第53話 『招かれざる訪問者』
――柔らかな温もりに包まれている。
ふかふかの寝具が背を支え、長い夢からようやく浮かび上がるように、僕はゆっくりと瞼を開いた。
最初に目に映ったのは、見覚えのない木目の天井だった。
「……ここは……」
ゆっくりと首を傾けると、壁一面にそびえる本棚が目に入った。
鼻をかすめるのは、果実の甘やかな香り。視線を巡らせると、テーブルの上に山のように盛られたフルーツがあり、その横で――。
イザナが座っていた。
片手にリンゴを持ち、もう片手には見慣れた刺身包丁。滑らかに刃を走らせて皮を剥いていたが――その手が、不意に止まった。
僕が目を開いたのを見て、イザナの瞳がわずかに揺れる。
「……起きたか」
言葉はいつも通り低く、淡々としていたが、わずかに驚いた様子をした。
僕は小さく笑みを浮かべ、囁くように呟いた。
「僕は……長い間、夢を見ていたようだったよ。……とても気持ちがいいね、この布団。それに――なんだかお腹が空いた」
「……そうだよな」
イザナはわずかに息を吐き、視線を逸らしながらリンゴを切り分ける。
「三週間も寝てたんだ。……そりゃ、腹も減る」
そう言って、切ったリンゴを楊枝に刺し、ぎこちなく差し出してきた。
「……さん、しゅうかん……?」
僕は目を瞬き、差し出された果実を見つめたまま呟く。
「ああ」
イザナは短く答え、淡々と続けた。
「お前が眠ってる間に……色々あった。ハーメルンは倒され、牢獄魔女も消えたことで、国内じゃ混乱に乗じてクーデター活動が再燃したが……国民も疲弊しきってて、もう続ける余力はなかった」
包丁の刃が、リンゴの皮を静かに削ぎ落としていく。
「……リュカ王子が直々に暫定執政を宣言して、国の舵を握った。それで……騒乱も、今じゃほとんど収まってる」
切り分けたリンゴを小皿に置き、視線だけを僕に向ける。
「……“贖罪の葬列”も、あれで終わったんだ」
「……ざんてい……しっせい?」
リンゴを咥えたまま首を傾げる。
イザナは眉間を押さえ、深くため息を吐いた。
「……要はだな。王子が臨時で政治のトップに立ちますって宣言したってことだ」
「トップ……?」
「そう。王も王妃も貴族も死んで、ほぼ壊滅してただろ? だから王子が俺がまとめるって公に言ったんだ。それで国は一応まとまった」
リンゴをもう一切れ差し出しながら、イザナはぼそりと続けた。
「……まあ、簡単に言やあ代理で国を回す役だ」
「へぇ……」
ぱくりとリンゴを齧り、ほっとしたように微笑む。
「なんだか難しいけど……それなら安心だね」
「いや、それが……」
イザナは短く息を吐き、視線を落とした。
「彼もまだ十六歳だ。王位を継いだとはいえ、政治を回すのは簡単じゃねえ」
「……」
「しかも、ハーメルンと牢獄魔女を討ったはいいが、俺らに国庫に報酬を払う余裕もない。リブラリアの七割は砂漠だ。作物も育たず、貿易路も細い。……正直、国としては最悪の立地だ」
「……そんな……」
「そして、王子が宣言を出した以上――同盟国を持たないリブラリアは、いつ隣国に攻め込まれてもおかしくない状況になった」
僕は小さく息を呑んだ。
「だが――」
イザナはわずかに目を細め、言葉を続ける。
「俺が橋渡しをした。レイヴェルの国、ルミナリア自由連邦と、リュカ王子が対話を始めたんだ」
「……レイヴェルが?」
「ああ。国境を接する準敵対国同士だったが、レイヴェルが後見人としてリブラリアの内政に関わることを認めた。その代わりに、砂漠地帯をルミナリアに割譲することで――リブラリアは独立国として存続することを、正式に承認されたんだ」
「……つまり……お兄さんみたいな国ができたってこと?」
「……まあ、そんなところだ。だが――砂漠地帯を併合したことで、リブラリアはルミナリアに完全に囲まれる形になった。要は、いつ攻め込まれてもおかしくねぇ立場だ」
「……つまり?」
首を傾げる僕に、イザナは再びため息をつき、わかりやすく説明しようと口を開いた――その瞬間。
――ふいに、頭の奥へ明るい声が割り込んだ。
『やあ! おはよう! 目が覚めたようだね! 僕のお嫁さん!』
「……れ、レイヴェル!?」
僕は布団の上で跳ね起き、思わず声を上げた。
イザナは顔をしかめ、刺身包丁を握ったまま低く舌打ちする。
「……脳内に直接……接続魔法か」
『そうとも! 最近ようやく習得できたんだ! 本当は転移魔法で直接そっちへ行こうと思ったんだけどね、いま公務でどうしても抜けられなくてさ! だからまずはこうして挨拶をしようと思って!』
軽快な声色が少しだけ改まり、続けて問いかける。
『――それで、リブラリアのその後について、どこまで話したの?』
「地政学上、問題があるってとこまでだ」
『ああ、でも実際、僕は攻めるつもりなんてないから安心していい。だからこそ、あの不毛な大地を“経済上の重要地域”として、君たちに管理してもらうことにしたんだ! イザナにはもうサインしてもらってある。将来的には併合した土地もきちんと独立させるつもりだから、地政学上の心配もちゃんと解決するよ』
