にちようび
台所の蛍光灯は、朝にしては冷たすぎる光を放っていた。篤志は焦げたトーストをつつき、ため息をひとつ落とす。昨夜は仕事を持ち帰ったが、ほとんど進まなかった。会社では空気を読みすぎて疲れ、家では言葉を選びすぎて黙り込む。どちらでも「うまくやれていない」という感覚だけが積み重なっていく。
制服姿のまま、美咲がリビングに顔を出した。
「パパ、また焦がしてる」
軽く笑ったあと、ふと真顔になる。
「……最近、疲れてるでしょ」
その一言が胸に刺さったまま抜けなかった。
土曜の夜、篤志は古い自転車を磨いた。若い頃、仲間と夜の街を走り回った記憶が、錆びたフレームの奥にまだ残っている。ギターを弾いていた時期もあった。夢中で音を鳴らしていた自分が、確かにいた。
「明日は……どこか行くか」
呟いてみても、返事はない。
翌朝。玄関のチャイムが鳴った。日曜日の朝に訪ねてくる人間などいないはずだった。
扉を開けると、派手なシャツにギターケースを背負った青年が立っていた。どこか懐かしい匂いがした。
「アンタ、ちょっと走りに行かない?」
青年は軽く笑った。
「日曜日の使者ってやつだよ」
意味がわからないまま、篤志は自転車にまたがっていた。青年はギターを鳴らしながら並走する。朝の街は静かで、風だけが二人の間をすり抜けた。
「娘さんのこと、気にしてるんだろ」
青年は突然言った。
「でもさ、言葉にしなきゃ伝わらないよ。不器用でも、格好悪くても、声にしないと」
ペダルを踏む足が止まった。胸の奥で、固く結ばれていた何かがほどける音がした。
「そんな簡単に言えたら苦労しない」
「簡単じゃないから、言うんだよ」
青年はギターを鳴らし、朝の空に音を放った。その響きは、若い頃の自分が鳴らしていた音に似ていた。
その瞬間、篤志の脳裏に、ひとつの記憶がよみがえった。仲間と演奏した小さなライブハウス。スポットライトの熱。観客の歓声。あの頃の自分は、言葉より先に音で気持ちを伝えていた。
家に戻ると、美咲がリビングでテレビを見ていた。篤志は深呼吸をした。
「なあ、美咲」
娘が振り向く。
「パパさ……お前のこと、大事に思ってる。うまく言えないけど、ほんとに」
美咲は驚いたように目を瞬かせた。そして、小さく笑った。
「知ってるよ。パパ、言葉にするの苦手だもん」
その笑顔は、幼い頃と同じだった。
――その頃、美咲はふと思い出していた。小学生の頃、転んで泣いた自分を、父が不器用に抱き上げてくれた日のこと。ぎこちない手つきだったけれど、あの温度は忘れられない。父はずっと、言葉より先に行動で示してきたのだ。
篤志は気づいた。日曜日の使者は、あの青年だけじゃない。
自分の言葉を待っていた娘こそが、ずっと前からの使者だったのだ。
窓の外では、朝の光が強くなっていた。ふと耳を澄ますと、遠くでギターの音が聞こえた気がした。振り返っても、青年の姿はどこにもなかった。
篤志は久しぶりに、自転車のハンドルを握り直した。次の日曜日は、もっと遠くまで走れる気がした。
そのとき、美咲が小さく呟いた。
「ねえパパ、今度の休み、どこか行こうよ」
光が、部屋いっぱいに満ちていった。




