第32話 『夜の調教』
その夜――。
宿の灯りが落ち、街に静寂が広がった頃だった。
ふいに、風に紛れて笛の音が忍び込んでくる。
ぴぃぃ……ひゅるる……。
――おかしい。
旋律は明るく軽快で、祭りの開幕を告げるように華やかだった。
なのに耳に届くたび、背筋を氷で撫でられるような不気味さがまとわりつく。
まるで誰かが耳元で囁きかけているような親密さ。
それでいて、街全体へと染みわたり、人々を無意識のうちに立ち上がらせていた。
「あ゙ぁ……これ……やばいな……頭の奥で誰かに“従え”って囁かれてる……!」
イザナがベッドから上体だけを起こし、低く唸る。額には滲む汗。歯を食いしばる音さえ、静かな部屋に響いていた。
「お、おいイザナ! 大丈夫か!? 落ち着け!」
ダンが低い声で叫ぶ。だがその目はしっかりと澄んでいた。
老婆はただ一点を見つめ、苦しげに呟いた。
「……操られてるんだよ……人の心を……」
僕の喉がかすかに震えた。
「これ……操られてる……?」
その言葉を口にした瞬間――胸の奥がざわめき、心臓を誰かに掴まれたような圧迫感が走る。
視界がぐにゃりと揺れ、頭の中でざわざわと不気味な囁きが広がっていく。
……あぁ……眠い……でも……歩かなきゃ……笛の音のほうへ……。
視界が揺れ、気づけば僕の目も虚ろに――。
《――検知。対象:ラマティ、イザナ》
《――精神干渉を確認》
《――特例処置。精神異常耐性を付与》
脳裏に冷たい声が響き、意識を繋ぎ止める光が駆け抜ける。
次の瞬間、霞んでいた視界がぱっと晴れた。
「……っ!」
隣ではイザナも同じく荒い呼吸を整えていた。
「っぶねえええ……!」
目を細め、音のする方角を鋭く睨みつける。
そんな僕たちを見て、老婆がかすれた声で呟いた。
「……戻ってこれたのかい。……精神力が極端に強い人間や、もともと耐性を持つ者だけが……この笛の音に抗えるんだよ……」
「ん? お前ら、なんでそんなに息上げてんだ?」
ダンはケロッとした顔で首を傾げていた。
イザナが短く鼻を鳴らす。
「……そういうことか。あの笛の音こそが、“パレード”の正体ってわけだな」
外がざわつき、宿の壁越しに群衆のざわめきが伝わってくる。
僕は思わず二階の窓辺へ駆け寄り、板戸の隙間からそっと外を覗いた。
――その瞬間。
夜の街に、異様な光景が広がっていた。
松明の光に照らされ、虚ろな目をした人々がぞろぞろと歩いていく。まるで糸に操られる人形のように、同じ足並みで。
「……っ……!」
息が喉に詰まった。
その先頭に立つ影――けばけばしい魔導服に身を包み、銀の笛を握りしめた仮面の楽師だった。
「止めなきゃ……!」
思わず声を張り上げ、踏み出そうとした僕の腕を、老婆がぐっと掴んだ。
「やめな! 夜は効果が強すぎるんだよ……」
かすれた声に、しかし確かな切迫が宿る。
「笛の音は、夜にこそ人を飲み込む。だからこそ――今こうして“調教”して、翌日にパレードをやるんだ。夜はただ心を縛るだけ、囚人はいない。止めるなら……明日の行列しかない」
「……っ……」
僕は言葉を失い、ただ銀の笛を睨みつけるしかなかった。
やがて笛の音は、夜の彼方へと溶けていった。
人々は何事もなかったかのように家へ戻り、崩れ落ちるように眠りに落ちていく。まるで操り人形の糸を切られたみたいに。




