図書館司書見習い、試験漏洩犯にされました。――だから記録で黙らせます
◆
試験が終わった日の廊下は、静かなはずだった。
なのに、安心しきった笑い声がした。
採点前の笑い方じゃない。
私は返却台で本を受け取りながら、その笑い声を一度だけ数えた。
三つ。
同じ方向。
同じ調子。
違和感は、いつも地味だ。
地味だから消えない。
そして、その地味な違和感は――私の名前に繋がっていた。
「図書館の司書見習いが、試験問題を漏らした」
そう囁かれているのが、私だ。
エリシア・グレイ。
噂は風だと言う人がいる。
でも学院では、風が紙を動かす。
紙が動けば、人が動く。
人が動けば、居場所がなくなる。
だから私は、その日のうちに決めた。
言い返すより先に、確かめる。
噂の中で溺れる前に、噂の外側に「動かないもの」を並べる。
動かないものは、記録と痕跡だ。
◆◆
夕方、図書館の扉を閉める前に、アルト・カミーユが来た。
首席候補。
背筋が良く、目が疲れている。
努力で自分を保っている人の目だ。
「……エリシア」
私を名で呼ぶのは珍しい。
彼は普段、立場に沿った呼び方をする。
「何か、ありましたか」
アルトは口を開いたまま、言葉を探した。
探している間に、喉が一度鳴る。
「君のこと、聞いた」
「噂なら、もう耳に入っています」
私が先に言うと、彼は少しだけ救われた顔をした。
救われたのは私ではなく、彼の罪悪感だ。
「……試験問題を、図書館で流したって」
言い切れなかった。
言い切れば、彼が私を刺すことになるから。
私は返却台の奥に手を伸ばした。
帳面を出すためではない。
閉館の札を裏返すためでもない。
ただ、視線の置き場を作るため。
「アルト様。質問を変えてもよろしいですか」
「……何」
「誰がそう言いましたか。具体的に」
アルトは答えなかった。
答えないのは、守るものがあるからだ。
「君は否定しないのか」
「否定します。でも、叫びません」
叫びは、噂に燃料を渡す。
燃料を渡した瞬間、噂は増える。
「試験問題は、図書館では管理していません。本館の保管庫です。鍵と封印がある。図書館の鍵では触れない」
「でも……図書館で、勉強会が――」
「勉強会は場所です。問題は、誰が“出題を知っていたか”です」
アルトの眉が動いた。
彼は賢い。だから傷つく。
「君は……僕を疑わないのか」
「疑いません。あなたが怖いのは『落ちること』より『疑われたまま終わること』でしょう」
アルトは、返事の代わりに長く息を吐いた。
当たっているとき、人は長く息を吐く。
「……教えられた。読む場所を。何度も、同じ型で」
型。
その一言で、廊下の違和感が輪郭を持った。
「誰に」
アルトは首を振った。
「言えない」
「言わなくていいです」
私は、彼を追い詰めたいわけではない。
欲しいのは名指しではなく、輪郭だ。
「代わりに、今日から“その勉強会”に行かないでください」
「……どうして」
「あなたが正しいなら、あなたの答案はあなたのものとして立ちます。もし正しくないなら――行き続けた瞬間に、あなたの手も汚れます」
アルトは硬い顔のまま、頷いた。
頷きは、私にとって最初の「確認」になった。
彼は主犯ではない。
主犯は、彼に「型」を配れる位置にいる。
◆◆◆
翌朝、私は本館の保管庫の前にいた。
立会いの時間ではない。
でも掃除が入る時間に近い。
つまり、落ちたものが消える前だ。
床には、赤黒い点が散っていた。
欠片が見当たらない。
代わりに、粉だけが残っている。――細かすぎる。
私はしゃがんで、ハンカチの端を湿らせた。
そっとすくい、紙片に包む。
そのとき、背後に足音がした。
「何をしている」
振り向くと、ヴァレリー監察官が立っていた。
元教師。
今は学院の裏側を保つ人。
表情に温度がないのは、冷たいからではない。余計を削っているだけだ。
「落ちていたので」
「拾う理由は」
「消える前に、確認したいんです」
「……噂の件か」
「はい。私の名前が出ています」
ヴァレリー監察官は私ではなく、床の赤黒い点を見た。
次に、保管庫の鍵穴を見た。
「鍵穴も見たか」
「見せていただけますか」
彼は躊躇しなかった。
信用しているからではない。
価値があると判断したからだ。
扉が開く。
鉄と古紙の匂いが押し寄せる。
