続いた世界
世界は、一度滅びかけた。
そして、救われた。
そういうことになっている。
だが──たった一つだけ、問題がある。
誰が、この世界を救ったのか。
それを覚えている人間が、この世界には一人もいない。
まるで最初から、そんな人物は存在しなかったかのように。
***
石造りの塔は、静まり返っていた。
音がないわけではない。遠くで風が壁を撫でる音や、かすかな足音は確かにある。
けれどそれらはすべて、分厚い壁に吸い込まれてしまう。
外界の喧騒は届かない。
風の音さえも、どこか遠い。
ここは王城の一角にある、高い塔の上階。
王族の居室でありながら、同時に“外と隔てられた場所”でもあった。
ここでは、あらゆるものが外界から切り離されている。
それはまるで、世界から一歩だけ外れた場所のようだった。
その部屋の中央で、少年は一枚の地図を見下ろしている。
少年の名はリオ。
この国の第一王子である。年齢は十八。
だが、その肩書きが持つはずの重みや華やかさは、この空間には存在しない。
あるのは、紙と本と、積み重ねられた時間だけだった。
「……変だな」
小さく呟き、リオは指先で地図の一点をなぞる。
王都と、その周辺一帯を描いたもの。街路は細かく引かれ、建物の配置まで記されている。几帳面な筆致は、これを作った者の正確さを物語っていた。
だが──一箇所だけ、何もない。
本来なら、何かがあるはずの場所。
そこだけが、ぽっかりと抜け落ちている。
「ここ、何も書かれてない」
ぽつりと零れたその言葉は、誰かに伝えるためのものではなかった。
リオは、何も描かれていないその空白の上で指を止める。
それは、単なる書き忘れには見えなかった。消された痕でもない。
それはまるで、最初から“何もなかった”と断言するために用意されたような、不自然な余白だった。
それが、妙に引っかかる。
リオはしばらく、その一点を見つめていた。
視線を外そうとすればできる。
だが、なぜかそれができない。
理由はわからない。
ただ、説明のつかない違和感だけが、そこにはあった。
「ねえ」
振り返ると、部屋の隅にいた侍女がすぐに顔を上げた。
「はい、殿下」
「この辺りって、何があるの?」
地図を示しながら尋ねる。
ほんの些細な疑問のつもりだった。
だが──侍女の動きが、一瞬だけ止まった。
ほんのわずか。瞬きをするほどの間。
けれど、それは確かに“遅れ”だった。
「……特に、何もなかったかと」
返答はすぐに返ってくる。
声音も、表情も、いつも通り。
だからこそ、その一瞬の空白が際立つ。
「何も?」
「はい。少なくとも、記録には残っておりません」
記録にない。
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥に微かな違和感が走る。ノイズのようなものが、思考の奥で引っかかった。
だが、それが何なのかは分からない。
「昔も?」
そう問い返したときだった。
「──っ」
侍女の表情が、ほんのわずかに歪む。
すぐに戻る。けれど今度は、見間違いではなかった。
「……どうかなさいましたか?」
先に口を開いたのは、侍女の方だった。
まるで、こちらの様子を探るように。
「いや……」
リオは言葉を濁す。
今の違和感を、どう説明すればいいのか分からない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
“何もない”はずのその場所に、何かがあった気がする。
「……いや、なんでもない」
そう言うしかなかった。
侍女は一瞬だけリオを見つめ、それから静かに頭を下げる。
「さようでございますか」
その声は、やはりいつも通りだった。
だが、本当にいつも通りなのかどうか。
それを確かめる術は、リオにはなかった。
***
再び、地図へと視線を落とす。
ぽっかりと空いた、その一点。
周囲が埋まっているからこそ、その空白は際立つ。
それはまるで、丁寧に塗り潰された絵の中で、そこだけが意図的に消された余白のようだった。
理由は分からない。
けれど──そこには、本来あるべき何かがあったのではないかと、そう思えてしまう。
「……本当に、何もないのか?」
小さく呟く。
答えは返ってこない。
けれど。
なぜか、その空白から目が離せなかった。
机の上には、他にもいくつかの資料が広げられている。
王都の記録。
過去の出来事をまとめた報告書。
歴史書の抜粋。
どれも似たようなことが書かれている。
世界は一度滅びかけ、そして救われた。
それ以上のことは、どこにも詳しく書かれていない。
まるでそこだけ、誰かが意図的に削り取ったかのように。
「……おかしいだろ」
思わず、そう呟いていた。
滅びかけたのなら、理由があるはずだ。
救われたのなら、誰かがいるはずだ。
なのに、そのどちらもが曖昧なまま残されている。
「誰も、気にしてないのか……?」
パタン、と本を閉じる。
乾いた音が、静まり返った塔の中でやけに大きく響いた。
***
塔の窓は高い位置にある。
外の景色は、ほとんど見えない。空と、遠くの屋根がわずかに見えるだけだ。
王都の全体を、この目で見たことはない。
それでも。
「……行けない、よね」
ぽつりと呟く。
この塔から出ることは、許されていない。
理由は知らない。
けれど、それが当然のこととして扱われている。
だからこそ。
「……余計に気になる」
視線を、もう一度地図へ戻す。
空白の一点。
そこだけが、どうしても引っかかる。
理由は分からない。
けれど──
「……ここ、行ってみたいな」
それは、ただの好奇心だったのかもしれない。
あるいは。
もっと別の、名前のつけられない衝動だったのかもしれない。
***
世界は、続いている。
何事もなかったかのように。
けれどその足元には、確かに欠けた何かがある。
そして、その違和感に気づいている者は──まだ、一人しかいなかった。
初めまして、「夜雨さく」です。
この作品を手に取ってくださり、本当にありがとうございます。
こうした形で作品を投稿するのは初めてになります。
まだ不慣れな部分もありますが、この物語を丁寧に紡いでいけたらと思っています。
本作は少し静かで、内面に寄った物語になっています。
多くの方に読んでいただけたら嬉しいですが、それ以上に——この物語が、誰か一人の心に深く残るものになれば。そんな想いで書いています。
もし気に入っていただけたなら、これからも見守っていただけると幸いです。




