第26話 『天秤を凌ぐ冠』
泥にまみれたイザナの手が、青白い宝石をぎゅっと握っていた。指の隙間からは黒ずんだ泥水が滴り落ち、まだ毒沼の匂いが漂っている。
「イザナ……その泥……毒だよ? ちゃんと手、洗おうよ」
僕は小さな瓶を抱え、慌てて差し出した。
イザナはちらりと視線を寄こし、短く鼻を鳴らす。
「貴重な水を、この程度で使うわけにはいかねえ。布で拭けば十分だ」
「ち、違うの。この水ね……いっぱい出るの。さっきの沼くらいの量でも、全部瓶に入れられるんだよ?」
イザナの瞳が細くなる。
「……神託か?」
「……う、うん。そんなとこ……だから大丈夫」
「わかった」
彼は瓶を受け取り、掌に水を垂らした。瞬く間に泥と毒が流れ落ち、宝石は澄み渡る青光を取り戻す。
「……こりゃ、すげえな」
イザナの掌から泥と毒が洗い流され、澄みきった水が宝石を輝かせる。彼はそのまま瓶を傾けて口をつけた。
ごく、ごく――。
何度も喉を鳴らして飲むのに、水は一滴も減っていない。
「……いくら飲んでも減らないのか、これ」
驚き混じりの声が低く漏れる。
「うおおおおっ!」
ダンが目を輝かせて駆け寄ってきた。
「さっきの泥が、飲める水になってるなんて! おいイザナ、すげーじゃねえか!」
「ああ……間違いなく浄化されてる。ダン、お前も飲んでみろ」
イザナは瓶を差し出し、珍しく柔らかな声音で促した。
「お、おう! ちょっと怖ぇけどな!」
ダンは瓶を受け取って眉をしかめる。
「……ほんとに、大丈夫なんだよぉ……」
自分でもまだ信じきれていないけれど、確かに水は澄んでいる。
「……よしっ!」
ダンは勢いよく瓶をあおり――ごくごくと喉を鳴らした。
「ぷはぁっ! うめえぇぇーーっ!!」
ダンがにかっと笑い、僕の背中をばんばん叩く。
「すげぇよ! これなら旅の水には困らねえ!」
「い、痛い痛いっ! そんなに叩かないでよぉ!」
肩を抱えて抗議すると、ダンはますます楽しそうに笑った。
そんな僕たちをよそに、イザナは拾い上げた宝石をじっと見つめていた。
「……これ、やばいな」
「え? なにが……?」
「なんだそれ?」
僕とダンが同時に問い返す。
「――リブラリア聖王国の王家の紋章が入ってる」
イザナは宝石の表面を指でなぞりながら言った。
「リブラリア……?」
首を傾げる僕に、彼は淡々と続ける。
「奴隷時代に見た古い新聞だ。クソ古い紙切れだったが……間違いなく、王家の刻印だった。過去の戦争で処刑された王族の遺物、そう考えれば筋は通る。だが……」
イザナは視線を骨へ落とし、わずかに眉をひそめた。
「……この骨はまだ新しい。となると、どうにも嫌な予感がするな」
「みせて、みせて! どんな紋章なの?」
僕が身を乗り出すと、イザナは渋々宝石を傾けてくれた。
光の加減で浮かび上がったのは――天秤と王冠の紋様。
だが、天秤の“皿”の上に乗っているのではなく――天秤そのものの“頂点”に、王冠が据えられている。
「……天秤の上じゃなく、一番上に王冠があるんだね」
「ああ。つまり、正義や均衡を量ることに王権は介入しない。けれど、そのすべてを見守り、最後に責任を負うのは王だ、ってことだろうな」
「へぇ……高く売れそうだな!」
ダンがにやりと笑う。
けれどイザナはすぐに否定した。
「馬鹿を言うな。そんなもの売ったら、足がつく。……下手をすれば、俺たちまで処刑対象だ」
「……なんか……不気味だね……」
気づけば、小さな声が漏れていた。
イザナは宝石を一瞥し、短く吐き捨てる。
「……こんなもの、持ってるだけで危ない……価値も無い」
そして地面へと放り捨てた。
「ああっ! 俺の宝石がぁぁ!」
ダンが慌てて拾いに駆け寄る。
「行くぞ、ダン。……命が惜しけりゃ、それは諦めろ」