鍵穴の縁に、細い筋が走っていた。
一本ではない。
同じ方向に、いくつも。
力任せなら荒くなる。
これは丁寧すぎる。
「……型取りか」
ヴァレリー監察官が低く言った。
私は頷いた。
粉と傷。
二つの痕が、同じ方向を指し始める。
◆◆◆◆
監察室は乾いていた。
紙の匂いより、規程の匂いが勝っている。
机の上に置かれた書類には、もう文言が並んでいた。
――事情聴取。
――試験問題漏洩の疑い。
――エリシア・グレイ。
学院では、噂が先に走るのではない。
紙が先に走る。
「否定するか」
「否定します」
「言い返すか」
「言い返しません」
ヴァレリー監察官の目が、わずかに細くなる。
「なら、どうする」
私は、包んだ紙片を机の中央に置いた。
最初から“物”を置けば、話は物の上で進む。
「封印が、やり直されています」
「根拠は」
「欠片が少ない。粉が多い。割れただけなら欠片が残ります。粉ばかりなのは、一度割ってから削ったか、砕いたかです」
ヴァレリー監察官はペンを取った。
書く。
書く人は、少なくとも今は嘘を嫌う。
「続けろ」
「鍵穴に、一定方向の擦り傷があります。こじ開けた傷ではありません。合鍵を作るか、鍵を複製するために触った痕です」
「……」
「そして、夜に動いた者がいます。灯油台帳を見れば分かります」
ヴァレリー監察官は、ほんの少しだけ息を吐いた。
段取りを組む呼吸だ。
「……お前は、自分の名誉のために動くのか」
「図書館の信用のためです。学院の信用のためでもあります」
「立派だな」
「立派ではありません。燃えたくないだけです」
燃やせば早い。
でも早い火は、巻き込む。
私は断罪をしたいわけじゃない。
犯人を潰すより、二度と同じことが起きない形にしたい。
「分かった。灯油台帳を持ってこい」
◆◆◆◆◆
灯油台帳は、重かった。
紙が厚いせいではない。
積み重なっているのが、数字ではなく「夜」だからだ。
運ばれてきた台帳を開く。
日付。数量。受領者。署名。
整然と並ぶ。
整然としているのに、整然としすぎるところがある。
それが、数字の嘘だ。
私は試験前週に指を滑らせた。
増えている。
確かに増えている。
でも――増え方が、揺れていない。
火は揺れる。
人の手も揺れる。
揺れないのは、作ったときだ。
「……不自然に、整っています」
「どこが」
「二割、三割、みたいな増え方です。現場は割合で増えません。必要で増えます」
署名欄に目を移す。
そこに多い名前。
ミュラー。
印章係の事務官。
でも私は、名前で決めない。
名前で決めた瞬間、話が燃える。
「夜に灯りがあった。記録の上で、印章係の署名が増えている。……つまり、封印に触れる立場の者が夜に動いています」
ヴァレリー監察官が頷いた。
「当直日誌も見たいです」
◆◆◆◆◆◆
当直日誌は薄い。
薄いのに、内容は重い。
見回り。異常なし。
鍵確認。異常なし。
騒音。なし。
私は灯油の増えた日と照合した。
異常なしが続く。
異常がないのに、灯油は増える。
誰かが動いた。
でも当直は気づかなかった。
気づけないように動いたか、気づかないふりをしたか。
私は、保管庫付近の記述が曖昧な夜が続いているのを見つけた。
「夜半」「深夜」
具体を嫌う言葉。
「当直が共犯だと決めるには早いです。でも、保管庫付近の記述が薄い夜が続いています」
「圧がかかった可能性」
「はい。圧をかけられるのは、立場が上の者です」
ヴァレリー監察官は、黙って記録した。
黙って記録する人は、怖い。
怖いのは、感情で動かないからだ。
◆◆◆◆◆◆◆
午後、私は図書館に戻った。
図書館は、いつも通りだった。
いつも通りに見えるものほど、危ない。
学生たちは本を借り、返し、席に座り、ため息をつく。
その中に、私を見る視線が混じる。
噂が、目になっている。
私は、その目に向かって言い訳はしない。
言い訳は、目を喜ばせる。
やるべきことは、別だ。
私は貸出記録の棚に手を伸ばした。
帳面を抜く。
試験範囲の週。
借りた者は多い。
多いのは異常ではない。
異常は、偏り方だ。
努力の人は広く借りる。
答えを知っている人は狭く借りる。
そして、「型」を渡されている人は、狭い範囲を同じ時期に借りる。
私は、同じ分野の参考書が同じ日に集中して動いている箇所を拾った。
