第57話 『因縁の対峙』
森の中を、三人は林道に沿って歩いていた。
鳥の声と、木漏れ日がざわめく緑の匂い。
「……なんだか、懐かしいね」
ぽつりと呟くと、イザナが短く「あぁ」と応じ――すぐに口を開いた。
「……ラマティ、前に……あの路地裏で言ったこと、すまなかったな」
「……なにが?」
振り返る僕に、イザナは苦い顔で答える。
「子供を助けるな、中途半端な善意は余計に傷つける――って言ったことだ。あんなふうに言ったのは、悪かった」
――ああ……そういえばそんなこと言われたっけ。……正直、気にしてなかったし、すっかり忘れてたけど。
「うん、いいよ。あのときの僕だって、ただ助けたいって気持ちだけで動いてた。無責任だったかもしれないし」
その横で、レイヴェルがふっと笑った。赤い瞳が森の木漏れ日を反射して、やけに澄んで見えた。
「――優しさには、責任がついて回るんだよ。……希望もない絶望しかない世界で、ほんの一瞬だけ優しくされれば、人は希望を見る。だけど――そのあとで見捨てられたら、その希望は絶望よりも深い傷になる。――だからこそ、優しさは最後までやり切る覚悟と一緒じゃなきゃいけない」
その声音は、いつもの無邪気さを潜め、大人びたものだった。
――その直後、林道の先がふっと開ける。
木々の切れ間から差す光に、イザナが目を細めて低く呟いた。
「……もう、着いたか」
僕は思わず息を呑み、視線を前に向ける。
「……まだ、あったんだね……」
そこに広がっていたのは――一見するとただの小屋だった。
だが、その質素さがかえって惨めさを際立たせていた。
丸太を組んで無理やり建てられた木造の小屋は、家というよりも獣を閉じ込める檻に近い。
壁は隙間だらけで、ところどころ板が歪んでいる。だが外周を囲むのは錆びた鉄杭と有刺鉄線で、逃げ場は徹底的に潰されていた。
その入口には――監督役がいた。
分厚い革鎧に身を包み、手には節くれだった棍棒。
顎に無精髭を生やし、煙管を咥えている。
煙を吐き出しながら、退屈そうに腰掛け、時折小屋へ視線を投げては鼻で笑っていた。
「……おい、監督役」
イザナが低く声をかける。
「随分と偉そうに座ってやがるな。――あのときは世話になったじゃねぇか」
「あぁ?」
男は眉をひそめ、こちらを睨む。
「お前、誰だ? 奴隷を買いに来たのか、それとも仕事を頼みに来たのか?」
イザナは鼻で笑い、黒衣の裾を揺らしながら一歩踏み出した。
「……俺はイザナだよ。忘れたのか? あのとき、めちゃくちゃ棍棒でぶっ叩いてくれたじゃねぇか」
その名を聞いた瞬間、監督役の目が大きく見開かれた。
「いざな……!? ば、馬鹿な……お前……なんで生きてる……!? それに、その姿……あのときとは……全然……!」
イザナは鼻で笑い、肩をすくめる。
「まあ、そうだろうな。なんもわからんガキ奴隷を追い出したら――普通は野垂れ死ぬ。病気持ちだった俺なら、なおさらな」
その声に合わせ、イザナは足を振り抜き、監督役が腰掛けていた椅子を派手に蹴り倒した。
「ひぃっ!」
男が情けない悲鳴を上げ、棍棒を握り直す。
その緊迫の中――僕はじっと監督役を見据えた。
「……それ、吸ってるの……大麻だよね? まだ……奴隷に麻薬と酒を与えて、感覚を麻痺させてるの?」
空気が凍り付いた。
監督役の指がわずかに震え、紫煙が揺らぎながら消えていく。
「……うるせぇガキが」
血走った目で僕を睨み、唾を吐き捨てる。
「ああ、そうだ。お前みたいな肌が白くて金髪の幼女は……売れば高くなる。だがその前に――少し痛めつけてやるわ」
ぎし、と椅子を蹴り飛ばして立ち上がる。
手にしていた棍棒を地面に放り投げ、懐へと手を突っ込む。
引き抜かれたのは、刃こぼれした短いナイフ。
鈍い光が木漏れ日に反射し、きらりと嫌な輝きを放った。
イザナの表情が一変する。
冷ややかな眼差しが監督役を射抜き、低く吐き捨てた。
「……おっさん、それは笑えねぇわ」
「黙れ! 病気持ちで捨てられたお前なんざ、話にもならねぇんだよ!」
怒号と共にナイフを握り直し、肩を大きく振りかぶる。
次の瞬間――荒々しい足音が土を蹴り、監督役は一直線に襲いかかってきた。
