第44話 『黒衣の魔装服』
骨董店の奥の小さな客間。
そこには僕とイザナ、マルタ、そしてベッドの上で眠り続けるダンの姿があった。
ベッドの傍らには、シャワーを浴びて新しい衣服に着替えた王姫が座っている。
生成りのブラウスに淡い水色のスカートという、ごく普通の町娘のような装いだが、囚われていた時の煤けた姿はもうなく、桃色の髪は光を帯びてふんわりと揺れ、青い瞳はかすかに澄んだ色を取り戻していた。
その時、ギィ、と軋む音と共に扉が開いた。
奥の間に現れたのは、骨董店の店主――大柄な影がどしんと床を踏み鳴らす。
「おいおい、ここはいつから宿屋になったんだ?」
片目を細め、豪快に笑う。
だがマルタがすぐに声を落とした。
「……冗談を言っている場合じゃないよ。ハーメルンが倒された今、外は混乱してる。住民の目に王姫の存在が映れば……殺されかねないんだよ」
店主は一瞬だけ黙り込み、やがて重々しく頷いた。
「……なるほどな。だが――ハーメルンを倒したってのは、本当か?」
視線がこちらに向けられる。
イザナが迷いなく答えた。
「……ああ。ダンとラマティがやった」
その言葉に、僕は思わず俯いた。涙でぐしゃぐしゃに泣き叫んでいたせいで、頬は真っ赤に腫れ上がっている。
店主はそんな僕をじろりと一瞥し、鼻を鳴らす。
「嬢ちゃんと黒人のガキが……なぁ」
荒っぽい声には半信半疑の色が滲んでいたが、次の瞬間、彼は肩をすくめて大きく笑った。
「けど、外があの騒ぎっぷりってことは……本当にやっちまったんだろうな。信じられねえが――どうやらそういうことなんだな」
その場の空気が少し緩んだ時、マルタが低い声を落とした。
「……だが、妙だね。王子の姿が、パレードにはなかった」
その言葉に、部屋の隅に座っていた王姫が静かに顔を上げる。
囚われから解放されたばかりの少女とは思えない、凛とした声音で口を開いた。
「……兄上だけは、リブラリア城に残されています」
透き通るような声に、自然と皆の視線が集まる。
「私たちは見せしめとして街に引き立てられましたが……王子だけは、決して外へ出されることはありません」
「……ほう?」
イザナが細めた目で問いかける。
隣で僕は鼻をすすり、「……ぐすん」と声を漏らした。
「王子は、おそらく玉座の間に幽閉されているか、あるいは深牢と呼ばれる地下の監獄に繋がれているでしょう」
彼女の蒼い瞳が影を帯びる。
「……そして厄介なのは、あの城には“牢獄魔女”が棲みついていること。そして――“アズマ・テルジ”が控えていることです」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなる。
「牢獄魔女……」
僕は小さく呟いた。ハーメルンが断末魔に残した名――それが、まさしくこの存在だった。
マルタが目を伏せ、重く言葉を継いだ。
「牢獄魔女は……恐ろしい相手だよ。能力は《鉄の処女》――ひとたびその棺に囚われれば最後、抜け出すことはできない……。その中では血が際限なく抜かれ、痛みと共に命を削り取られていく……。生きて出た者など、一人としていない」
「……それに、もうひとり厄介なのがアズマだ」
名前を聞いた瞬間、王姫の肩が小さく震えた。
「アズマは……常に右目をぎょろぎょろと動かす癖がある。相手を値踏みするように、あるいは何かを計算しているように……。その様子から、千の目なんて異名で呼ばれている」
イザナが低く唸る。
「やはりか……。随分前、新聞で見た覚えがある。革命と国家改造が趣味の狂人だったはずだ。つまり、壊れた神の天秤と利害が一致した……ってことか……おそらく――最初のクーデターを仕組んだ張本人だな」
マルタは静かに頷いた。
「……そうだろうね。そして王子が幽閉されているのも――アズマの仕業に違いない」
イザナは短く息を吐き、視線を鋭くした。
「そして……強力な支配者だったハーメルンが消えた今、この国の統制はもう保てないだろう」
「そうさ……アズマはきっと、この国を捨てて次へ行くだろうね。そして、王子はもう処分される運命にある。だから――私は行くよ」
イザナはしばし黙り込み、低く唸るように言葉を吐き出す。
「……ちっ、面倒なことに首を突っ込みすぎたな」
眉間に皺を寄せ、深く息を吐く。だがその瞳は、揺るぎなく正面を見据えていた。
「だが――ここまで関わった以上、もう背を向けるわけにはいかねぇ。最初に婆さんと会ったときは、厄介ごとには関わりたくないなんて思ってたが……結局、どっぷりだ」
口元にわずかな自嘲を浮かべ、そして力強く続ける。
「……俺も行く。王子を助けに、城へ」
「ぼ、僕も……行くよ!」
涙の跡が残った頬をぐいっと拭い、震える声で、それでも真っ直ぐに言い放った。
「お前……そんな返り血まみれのドレスで外に出られると思うな。ここは俺に任せろ」
「……たしかに、僕は弱いし、頼りないかもしれない。でも……だからこそ、行きたいんだ。泣いてるだけの僕じゃなくて……仲間を守れる僕になりたいから!」
その言葉に、一瞬だけイザナの目が見開かれ、やがて小さくため息が漏れる。
「……ったく、しょうがねえな」
肩をすくめつつも、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
「おいおい、服の心配ならいらねぇぞ!」
そう言って店主が抱えてきたのは、漆黒に染め抜かれた一着の礼装だった。
肩口には漆黒の小さなケープが掛けられ、軽やかに背へと広がっていた。胸元には白いリボンが結ばれ、裾や袖口には小さなフリルが重なる。重厚さというよりもむしろ可憐な気配を漂わせ、漆黒の地には淡い光沢が差し込み、角度によって深い青紫のきらめきが走っていた。
「代々、どっかの貴族に伝わった“魔装服”って代物だ。……戦場でも祭壇でも通用する一張羅よ」
店主はニヤリと笑い、僕の肩にその黒い服を押しつけた。
腕に抱えた礼装をじっと見つめ、僕は思わず小さな声を漏らす。
「……これ、女性用じゃないの?」
「当たり前だろ。女が女物を着るのは普通だ」
僕はしばし黙り込み、じぃっと服と店主を見比べて……深いため息をひとつ。
「……着替えるから。こっち、見ないでね」
視線を逸らしながらそう告げた瞬間――。
「……ぷっ」
堪えきれなかったように、イザナが吹き出した。
頬が熱くなる。僕は思わず膨れっ面になり、黒い礼装を胸に抱え直した。




