第49話 『血獄の魔女』
王座の間へと続く重厚な扉の前で、僕は足を止めた。
胸の奥を冷水で満たされるような、鋭い悪寒が走る。
鼻腔を突く、強烈な鉄錆の匂い。
――血だ。
扉の隙間から、流れ出るように濃密な死の気配が漂ってくる。
震える指先で扉を押し開ける。
その瞬間――僕の視界は、赤に塗りつぶされた。
壁も、床も、天井さえも――すべてが血に染まっていた。
本来なら豪奢な絨毯が敷かれ、王座が鎮座しているはずの空間に、その影は欠片も残っていない。
ただ血に覆い尽くされ、栄華を示すものはすべて失われ、そこにあったはずの面影すら消し飛んでいた。
滴り落ちた血はすでに溜まり、足元にはぬめる水溜まりが広がっている。
鉄の臭気が肺を焼き、吐き気が喉まで競り上がった。
壁際には、錨のような鉄杭に喉を貫かれた少女の亡骸が、まるで処刑の飾りのように吊るされていた。
そのすぐ傍らでは、鉄の棺の隙間から血が滴り落ち、赤い筋が床を走っている。
その棺の表面は無数の棘で覆われ、錆に塗れた鉄板には、血に溶けたような赤黒い染みがまだらに広がっている。
中に誰かが閉じ込められているのか、それともすでに骸と化しているのか――想像しただけで胃の底が冷たくなった。
次の棺へ目を移す。
その両扉は半ば開き、内側にびっしりと打ち込まれた鉄杭が露わになっていた。
視界に飛び込んだその無数の針の森に、思わず息を呑む。
「……これで、人を……」
口に出した瞬間、声が震えていた。
並ぶ棺の一つひとつが、もう……すでに幾人もの命を喰らってきた証だった。
足が震える。
目の前の光景は、紛れもなく――地獄そのものだった。
だが――その奥に、不釣り合いなほど豪奢な存在があった。
部屋の中央。白磁のバスタブに満たされているのは、水ではなく――鮮血。
真っ赤な液体は湯気を立て、まだ温かさを失っていなかった。まさしく殺したての温もりだ。
その縁に腰掛けていたのは、一人の女。
銀糸のように輝く髪が肩を流れ、瞳は紅玉のように深い真紅。
陶器のように白い肌と、胸元を強調する艶やかな黒のレザードレスが、異様なほど目を奪った。
女は片手でグラスを弄ぶように血をすくい、優雅に微笑んだ。
「――あら。せっかく“血の湯”をいただこうと思っていたのに……」
声音は冷ややかでありながら、どこか上品な響きを宿していた。
「新鮮で温かい血を確保するのは、どれほど大変か……分かっていて?」
その笑みは、悪魔のものでもなく、狂人のものでもなく――
血に浸ることすら嗜みのように振る舞う、残酷な優雅さだった。
そして――血の湯の周囲。
赤黒い床の上には、すでに息絶えた少女や貴族たちの屍が積み上げられていた。
喉を杭で貫かれた者、鉄の処刑具に押し潰された者、皮膚を剥がれた者……。
死体の山はすでに地獄の祭壇のようで、滴る血が床を川のように走っていた。
足が竦む。
絶望が胸を貫き、目が点になる。息すらできない。
女はそんな彼を見て、唇の端をゆるりと吊り上げた。
「あら……かわいらしいお嬢ちゃん。――その肌、その瞳……まるで宝石ね。貴族かしら? それとも……」
次の瞬間、地面から無数の鎖がのたくり出る。
蛇のように這い寄り、僕の手足へと巻き付き、一瞬で拘束した。
「や、やめっ……!」
冷たく硬い鎖が肌に食い込み、思わずか細い悲鳴を上げた。
その光景を見て女の真紅の瞳が、愉快そうに細められる。
「……あら。可愛い声を聞かせてくれるのね」
女が艶やかに歩み寄り、僕の頬へと白い指を這わせる。
次の瞬間、鋭い爪がすっと肌を裂いた。
「ひっ……!」
頬を伝う赤を、女はそのまま舌で舐めとる。
「……甘い……美しい血ね……」
耳元で囁くように笑い、女は優雅にスカートの裾を翻した。
「わたくしの名は――牢獄魔女、エリザベート・バートリー。血と絶望を糧に生きる者」
「私の能力は、射程に入ったものの心を蝕み、絶望や狂気を呼び起こす効果があるの。……なのに、あなた――効いていないようね?」
すると僕の顎を掴まれ、ぐいと上を向かされる。
逃げ場を失った瞳は、真紅の眼差しに絡め取られた。
白磁のように透き通った肌、血に濡れたような赤い唇が、すぐ目の前に迫る。