ひゅ、と風を裂く音。
イザナの身体はもう動いていた。
懐から抜き放たれた刺身包丁が、月光のように鋭く閃く。
「……ナイフ向けてんだ、死んでも文句は言えねえぞ」
振り下ろされたナイフの軌道に滑り込み、刃が閃光を描いた。
次の瞬間――肉を裂く鋭い音とともに、監督役の右腕が肘から下ごと宙を舞った。
「ぎッ……ああああああああッ!!」
短い悲鳴と共に、血飛沫が地面に散り、赤黒い塊が土の上に転がる。
ナイフはその手から離れ、乾いた音を立てて落ちた。
手首を――いや、腕の断面を必死に抑えて後ずさる監督役の目に、初めて恐怖が浮かぶ。
イザナは一歩踏み出し、包丁を構え直した。
その眼差しは氷のように冷たく、声には怒気が滲んでいた。
「……てめぇみたいなクズの刃なんざ、俺の仲間に触れさせるかよ」
思わず声を呑み、背筋を震わせる。
――こんなイザナ、初めて見る。
恐怖に近い感覚が胸をざわめかせるけど……分かる。
僕も虚弱体質だったから扱いは酷かったけど、イザナは病気持ちって理由で、もっと酷い目にあってた。殴られ、蹴られ、笑われ……その鬱憤が、今の冷たい刃になってるんだろう。
監督役は断面を押さえ、血を滴らせながら歯を剥き出した。
「……クソガキがァ! 奴隷の分際で、お前らは家畜だろうがッ! 生まれついてのゴミが、調子に乗るんじゃねぇぇぇッ!」
唾を飛ばし、怒鳴り散らす。
だがイザナは一瞥し、見下すように冷ややかに吐き捨てた。
「……ゴミ? お前が言うなよ」
その声音には、嘲りと静かな怒気が入り混じっていた。
嘲りの言葉がまだ空気に残るうちに――。
「あははっ……」
軽やかな笑い声とともに、レイヴェルが一歩前へと進み出た。
幼い顔に無邪気な笑みを浮かべながら、すっと片手をかざす。
その掌から、漆黒に燐光を帯びた紫の靄がふわりと湧き出した。
霧のように揺らめくそれは、意志を持つ蛇のように監督役の四肢へと絡みつく。
「な、なに……ぐっ……!? 身体が……動か……っ」
声を上げる間もなく、靄は彼の体を絡め取ると、一瞬で吸い込むように消え去った。
残ったのは、膝をつき、力なく項垂れる監督役の姿。
僕は目を見開き、思わず声を上げた。
「え……いまの……なにをしたの……?」
レイヴェルは軽く肩を竦め、赤い瞳を細める。
「……魔族の魔法だよ。まあ、あんまり使いたくないんだけど……」
表情は子どものようにあどけないのに、その声音だけは妙に冷ややかだった。
「まあ、対象の行動を制限する――それだけの魔法さ」
その言葉の直後、レイヴェルの表情がぱっと明るく変わった。掌をぱん、と一度だけ打ち鳴らす。
にかっと弾けるような笑みを浮かべて、いたずらっぽく言った。
「というわけで――君はもう奴隷の取引も、奴隷を使うこともできなくなった! それに腕もね、優しいイザナくんが綺麗に切ってくれたから……今から医者にかかれば、たぶんまだくっつくと思うよ?」
「……誰が優しいだと」
イザナは心底嫌そうな顔をして、ため息混じりに吐き捨てた。
「ひ、ひぃぃぃッ……!」
監督役は血走った目を泳がせ、落ちていた自分の腕を慌てて抱え上げる。
よろめきながら背を向け、泥に足を取られつつも、街の方角へと消えていった。
残された静寂の中で、僕は小さく息を吐き、苦笑いを浮かべた。
「……イザナとレイヴェルが優しくてよかったよ。ダンも一緒だったら……あの人、もっと酷いことになってたかも」
イザナは鼻で笑い、刃先についた血を払った。
「優しくてこのザマだ。――ざまぁねぇぜ。クズは最後までクズらしく、這いずって惨めに生き延びるんだな」
その瞬間――頭の奥底で、声が響いた。
《あなたは、何もしなくてよかったのですか》
一瞬固まり、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
……そんなふうに言われても。
やがて小さく肩を竦め、苦笑いを浮かべる。
「……いいんだよ。イザナがやってくれたし、僕が無理に出しゃばることじゃない。どっちにしたって……この先、あの人の運命は、きっと残酷だよ」




