第29話 『砂漠に咲いた一輪の花』
イザナは黙って老婆を見つめ、それから短く息を吐いた。
「……話はわかった。嫌なことを聞かせて悪かったな。保存用のパンならある。それで少しは生きながらえるはずだ。その間に……好きに生きろ。せっかく拾った命だ、大事にしたほうがいい」
だが老婆は、震える体で首を横に振った。
「……いいや。あたしゃ、行くよ」
「無理だ!」
ダンが即座に声を荒げる。
「そんな体で王国に行けば、確実に死ぬ! やめとけ!」
けれど僕の胸の奥では、言葉にならないざわめきが膨れあがっていた。
気づけば足が勝手に前へ出ていた。
「……別に助けに行くだけでしょ?」
「見せしめにされてるなら、助けて逃げればいいんだよ……! だ、誰かを救う方法、絶対にあるはずだよ……!」
「甘いな」
イザナが冷たく切り捨てる。
「だが――全く不可能ってわけでもない」
「……え?」
僕は思わず首をかしげる。
彼は懐から革袋を取り出した。そこには、レイヴェルから渡された許可証と免税証が入っていた。
「俺らにはこれがある。レイヴェルから渡された許可証と免税証だ。入るだけなら造作もない。この婆さんもガイドを装えば門番も通すだろう」
イザナの視線が老婆に向く。
「……だが、あくまで入るだけだ。後のことまでは保証できん。婆さん……本当に行くのか?」
イザナの問いに、老婆は皺だらけの顔を上げた。
「……あたしゃ、まだ見捨てきれないんだよ。子どもたちを、弟子を……あの行進に囚われた人間を。あたしの役目は、まだ終わっちゃいない」
その目は濁っていながら、不思議と澄んで見えた。
「……っ」
胸がぎゅっと詰まる。
「なら……僕も行く! 神託がそう言ってるんだ。……僕の中の声が、“行け”って、そう言ってるの!」
「正気かよ……」
ダンが頭を抱える。
「お前なぁ、簡単に言うけどな、死ぬかもしれねぇんだぞ!」
「……死んでもいい」
声が震える。けど、引き下がりたくなかった。
「僕だって……奴隷だった。見せしめにされる痛みも、絶望も……知ってる。だから……見過ごせないんだ!」
イザナはしばし沈黙し、それから深く息を吐いた。
「……やれやれ、どうして俺はこういう連中とばかり縁ができるんだか」
ぼやきながらも、荷台に置いていた外套を老婆の肩にかける。
「……分かった。婆さん、御者台に乗れ。王都までは送ってやる」
老婆は小さく肩を震わせ、何度も頭を下げた。
「……ありがとう、本当に……」
その時だった。
砂地の隙間から、小さな白い花が一輪、風に揺れて咲いていた。
老婆がそれを見つけ、皺だらけの頬に、初めて柔らかな笑みを浮かべる。
「……生きるもんだねぇ。砂漠でも、花は咲く」
イザナは無言のまま御者台に立ち上がり、老婆を支えて座らせる。
手綱を握った瞬間、馬が軽く嘶き、馬車は再び砂漠の道を走り出した。