名前が並ぶ。
学科が違う。
寮も違う。
なのに、ある一点で繋がる。
同じ研究会。
同じ集まり。
さらに、一般閲覧できない実務資料の「許可欄」を見る。
そこに、同じ許可印が続いていた。
副学院長ヘルマンの許可印。
胸の奥が少し冷える。
冷えるのは嫌悪ではない。
危険の温度だ。
副学院長は、学院の父の顔をしている。
父の顔の人を疑えば、こちらが悪者になりやすい。
だから今は、口にしない。
口にした瞬間、風が火になる。
私は帳面を閉じた。
閉じる音が、思ったより大きかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
夕方、アルトがまた来た。
今日は一人だった。
「……行かなかった」
「勉強会に?」
「うん。行かなかった。……そしたら、視線が変わった」
「変わりましたか」
「ああ。“裏切り者”を見る目に」
彼は苦く笑った。
笑いは、痛みを薄めるためのものだ。
「あなたは裏切っていません。汚れない道を選んだだけです」
「正しい方向って、報われるのか」
「報われるようにします。あなたを英雄にするためではなく、学院が燃えないために」
アルトは少し黙ってから言った。
「……教える人は、教師じゃない。でも教師みたいに話す人だった。自信があって、正しいことを言ってる顔」
私は頷くだけで返した。
頷くだけで十分だ。
「口癖は?」
「『学院のためだ』って。何度も。『学院のために、型を身につけろ』って」
学院のため。
旗にも、免罪符にもなる言葉。
「問題そのものは見ましたか」
「見てない。見せられたのは、論点と書き方だけ」
型。
やはり、型だ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夜、私はヴァレリー監察官に呼ばれた。
「貸出記録の偏りは見たな」
「はい。許可印も」
「灯油台帳の署名も動かない。ミュラーが夜に動いた」
「でもミュラーだけでは、動機が薄い」
「動機を語れば推測になる。なら、確定させろ。型の出どころを」
私は息を吸った。
「……おとりが必要です」
「どう置く」
「犯人は正規箱を狙います。そこを外すと、噂に負けます」
ヴァレリー監察官の目が、わずかに細くなる。
彼は、机を軽く叩いた。
「続けろ」
「正規箱に、問題束だけでなく、教師用の指示書が入っているなら――そこを餌にできます」
ヴァレリー監察官は引き出しを開け、封蝋の跡がある封筒を一通出した。
表に短く書かれている。
『教師用指示書』
「箱には、問題束だけが入っていると思われがちだ。だが違う。監督官の手順、配布の順、採点観点。争いを避けるための“型”が入る」
「だから、盗む者は問題より“型”を覗く」
「ああ。答えを渡すより、型を配るほうが、表向きは綺麗に見える」
そして彼は、もう一通の封筒を見せた。
赤い印。
『原本』
「これには必ず“親”がある。改竄や事故に備えて、同文の原本が別に保全されている。箱に入れるのは運用用だ」
試験は揺れないようにできている。
揺れるのは、夜に覗く者のほうだ。
「なら……運用用だけを、すり替えられます」
「夜に偽物を食わせ、朝に本物へ戻す。試験は無傷で、相手だけが痕を残す」
私は頷いた。
「偽物には、答案に出る印を仕込みます。ありそうで、ないものを」
「やれ。ただし気づかれるな」
「はい」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜、私は書庫の奥で紙を広げた。
教師用指示書は短い。
短いぶん、癖が出る。
癖が出るから、真似るのが難しい。
でも私は、癖を見る仕事をしている。
私は“運用用”の封筒を作り直した。
中身は、採点観点の箇条書き。
――ここを押さえろ。
――この語を使え。
――この順で書け。
そして最後に、小さな針を刺す。
「第七付記に照らして」
魔法理論総則に第七付記はない。
でも、ありそうな顔をしている。
人は“ありそう”を信じる。
信じたものは、手に残る。
私は透かし紙を細く裂いて、封筒の内側に挟んだ。
繊維は見えない。
見えないから移る。
封をする。
封蝋は、学院のものに似せた色。
ただし、割れた粉の角が違う配合。
冷えるのを待つ。
待つ時間は短いほどいい。
