第35話 『亡霊の庇護者』
ダンはすぐに近くの棚へ駆け寄り、分厚い鉄斧を片手で持ち上げたり、奇妙な形の壺を頭に載せたりして大はしゃぎした。
「なぁラマティ! 似合うだろ? 俺、冒険者っぽいか?」
「それ落としたらどうするの……」
苦笑いで応じる僕に、ダンは「へへん!」と笑う。
――そのとき。
奥のカーテンを押し分けて、どしん、と床を踏み鳴らすように大柄な影が現れた。
肩幅はドア枠にぎりぎり収まるほど広く、日に焼けた腕には太い血管が浮かび上がっている。片目には古びた眼帯をしていて、まるで昔戦場を渡ってきた兵士のようだった。
「……おい、小僧」
低い声が響き、ダンがびくりと肩をすくめる。
「それは高ぇんだ。落としたら弁償だぞ。銀貨百枚じゃ済まねえ」
「ひぃっ……!」
ダンは慌てて壺を棚に戻し、斧も慎重に床へ置いた。
男の目が横に動き――そこに立つ老婆を見て、驚いたように口を開いた。
「……おいおい……マルタ婆さんじゃねえか。あんた、生きてたのかよ」
老婆――マルタは、目尻を細めて笑った。
「……なんだい、まだ店やってたのかい。相変わらず埃臭いまんまだねぇ」
……マルタさん……。このお婆さん、そんな名前だったんだ……。
店主は腕を組み、しばらく黙り込んだあと、ふっと鼻を鳴らした。
「しかしよ……よく“パレード”から逃げられたもんだな。あんた、王子と王女の教育係だろ。真っ先に殺される立場じゃねぇか」
「……そうさね。あれは“必死”というより、もう奇跡だよ。私だって自分でも信じられないくらいさ」
「奇跡、ねぇ」
店主が低く唸る。
「……あんたの足で兵の目を掻い潜るなんて無理があるだろ」
マルタは肩をすくめ、乾いた笑みを浮かべた。
「そうだね。……私の能力《歪んだ現証》がなければ、不可能だったろうさ」
「能力……?」
僕は思わず小声で繰り返す。
マルタはうっすらと目を閉じ、言葉を継いだ。
「“証拠”そのものを歪ませる力だよ。存在していない痕跡を残したり、あったはずの足跡を消したり……。その力で、兵どもを何度も欺いて逃げてきたのさ」
「……もっとも、今じゃ老いぼれだ。せいぜい一瞬、気配を消すくらいが関の山……そんなに強い能力ではないよ」
そう言って自嘲する彼女の声を、脳内の冷たい響きが遮った。
《――補正を加えます》
《対象:マルタ=元王族教育係》
《自己評価に大きな乖離を確認》
《彼女のユニークスキル【歪んだ現証】――それは“存在を隠す”権能》
《過去の実績ログ抜粋:》
《戦争や粛清の折、“実験材料”にされそうになった能力者を隠し、追跡不能とする》
《「処刑リスト」に載った者たちの名前を抹消し、存在しない人間として逃がした》
《都市からの逃走ルートを隠蔽し、追っ手を無力化した》
《姿を覆い、偽の身分を与え、別人として生きさせた》
《――彼女は裏社会で密かに恐れられ、“亡霊の庇護者”と呼ばれていた》
《能力の副効果により、対象は人のみならず、建物や拠点そのものを隠すことも可能だった》
その瞬間、脳裏に幻のような光景が浮かんだ。
若き日のマルタ――黒いマントを翻し、漆黒の短剣を握りしめる姿。
夜闇に紛れ、追っ手を次々と仕留めながら、背後の子どもや仲間を庇うように導いていく。
兵の灯りが近づけば、霧のように掻き消え、再び姿を現すのは全く別の場所。
その目は鋭く、誰よりも速く、そして冷静に戦場を駆け抜けていた。
――そんな凄まじいことをしてきたのに、マルタさんは……ただ「一瞬気配を消せるだけ」だなんて。
《最も、今の彼女では自身の存在を短時間“霞ませる”のが精一杯でしょう》
《老化と負荷の蓄積により、過去のように他者や拠点全体を隠すことは不可能です》
脳裏の冷たい声に息を呑んだその時――。
「――おい、嬢ちゃん」
不意に現実へ引き戻される。
顔を上げると、店主のごつい腕が組まれていて、こちらをじろりと睨んでいた。
「なにぼーっと突っ立ってんだ?」
「い、いえっ! な、なんでもないです!」
僕は慌てて手を振り、声が裏返った。
「ああ、すまない」
イザナが一歩前に出て、低く言葉を挟む。
「用があるのは俺の方だ。嬢ちゃんは付き添いだよ」
「ほぅ……付き添いねぇ」
店主は鼻を鳴らし、じろりと僕を見てから、後ろのダンへと視線を移す。
「そっちの黒いガキも、そういう口か?」
「う、うん! そんなとこ!」
思わず強くうなずく。
……イザナまで“嬢ちゃん”とか、わざわざ言わなくてもいいのにっ!!
胸の奥でそう悪態をつきながら、頬が熱くなるのを必死に誤魔化した。
「お〜! 見ろよラマティ! これ、絶対高ぇ宝石だろ!」
当のダンは、店の隅で無造作に積まれた宝石の欠片を次々と手に取り、子どもみたいに目を輝かせていた。
店主は大きくため息をつき、額をかいた。
「……ったく、物騒なガキどもが来やがったもんだ」
◆◆◆
《ユニークスキル:歪んだ現証》
《効果》
・“証拠”や“存在”そのものを歪ませる能力。
・存在していない痕跡を残したり、あったはずの足跡を消すなど「追跡・探索」を無効化できる。
・対象は人間だけに限らず、建物や拠点なども隠すことが可能。
・名前や身分を改ざんし、他者を「別人」として生かすこともできる。
《副作用・制約》
・マルタの場合は老化により、現在は自身の存在を短時間“霞ませる”程度しか維持できない。
・あくまで「隠す」だけであり、対象が物理的に消えるわけではない。
→ 匂い・音・気配といった感覚的要素すら覆い隠せるが、物理的な衝突だけは避けられない。
《備考》
・若き日のマルタは裏社会で密かに恐れられ、“亡霊の庇護者”と呼ばれていた。
・戦争や粛清の折、多くの能力者や子どもを隠し、存在を抹消して逃がした。
・現在は往年の力を失い、自己評価通り「一瞬気配を消す程度」が限界となっている。