「……でも、その大地は不毛なんでしょ?」
僕が不安げに口を挟む。
『そう、そこなんだけど――』
声がぱっと明るくなる。
『君とダンが水脈を見つけてくれたおかげで、リブラリアの地下には豊富な水資源があることが判明したんだ! これがあれば砂漠は耕作地に変わる! 交易の要衝にもなる! 今のリブラリアが息を吹き返す鍵になるんだよ!』
脳裏に、ハーメルンとの戦いが蘇る。
ダンが拳で地面を砕いた瞬間、地下から噴水のように水が溢れ出した――あの光景。
確かに、あの水脈なら砂漠を潤すことができるかもしれない。
「……でも、その水を使っても、砂漠を耕せるようになるまでには何年もかかるんじゃないの?」
僕は不安を押し殺しながら、レイヴェルに問いかけた。
『そこが問題なんだよねー。すぐできるわけじゃない。だから長期的な目標として、僕の国から投資するって形にしたんだ。……ダンにはもう労働力として色々やってもらってるよ! 飯と給料が出るって言ったらさ、君が寝てる間に稼いでいっぱい食べさせてやるって! ほんと、いい子だね。僕ちょっと嫉妬しちゃうよ……』
軽い声音が遠のいた直後――。
《情報補正》
《地点:ルミナリア自由連邦 都市グラディア》
《当該地点は、かつて対象:ラマティが奴隷として拘束されていた地点》
《奴隷取引および闇市活動が盛ん》
軽いレイヴェルの声が途切れた直後、脳裏に冷たい響きが流れ込んできた。
《――戦略提案を開始》
《まず、ルミナリア自由連邦の都市グラディアから労働資源を確保してください。次に、適性を判定し、必要な者へ能力付与――水流制御、土壌改変などを与えます。その力で河川網を構築し、砂漠を平原へと変換する。基盤が整えば、リブラリア新領域として独立国家を成立させることが可能です》
……奴隷に……働いてもらって。奴隷自身の国を作るということ?
《――そういうことです》
抑揚のない声が、揺らぎひとつなく答えを返した。
『うーん……統治をどうするか、ちょっと悩むなぁ。僕も全部を抱え込むのは難しいし……』
「……じゃあ、奴隷を買って……働いてもらえば……」
『買う? まあ……方法としてはアリかもしれないね。でも――』
『それよりも、イザナを連れていけばいいよ。いま彼は英雄だ。ハーメルンと牢獄魔女を討ち取った英雄として、新聞でも大々的に報じられてる。彼の存在が一番の信頼になる』
リンゴを剥いていたイザナが、ふっと鼻で笑った。
「……英雄ね。俺は王姫を助けただけだ。そいつらの討伐になんざ、一切関与してねぇけどな」
『彼を連れて行くだけで、奴隷を使ってる連中はみんな震え上がるよ。もっとも、僕も奴隷制度そのものには完全に反対してる。だけど――一気にすべて解放するのは現実的に難しいんだ。だから今は段階的に、ゆっくりと解放していく準備を進めているところさ』
『その足掛かりとしては、イザナの存在は最高だと思うよ。英雄の名にふさわしい影響力を、僕は利用させてもらうつもりだからね』
イザナは刺身包丁を置き、冷ややかに鼻を鳴らす。
「……利用、ね」
言葉が終わるか終わらないかのうちに、脳内の声が急に高ぶった。
『……あーもう! だめだッ! やっぱり我慢できない! ラマティに……直接会いたいんだ!』
脳内に響いていた声が弾け飛び、白光が走る。
次の瞬間――空間が歪み、レイヴェルの身体が僕の目の前にどすんと落ちてきた。
透き通る銀髪が肩に流れ、淡い紫色の肌に黒く艶めく二本の角。赤い瞳は興奮で潤み、子どものようにきらきらと輝いている。
「…………唐突すぎるだろ」
イザナが、目を点にして呟く。
「ラマティィィーーーッ!!」
叫びながら布団に飛び込み、起き上がったばかりの僕に勢いよく抱きつく。
「わぁ……! あったかい……! しかもこの匂い……ラマティの匂いだぁぁぁ!」
頬をすり寄せ、胸いっぱいに息を吸い込む。薄い寝間着姿の僕は必死に押し返そうとするが、強い力でがっちりと抱きしめられている。
「ちょ、ちょっと……レイヴェル……っ!」
慌てて手を伸ばすが、少年の力は意外と強く、ぴったりと抱きつかれて身動きが取れない。
「いい、いいよ……やっぱりかわいいよラマティ……! うわぁぁぁ……夢じゃない……生きてる……っ!」
鼻をすんすんと鳴らしながら、子犬のようにじゃれつく。
――その光景を横で見ていたイザナは。
リンゴを剥いた手を止め、刺身包丁を握ったまま、目を点にして固まっていた。
「…………………………」
完全に言葉を失い、ひくりと頬が引きつる。
ようやく絞り出した一言は――。
「…………ドン引きだわ」
そう言ってレイヴェルを無理やり僕から引きはがす。
布団にすがりついてじたばた暴れる少年を片手で押さえつけ、低い声で問い詰めた。
「……で。なんでわざわざ来たんだ」
「……我慢できなくて!」
レイヴェルは真っ赤な顔でイザナを見つめる。
「お前はガキかッ!」
イザナの鋭い突っ込みが即座に飛んだ。
だが次の瞬間、レイヴェルは悪戯っぽく片目をつむり、ひらりとウインクを寄越す。
「冗談だよ。――ほんとは行きたいんでしょ? グラディアに」