短いほど、余計が入らない。
封蝋が固まった。
私は封筒を持って、ヴァレリー監察官のもとへ行った。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
正規の試験箱の部屋は、夜でも重い。
ヴァレリー監察官は規程通りに開封し、監察記録に残した。
記録に残すから燃えない。
燃えない形にしないと、こちらが燃える。
箱の中には、問題束が整然と入っている。
その隅に、教師用指示書の封筒が一通。
本物の運用用封筒を取り出し、金庫へ。
偽物を同じ場所へ滑り込ませる。
「これで、夜に覗く者は“こっち”を覗く」
「問題に触らなくても、勝てる型が手に入る」
「だから、覗く」
ヴァレリー監察官は封印をやり直した。
手つきが綺麗すぎる。
綺麗なのは、痕を残さないためだ。
「朝には戻す」
「はい」
「見張るな。見張りは相手を警戒させる」
「痕だけ拾います」
彼は一度だけ頷いた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
翌日、夕方。
アルトが言った。
「……今夜、“確認する”って」
確認。
学院のため。
正しい顔の言葉。
私は頷くだけで返した。
頷くだけで十分だ。
夜。
私は本館の影にいた。
息を潜めるのではない。
普段通りにする。
普段通りのほうが、影は濃い。
足音が来る。
急がない。
迷わない。
鍵の音。
二度。
封印に触れる、ほんの小さな擦れ。
扉が開く。
閉まる。
足音が去る。
私は追わない。
追うのは人だ。
拾うのは痕だ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
翌朝、ヴァレリー監察官と試験箱を点検した。
封蝋の周りに、薄い粉が落ちている。
偽物の封蝋の粉だ。
角が、わずかに立っている。
「……触られた」
「はい。割って、戻しています」
ヴァレリー監察官はそこで箱を開けない。
開ければ、こちらの痕が増える。
「点検はここまで。朝の交換をする」
監察権限で封印点検を記録し、箱を開ける。
偽の封筒を回収。
金庫の原本から作った“本物の運用用”を戻す。
問題束は一切触れない。
触れないから、試験は揺れない。
「これで、教師は本物を見る」
「夜に覗いた者だけが、偽物を覚える」
「答案に出る」
「出ます」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
試験が終わったあと。
私は採点前の答案を、必要な分だけ見た。
監察官の立会いのもとで。
紙をめくる。
めくる。
めくる。
三枚目で、手が止まった。
「第七付記に照らして」
ありもしないものが、堂々と書かれている。
堂々としているのは、信じたからだ。
信じたのは、教えられたからだ。
私は下書き紙の端を見る。
指の跡。
微細な繊維。
透かし紙の繊維が、ひっかかっている。
息が冷たくなる。
冷たいのは、正解の温度だ。
私は写しを取った。
必要な箇所だけ。
必要な形で。
そして、監察室へ向かった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「見つけたか」
「はい」
机に並べる。
答案の写し。
下書きの繊維。
封蝋の粉。
並べると、順番が勝手に整う。
「おとりが使われました」
「第七付記」
「はい。こちらが仕込んだ言い回しです」
「範囲は絞れた」
「正規箱に触れられる者に。封印と鍵に触れられる者に」
ヴァレリー監察官はペンを置いた。
「次はどうする」
私は息を吸った。
「断罪はしません」
「逃げ道を残すのか」
「残します。残さなければ、相手は噛みつきます。噛みつけば、こちらが噛み返さないと止まらない」
「噛み返したら、燃える」
「はい」
ヴァレリー監察官は、机の端を軽く叩いた。
「呼ぶ。副学院長だ」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
副学院長ヘルマンが来たのは夕方だった。
扉を叩き、許可を得て入る。
律儀な仕草。
律儀な仕草は信頼を作る。
信頼は便利だ。
便利だから、使われる。
「ヴァレリー君。呼び出しとは珍しいな」
柔らかい声。
柔らかい声は、相手の刃を丸める。
