる。


 軽く流そうとした前提が、静かに崩れる。


「だから、こう考える」


 男は静かに続ける。


「──もし、この世界が“固定されたものではない”としたら?」


 沈黙が落ちる。


 その言葉は強くない。

 だが、空気の中にわずかな歪みを残した。


「固定、されてない……?」


「認識によって揺らぐ。記録によって形を変える」


 その説明は、理解できるはずだった。

 言葉の意味も、構造も、難しいものではない。


 だが──どこかで、繋がらない。


 理解はしている。

 それなのに、その意味だけがわずかに抜け落ちる。


 思考を続けようとした瞬間、そこで一瞬だけ、止まる。


「あるいは──」


 ほんのわずか、言葉を選ぶ間。


「“存在そのものが、安定していない”」


 その一文だけが、静かに重く沈む。


「……なんか、それ」


 リオが苦笑する。


「ちょっとよく分からないかも」


「そうだろうな」


 あっさりと肯定する。

 否定も説得もしない。ただ、事実として受け流す。


「だが、仮にそうだとすると」


 男は机の上の紙に視線を落としたまま言う。


「“辻褄が合う”」


「どこが?」


「消えた記録も、空白の地図も」


 一拍置いて、


「“なかったことになる現象”も」


 その言葉だけ、わずかに重く落ちる。


「……なかったことになる?」


 リオが繰り返す。


「認識されなければ、存在しないのと同じだ」

「逆に言えば──」

「認識の仕方次第で、“存在は変わる”」


「……」


 リオは黙る。


 理解しているわけではない。

 だが、完全に否定もできない。


 何かが繋がりかけて、そこで止まっている。


 男は、そこで一度言葉を止めた。

 ほんのわずかに、息を吐く。


 空気が、少しだけ緩む。


 だが──


「……ここから先は、さらに根拠が薄い」


「でも話すの?」


「ああ」


 その一言で、空気が再び張り詰める。


「この世界には──」


 少しだけ、間を置いて。


「“接続する存在”がいる可能性がある」


 その言葉が出た瞬間。


 ほんの一瞬だけ、空気が揺れた気がした。


 誰も動いていない。

 音も変わっていない。


 それでも──何かが、遅れて届いたような感覚だけが残る。


 今、何かが起きたのか。

 それとも、起きた()を認識したのか。


 判別がつかない。


「接続?」


「世界と、別の何かを繋ぐ」

「あるいは──」

「世界そのものに、“干渉する点”」


 言葉は曖昧だ。

 それでも、何かを指していることだけは分かる。


「……そんなの、いるの?」


「断言はしない」


「だが、もし存在すると仮定すれば」


 男の視線が、わずかに鋭くなる。


「説明がつく現象が増える」


「……例えば?」


 リオが問う。


「局所的な歪み」

「記録の断絶」

「存在の不安定化」


 その列挙が終わった瞬間、空気がわずかに沈む。


「そして──」


 男は、そこで言葉を止めた。


 ほんの一瞬、わずかに視線が揺れる。

 迷いではない。

 “触れてはいけない何か”に触れかけて、引いたような揺れだった。


「……いや」


 首を振る。


「これは、仮説に過ぎない」


「なに?」


 リオが聞く。


「……続けて」


「いい」


 短く切る。


 だが、完全には終わっていない。


 沈黙が落ちる。

 紙の音も止まっている。


 その静けさだけが、やけに重い。


「……その、“接続する存在”ってさ」


 リオがぽつりと言う。


「どうなるの?」


 男はすぐには答えない。


 その沈黙が、わずかに長い。


 やがて、ゆっくりと口を開く。


「……代償がある」


「代償?」


「精神の崩壊」

「記憶の断絶」

「──存在の希薄化」


 その最後の言葉だけが、わずかに重かった。空気の底に沈むように。


「存在の……?」


「誰にも認識されなくなる」

「記録にも残らない」

「やがて──」


 わずかな間。


「“最初からいなかったもの”として扱われる」


「……それって」


 リオが、わずかに眉を寄せる。


「消えるってこと?」


 男は、すぐには答えなかった。


 ほんの一瞬、言葉を選ぶような沈黙。


「……近い」


 短く、それだけ言う。


 沈黙。


 空気の質が、明確に変わっていた。軽さはもう、どこにもない。


「……でもさ」


 リオが口を開く。


「そんなの、本当にあるの?」


 男は、リオを見る。

 その瞬間──視線の焦点が、ほんのわずかに遅れる。見ているはずなのに、認識が追いついていない。


 そこに“いる”ことが、完全には定まっていないかのように。


「君は──」


 言いかけて、止まる。


 その言葉は、最後まで形にならない。


「……いや」


 視線を外す。


「今のは忘れろ」


「?」


 リオは首を傾げる。


 だが、それ以上は追わない。


 再び、沈黙。


「……一つだけ、分かっていることがある」


 男が静かに言う。


「この仮説では──」


「説明しきれない部分が残る」


「え?」


「欠けている」

「何かが」


 その言葉は、どこか曖昧だった。

 だが、確かに()()()()感覚だけがはっきりと残る。


「……何が?」


 男は、答えない。


「それが分からない限り──」

「これは、ただの推測でしかない」


 沈黙が、ゆっくりと降りる。


 理解したような気がする。


 だが──何も、掴めていない。


 繋がりかけたはずの何かが、最後の一歩で途切れている。


 その感覚だけが、はっきりと残っていた。

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