次の瞬間――エリザベートの唇が、僕の唇と重なる。
啄む一瞬の熱。だがすぐに、それは逃がさぬように深まり、吐息が頬を撫でる。
歯列を押し広げるように、柔らかな舌が入り込み――導かれるまま、僕の口内は支配されていく。
舌先が触れ、絡み、逃げるように退けば追いかけられる。
粘膜が擦れ合い、ざらりとした感触が熱を運び絡み付く。
それは愛でも情欲でもなく――ただ獲物を確かめ、絶望を刻み込むための口づけだった。
吐息まで飲み込まれる錯覚に、全身が震える。
逃れようとしても、鎖が肉を締め付けるだけ。
口唇が触れ合うたび、抗えない支配の鎖が心まで絡みついていった。
――そして気づけば、僕の身体は限界を超えていた。
恐怖と絶望に呑まれ、理性の制御が途切れ……僕は、自らの惨めさに震えた。生暖かい液体が太腿を伝い落ちる。
唇が離れると、糸が細く伸び、途切れる。
僕は泣きそうな顔で、かすれ声を漏らした。
「……ぁ……うぅ……っ」
エリザベートの真紅の瞳が、面白げに細まる。
顎を掴んだまま、彼女の白い指先がするりと喉から胸元を下り、腰骨を越えて――失禁した股間を撫でた。
その瞬間、彼女の指先が布越しにわずかな膨らみに触れた。
「……まぁ」
紅い唇に妖艶な笑みが浮かぶ。
「……まぁ。あなた、女の子かと思ったら――男の子だったのね」
艶やかな声で囁き、紅い唇の端に笑みを浮かべる。
「可愛らしい坊や……泣き顔まで、愛らしいこと」
湿った感触を確かめるように、長い指先が布越しにゆっくりと優しくなぞる。
ぞくりと背筋を這い上がる感覚に、僕の目から涙が零れ落ちた。
「や、やめて……っ! お願いだから……!」
エリザベートは紅い唇を歪め、指先を布越しに往復させながら囁いた。
「……泣き顔も可愛いわね。あらあら……そんなに震えて。まるで小鳥が罠に掛かったみたい」
僕は首を振ろうとしたが、鎖が軋み、喉から嗚咽が零れる。
「ぼ、僕は……っ」
「ふふ。強がり? ……でもね、どちらにせよ無力なのよ。その小さな体で……一体何ができるの?」
銀髪が頬に触れるほど近く、真紅の瞳が覗き込む。
「……うるさいっ」
僕の叫びは震えていた。だがその奥には、確かな怒気が混じっていた。
エリザベートの紅い瞳が、愉悦に細められる。
「……うるさい? じゃあ、選ばせてあげるわ」
赤い唇が、耳元で甘やかに囁く。
「――何もできないまま、私のために血を流して死ぬか」
指先が布越しに股間をなぞり、いやらしく持ち上げる。
「それとも……“私のおもちゃ”になって、一生この身体で遊ばれて生きるか」
「さあ、可愛い坊や……どっちを選ぶの?」
「……どっちも……嫌だっ」
僕は涙に濡れた瞳を必死に見開き、震える声で叫んだ。
エリザベートの赤い唇が、ふっと笑みに歪む。
「まぁ……可愛らしい反抗ね」
顎から手を離すと、軽やかに数歩下がった。
ヒールが血に濡れた床を叩き、冷たい音が響く。
「なら――死んでちょうだい」
指先が優雅に弧を描き、指先が鳴る。
「――《拷問空間》」
その瞬間、ギギギ……と不気味な音を立てて、巨大な処刑器が姿を現した。
鉄の棺――《アイアン・メイデン》。
棘を備えた扉が両翼のように開き、血に濡れた鉄杭がぎらりと鈍く光を放つ。
鎖に引きずられ、僕の身体が無理やりその棺の中へ押し込まれていく。
「やっ……やめっ……あああああああああああッ!!」
絶叫が牢獄の奥へ木霊した。
エリザベートは両手を広げ、紅い瞳を細めて笑う。
「――そう。あなたのような小鳥は、檻に囚われてこそ愛らしい」
血の匂いを纏いながら、ゆっくりと裾を揺らし歩み寄る。
「牢に閉じ込められ、血に縛られて……啜られる。それが、あなたに最も似合う末路よ」
「――アーッハッハッハッハ!」
白い喉から高らかな笑い声が零れる。その響きは牢獄の血臭と混じり合い、狂気にも似た優雅さで満ちていく。
やがて――棺の扉が、僕の絶叫ごと音を立てて閉ざされた。
鉄と血がぶつかり合う、無慈悲な轟音。
次の瞬間、棺は鎖に吊り上げられ、天井にぶら下がる。
……その時。
冷たい声が、ラマティの脳内に響き渡った。
《――スキル:【解放者】を強制使用します》