ヘルマンは私を見て、ほんの少し驚いた顔をした。
「……司書見習い?」
ヴァレリー監察官が椅子を示す。
ヘルマンは座る。
責められると思っていない座り方だった。
「さて。噂の件かね。気の毒に。若者は時に――」
「副学院長」
ヴァレリー監察官の声が、噂の方向を切った。
噂の話に乗せない。
乗せれば燃える。
「期末試験の保管手順について確認したい」
「もちろん。学院のためだ」
学院のため。
言葉が、静かに落ちる。
私は、机の上に答案の写しを一枚だけ置いた。
最初は一枚。
一枚で足りる話から始める。
「この文言に見覚えは?」
ヘルマンの目が紙に落ちる。
落ちて、止まる。
止まるのは、知っているときだ。
”第七付記に照らして”
「……それがどうした」
「魔法理論総則に第七付記はありません」
私は淡々と言った。
淡々と言うのは冷たくするためではない。
相手に“感情の逃げ道”を与えないためだ。
「この言い回しは、昨夜だけ箱に入っていた偽の教師用指示書に仕込みました。つまり、夜に箱を覗いた者が、その型を配っています」
ヘルマンの口角がわずかに動いた。
笑いではない。
苦味だ。
「罠、か」
「確定のためです。推測で人を燃やしたくない」
ヴァレリー監察官が、灯油台帳の写しを置いた。
「試験前週、保管庫周辺で灯油払い出しが増えている。署名は印章係ミュラー。夜に動いた記録だ」
ヘルマンは指で机を一度叩いた。
癖。
計算の仕草。
「結局、何が言いたい」
ようやく問いが本題に来た。
本題に来たら、こちらは短く答える。
「学院を燃やさずに終わらせたいです」
私が言った。
ヘルマンが私を見る。
初めて、“図書館の鼠”ではなく“現実”として見てくる。
「なら、犯人を捕まえればいい」
捕まえる。
簡単な言葉ほど燃える。
私は首を横に振った。
「捕まえれば、学院の信用が燃えます。試験の信用も燃えます。燃えれば、真面目に学んだ人が損をします」
「……」
「だから、取引を」
ヘルマンの目が細くなる。
細くなるのは、反射だ。
守りに入る前の反射。
私は条件を並べた。
感情を乗せない。
数字と手順で並べる。
「副学院長は辞任してください。理由は健康上で構いません」
ヘルマンの眉が、わずかに動く。
それでも私は続けた。
「該当答案の受験者は、名誉が傷つかない形で再試験。保管と封印の手順は改訂します。鍵と封印を一人の裁量にしない。監査も入れる」
「口外は?」
「しません。学院のために」
学院のため。
相手が盾にした言葉を、こちらは刃を鈍らせるために使う。
ヘルマンは長く黙った。
拒めば、理事会へ行く。
理事会へ行けば、炎上する。
炎上すれば、寄付が止まる。
寄付が止まれば、学院が揺れる。
受ければ、体面は残る。
炎上はしない。
制度だけが変わる。
影響力は減るが、学院は残る。
――学院のため。
彼は、ほんの少しだけ肩を落とした。
落とし方が、敗北ではない。
撤収だ。
「……分かった」
その言葉が、部屋の空気を変えた。
柔らかくはならない。
ただ、燃えなくなる。
「ただし」
ヘルマンが言った。
「再試験は“生徒の責任”にするな。手順の不備として処理しろ。優秀な芽を折るな」
私は頷いた。
「そのつもりです。折りません。戻すだけです」
ヘルマンは立ち上がった。
背筋はまだ伸びている。
伸びているのは、自分に言い聞かせるためだ。
扉の前で、彼は振り返った。
「君は……何が欲しい」
私は少し考えてから答えた。
欲しいものは、最初から一つだ。
「図書館が、いつも通り開くことです」
ヘルマンは微かに笑った。
今度の笑いは、皮肉ではない。
「……なら、私は退こう」
扉が閉まる。
風も火も、ここには入ってこない。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
辞任の発表は、二日後だった。
掲示板に貼られた紙は、よくある文言だった。
健康上の都合。
後任は未定。
学院運営に支障なし。
よくある文言は、よく効く。
よく効くから燃えない。
再試験の告知も出た。
理由は「保管手順の不備が確認されたため」。
個人名はどこにもない。
噂は燃料を失う。
「誰がやった」ではなく、「手順が悪かった」。
綺麗事ではない。
この国の多くのものは、そうやって燃えずに残ってきた。
