欠けた記録
塔の中は、相変わらず静かだった。
風の音も、人の気配も、すべてが遠い。届いていないわけではないのに、どこか薄く引き伸ばされたように感じられる。
けれど今日は、その静けさが妙に気に障る。
理由は分かっている。
あの地図だ。
机の上には、昨夜と同じ地図が広げられている。
王都と、その周辺。
そして──あの空白。
リオはしばらくそれを見つめたあと、ゆっくりと視線を外す。
その一点に意識を向け続けること自体が、どこか危うい気がした。
「……他にもあるはずだ」
一つだけのはずがない。そう思い、本棚へ向かう。
整然と並べられた記録書。年代ごとに分けられた報告書。王都の歴史をまとめた資料。そのどれもが正確に整理され、抜けや乱れなど一切ないように見える。
だからこそ。一つでも欠けていれば、すぐに分かるはずだった。
手に取って頁をめくる。
紙の擦れる音だけが、やけに大きく響いた。
違和感は、すぐに見つかった。
「……ここもか」
ある時期の記録だけが、不自然に薄い。
出来事が“なかった”ように書かれている。だが、それはあり得ない。何も起きていない期間が、こんなに長く続くはずがない。それは、知識ではなく感覚として分かる。
別の本を取る。
同じだ。
また別の記録も、やはり同じだった。
まるでそこだけ、丁寧に削り取られている。
偶然ではない。
そこには、はっきりとした意図がある。
「……隠してる?」
無意識に呟いていたその言葉は、静かな部屋の中で妙に浮いて聞こえた。
そのとき。
「殿下、お茶をお持ちしました」
扉の向こうから声がする。昨日と同じ侍女だ。
「……入って」
扉が開く。
静かな動き。無駄のない所作。足音すら、どこか控えめに抑えられている。すべてがいつも通り。
だがリオは、そのいつも通りがどこか不自然に思えた。
「何をお調べで?」
侍女が机の上の資料に目を向ける。何気ない問い。
けれど、その視線は一瞬だけ止まった。
「この辺りの記録なんだけど」
一冊の本を指で押さえる。空白の多い頁。
「……問題はございませんが」
返答は早く、淀みもない。
「本当に?」
問い返す。
ほんの一瞬。
また、止まった。
「はい。記録にある通りでございます」
“記録にある通り”。昨日と同じ言葉。
その瞬間、確信に近いものが胸の奥でゆっくりと形を持つ。
「……じゃあさ」
リオは何気ない調子で続ける。
「この辺りって、昔から何もなかったの?」
侍女は微笑んだまま答える。
「はい。何もございません」
迷いはない。考えている様子もない。
最初から、そう決まっているかのような、あまりにも自然すぎる返答だった。
その答えを聞いた瞬間。
「……そう」
リオはそれ以上、何も言わなかった。
けれど。
(おかしい)
はっきりと、そう思った。
記録がない。人も同じことを言う。しかも、考えずに。
“知らない”のではない。“そう認識している”。
その違いに気づいた瞬間、背筋にわずかな寒気が走った。理解したくない何かに、触れてしまったような感覚。
「……下がっていいよ」
「かしこまりました」
侍女は静かに一礼し、部屋を出ていく。
扉が閉まると、再び静寂が戻る。
だがもう、その静けさは普通ではなかった。
机に戻って地図を見る。
あの空白。
何もない場所を、指でなぞる。
「……あるだろ、ここ」
小さく呟いた、そのときだった。
ふ、と。
音が消えた。
完全な無音。
ほんの一瞬だけ。呼吸の音すら、消える。
リオは顔を上げる。
何も変わらない部屋。
カーテンは揺れている。だが、その動きに音が伴っていない。現実だけが、ほんの僅かにずれている。
「……今の」
次の瞬間、音が戻る。
風の音。
布の擦れる音。
すべてが一斉に帰ってくる。
まるで、最初から何もなかったかのように。
「……気のせい、か?」
そう呟きながらも、すぐに直感が否定する。
(違う)
あれは、ただの錯覚じゃない。
あの空白に触れた瞬間、何かが、確かにずれた。
視線を落とす。
地図。その一点だけが、やけに重く感じる。
「……ここだ」
理由は分からない。証拠もない。
それでも。
「ここに、何かある」
確信だけが、はっきりとあった。
そして同時に。
「……確かめないと」
その言葉が、ほとんど反射のように口をついて出た。
好奇心ではない。
もっと重い。見過ごしてはいけない、何か。そんな感覚だった。
窓の方を見る。
遠くに、森が見えた。
昼間だというのに、そこだけ少し暗い。
色がわずかに沈み、風に揺れているはずなのに、なぜか動いていないように見える。
「……あそこか」
目を細める。
距離はある。本来なら、ただの森にしか見えないはずだ。
それなのに。
あそこだけが、はっきりと“異質”だった。
「……行くしかないか」
小さく、呟く。
その言葉に、迷いはなかった。
まだ理由は分からない。まだ何も知らない。
けれど。
あの空白と、あの森は繋がっている。
それだけは、確信していた。
そして。
その確信が、すべての始まりになることを。
リオは、まだ知らない。




