第50話 『血に濡れた理想』
再び金属音が迸る。
軍刀の群れが四方から襲いかかる。
イザナは斬撃を瞬視で捉え、紙一重で受け流す――だが、切り払った分身はすぐに霧へと還り、また形を成して迫ってきた。
「立て同胞よ、行け戦いに」
アズマが吐く歌声は、挑発のように牢獄へ反響した。
次の瞬間、腹に熱が走る。斜めに深く切り裂かれ、鮮血が滲む。
「……ッ!」
歯を食いしばり、体勢を立て直す。
「砦の上に我らが世界――築き固めよ、勇ましく」
アズマの分身が波のように押し寄せる。
「……はぁ、はぁ……」
視界が赤に染まる中、ただ瞬視だけが冷徹に周囲を切り取っていた。
斬撃は正確、動きも速度もすべて本体と同じ。
違いは――ほとんど、存在しない。
「暴虐の雲……」
アズマの低い声が、分身たちを操る呪文のように響く。
軍刀が弧を描き、イザナを押し潰すように迫った。
――その中に、ひとつ。
やはり、刹那の遅れ。
目で追えるはずのない、コンマ0.001秒ほどの狂い。
常人なら誤差にすら気づかない、微細な歪み。
――やっぱりな。能力で作った分身だろうと、操ってるのは本体だ。指先か脳か知らねぇが……命令が伝わる時に、必ず本体にラグが生まれる。
――それがお前自身が意識してねぇ遅れだ……それを見逃すかよ。
「……そこだッ」
イザナの目がぎらりと光る。
全身の痛みを無視し、ただその影へと踏み込んだ。
軍刀が肩を裂く。熱い血が飛び散る――だが、刃は迷いなく本体へ。
「――ッらァァッ!!」
肩から斜めに切り裂くと同時に分身たちが同時に霧散し、牢獄に残ったのはただ一人の男。――アズマ・テルジ。
すると、口元を歪め、ぎょろぎょろと右目を動かしながら嗤った。
「……また見破ったか」
だが肩の傷は浅かった。血を流しつつも、その声は愉悦に満ちている。
だが――その一瞬。
嗤いの端に、微かに走った怯み。
ほんの刹那の隙を、イザナは逃さなかった。
「……そういうことか」
息を呑む間もなく踏み込み、駆け抜ける。
アズマの顔がわずかに歪む。だが右目だけは、ぎょろぎょろと瞬きもせず、なおイザナを捉える。
息を荒げながら、イザナは低く呟いた。
「ずっと気になってた。お前の右目……瞬きひとつしねぇ。生きた目じゃない。――義眼だな」
血で濡れた刃を振り払い、鋭く構え直す。
「見えもしねぇ義眼で、俺を裁こうなんざ片腹痛ぇんだわ」
刺身包丁が月影のように光る。
「――三途ノ裁」
アズマの右目では捉えられない死角から、振り抜かれる刃が、三重の軌跡を刻む。
一瞬のうちに横へと三度断ち切る斬線。黒衣を裂き、軍刀を弾き――腹を横一文字に、三重の裁きが走った。
「……ぐはァッ……!」
アズマの口から、苦鳴と共に鮮血が噴き出す。
肉が裂け、血が床石に奔流のように広がった。
よろめいた身体が、牢獄の鉄格子に激突する。
右目は、なお瞬きひとつせず――だが、力を失った肉体は膝から崩れ落ちていった。
「……三度の斬線、か……」
嗄れた声が、血に濡れた口元から零れる。
「……まるで……慣性の亡霊だな……」
最後まで愉悦を帯びた嗤いを残し――アズマの身体は、石床に崩れ伏した。
イザナは荒い息を吐き、血の滴る刃を下ろす。
「……終わりだ、革命おじさん」
その言葉に、アズマの口元がわずかに動いた。
血泡を吹きながら、かすれた声で語る。
「……ああ、分かっているさ。おじさんたちの理想など……実現しない。人道を外れた暴力革命……その果てにあるのは、瓦礫と屍だけだ……」
嗄れた声に、奇妙な静けさがあった。
「それでも……三十年も、そのために生きてきた。仲間も、血も、信念も……全部、その旗に捧げて……もう、引き返すことなんて……できやしなかったんだ……」
声は途切れ途切れに途絶えつつも――ぎょろりと動く義眼だけは、なおイザナを見据えていた。
「……名を……教えてくれ……」
イザナは一瞬だけ眉をひそめ、そして短く答えた。
「……イザナ、だ」
血に濡れた口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「……イザナ、か。……いい名だ……祖国に伝わる“イザナギ”の名に似ている……世界を形づくり……荒ぶる海を鎮めた、創世の神……」
「……俺は故郷から追放された身だ。そんな神話なんざ、知ったこっちゃねえがな」
吐き捨てるように言い、イザナは刺身包丁を振るった。三重の斬線が檻を裂き、鉄格子が轟音を立てて砕け散る。
「……ありがとうございます!」
自由を得たリュカが深く頭を下げる。だがすぐに、その瞳が鋭く見開かれた。
「イザナさん――後ろっ!」
振り返った瞬間、そこにアズマの姿はなかった。代わりに、床一面を黒煙がもくもくと満たしていく。
「……ちっ」
イザナは刃を構えたまま目を凝らす。
その時――牢獄の入口に続く闇の向こうから、声だけが響いてきた。
「イザナ……名を覚えたぞ。おじさんは一度、祖国へ戻る……」
煙の中から嗤いがこだまし、声が遠ざかっていく。
「また逢おう……次は――革命の旗の下で、だ」
黒煙だけを残し、アズマ・テルジの気配は消え失せた。
イザナは腹を押さえつつ、歯を食いしばる。
「……腹をばっこり三重に斬られてんのに、逃げ足だけはえぇな、あのおっさん……」
リュカは静かに首を振り、真剣な眼差しで言った。
「……思想の強さは、心の強さでもあります。彼を突き動かしているのは――信じる理想そのものなのでしょう」
「ったく……理想で腹の傷が塞がるなら、世の中ケガ人なんていねぇだろ」
牢に残された静寂の中、リュカが鉄格子の破片を踏み越えて駆け寄る。
「ケガ……あぁぁ! イザナさん……その傷、大丈夫なのですか」
「……大丈夫なわけ、ねえだろ」
軍刀に裂かれた腹から血が滴り落ちる。だが、それでも彼は背を伸ばし、荒い息を吐きながら懐から鞘を取り出す。
血に濡れた刃を静かに収め、音を立てて納刀した。
「とりあえず――お前はここから出ろ。外に出りゃマルタって婆さんがいる。俺は……ラマティって仲間を探さなきゃならねえ」
リュカは駆け寄ると、ためらいなくイザナの腹の傷口へ手を伸ばした。
「……おい、何してんだ」
思わず身をよじるイザナに、王子は落ち着いた声で答える。
「私は……魔力の扱いが得意です。少しでも助けになれば」
掌から薄い光が滲み、魔力の膜が傷口を覆った。じわりと熱が走り、止まらなかった血がわずかに収まっていく。
「……王族はちげえな」
イザナは息を荒げながら、苦笑を漏らす。
「応急処置ですが、これで少しは出血を抑えられます」
リュカは真剣な目で告げる。
「城には……まだ牢獄魔女が控えています。どうか――お気をつけください」
「……あぁ。無理はしねえ。やばいと思ったら……流石に一回、出直すさ」
イザナは肩で息をしながら、短くそう答えた。