図書館の空気は、数日かけて戻った。
視線が刺さる回数が減る。
囁きが別の話題に移る。
人は残酷だ。
でも、人は飽きる。
飽きるからこそ、燃やさずに済む。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ミュラー事務官は、ほどなくして辞表を出した。
理由は「家庭の事情」。
家庭の事情も、よくある文言だ。
よくある文言は、よく効く。
彼がどこまで使われていたのか。
誰が最初に命じたのか。
私は、最後まで確かめなかった。
確かめなくても、手順は変わった。
手順が変われば、同じ形の悪さは繰り返しにくい。
それで充分だと思う。
思いたい。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
アルトが来たのは、再試験の告知が出た日の午後だった。
彼は掲示板の紙を握りしめたまま、図書館の奥に入ってきた。
怒っているようで、安堵している顔。
「……噂が薄くなった」
「薄くなれば、十分です。噂は消えません。居場所を失うだけです」
アルトは紙を見た。
「手順の不備、か」
「あなたの名誉を守るためです」
「僕の?」
「真面目に学んだ人の。あなたも含めて」
アルトは唇を噛んだ。
「……僕は卑怯だった」
「卑怯ではありません。汚れない道を選びました」
「でも、あの集まりの仲間は」
「再試験があります。そこで、あなたの字を見せてください。あなたの字は、あなたのものです」
アルトは、ようやく頷いた。
頷きは、重さを引き受ける動作だ。
「君は……怖くなかったのか」
「怖いです」
私は正直に言った。
怖くないと言えば嘘になる。
「でも、怖いままでも、順番は守れます」
アルトは苦く笑って、そして少しだけ笑顔になった。
「……司書って、変だ」
「変でないと、本は守れません」
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
保管手順は変わった。
鍵は一人が持たない。
封印は複数人で行う。
立会いの記録は二重に残す。
灯油台帳は当直日誌と照合して監査する。
地味な変更だ。
地味だから効く。
そして地味な変更は、誰も英雄にしない。
英雄がいないから燃えない。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
ある夕方、ヴァレリー監察官が図書館に来た。
返却台の前ではなく、奥の書庫の入り口に立っていた。
書庫は余計な耳が届かない。
「お前の採用が決まった」
彼が言った。
私は、手にしていた本をそっと棚に戻した。
戻す音が、いつもより丁寧になる。
「正式な司書、ですか」
「そうだ。見習いは外れる」
「……ありがとうございます」
言った瞬間、胸の奥が緩んだ。
緩んだのは勝ったからではない。
終わったからだ。
ヴァレリー監察官は私を一度見て言う。
「お前は、誰も燃やさなかった」
「燃やしたくなかっただけです」
「それでいい。学院は、燃やして立て直すには大きすぎる」
私は頷いた。
大きすぎるものは、手順でしか動かない。
「次も、記録で戦え」
「はい」
「そして、今度は――」
ヴァレリー監察官は、ほんの少しだけ言葉を切った。
「自分も守れ。図書館だけじゃない」
私は返事の代わりに深く息を吸った。
吸って、吐く。
「守ります。戻る場所が、ここにあるので」
ヴァレリー監察官は何も言わず、去っていった。
背中は相変わらず真っ直ぐだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
その夜、図書館の灯りを落とす前に、私は返却台の帳面を開いた。
借りた名前。
返した日付。
破れたページの修繕記録。
誰も見ない欄。
誰も褒めない欄。
でも、そこに世界がある。
噂が吹く。
紙が動く。
人が揺れる。
それでも、帳面は並ぶ。
並べれば、風は通り過ぎる。
私は帳面を閉じた。
閉じる音は小さい。
小さい音は、火種にならない。
明日も図書館は開く。
それでいい。
それがいい。
私は扉に手をかけ、鍵を回した。
二度。
同じ音。
同じ順番。
順番が守られている限り、学院は燃えない。
私はそう信じて、夜の廊下を歩いた。




