第25話 『硝子の方舟』
僕たちはようやく水らしきものを見つけた。
……いや、水というより――。
「……これは、毒沼だな」
御者台からイザナの声が低く響いた。
見渡せば、一面に紫色の沼が広がっていた。
淀んだ水面からは泡がぶくぶくと立ちのぼり、鼻を刺すような甘ったるい匂いが漂ってくる。足を踏み入れれば、すぐにでも皮膚が焼けただれそうなほど、濃い毒の気配があった。
「これじゃ飲めねえな……次行くか」
ダンが肩をすくめ、大きく息を吐いた。
「ああ……そうだな」
イザナも短く同意し、手綱を引いて馬を回す。
「……はぁ」
僕は膝の上に置いた、小さなガラス瓶を持ち上げて、小さくため息をついた。
この中に、きれいなお水が入ってたらなぁ――そんな、子どもじみた願いを思ってしまう。
そう思った――その瞬間。頭の奥に、冷たい無機質な声が響いた。
《――条件達成。“渇きを満たす希求”を感知》
《――アーカイブ照合完了》
《――ユニークスキル【硝子方舟】を解放》
「……っ!?」
《効果――あらゆる液体を瓶やボトルに“封じ込め”て保管可能》
《発動時、対象液体の“浄化”を選択できます》
《並行して派生スキル【ボトルシップ・チャージ】を付与》
《効果――液体を無制限に溜め込み、後に使用可能》
《備考――ユニークスキル【硝子方舟】は数千年後、必ず現れると記録された“未来の英傑”の権能》
思わず息を呑んだ。……瓶に液体を、封じ込める?
それに、浄化まで……?
――そして数千年後に現れるはずの、英傑の力。
そんなものが、どうして僕なんかに……。
「……っ、これって……もしかして……毒沼の水も……?」
「イザナ、ちょっと待って!」
「……ん? 分かった、止める」
馬車が止まるや否や、僕は瓶を握りしめて飛び降りた。
砂利を蹴り、駆け足で紫色の沼へと向かう。
足元から立ち昇る空気は、鼻をつく鉄錆の匂いと、甘ったるい腐臭が入り混じっている。
沼の表面は紫色に濁り、泡がぼこぼこと音を立て、時折どす黒い煙が立ち上る。
思わず「うっ……」と吐き気を堪えた。
「おいラマティ! やめとけ!」
背後からダンの声が飛んでくる。焦りと不安が混じった低い叫びだった。
それでも僕は瓶を構え、沼へと差し出した。
次の瞬間――。
しゅううう、と不気味な音を立てながら、紫の毒水がみるみる瓶へと吸い込まれていく。
液体は糸のように引き伸ばされ、まるで沼そのものが吸い寄せられているかのように、一本の流れを作って瓶の中へ収束していった。
やがて――どろどろと濁った毒沼は跡形もなく消え失せ、瓶の中に全て収まる。
《――浄化を実行しますか?》
「……うん、お願い……!」
僕が小さく答えると、瓶の中の液体が淡く光を帯び、紫色は澄んだ透明へと変わっていった。
透き通った水が、静かに瓶の中で揺れている。
「す、すげえ……!」
後ろから駆け寄ってきたダンが、目を丸くして叫んだ。
「毒沼が……水になっちまったのか!? おいラマティ、これ……本当にお前がやったのかよ!」
「……神託のレベルも、だんだん上がってきたな」
イザナがぼそりと呟いた。冷静な声色の奥に、ほんの少しだけ驚きが混じっている。
彼は馬車を降り、沼の跡地をじっと見渡した。
僕もつられて視線を向けると……そこには、乾いた泥に半ば埋もれるように無数の白骨が散らばっていた。
頭蓋は叩き割られ、腕は根元から折れ、手首ごと切り落とされた骨もある。
湿った土にまみれたそれらは、まるで処刑場の残骸のようだった。
「……ここ、処刑に使われてたかもしれないな……。まだ骨が残ってるってことは、新しい……そう古くはないはずだ」
「こ、こわいよ……」
思わず僕の声は震えてしまった。
そんな時だった。イザナの足元――泥に沈む人骨の隙間から、かすかに青白い光が漏れていた。
イザナは膝を折り、泥をかき分けて確かめる。割れた頭蓋が半ば泥に沈み、折れた腕が不自然にねじれたまま突き出している。
その隙間から、ひとつの宝石を拾い上げた。
それは青白く輝く宝石。泥にまみれながらも、なお澄んだ光を放っていた。
「……宝石?」
僕が小さく声を漏らす。
イザナは淡々と視線を落とし、骨を指差した。
「……肋骨の奥……いや、胃袋のあたりに埋まっていたな」
冷ややかに告げる声が続く。
「沼だから水の流れもない。処刑前に飲み込んだものが、そのまま残っていたんだろう……普通なら、金歯や貴重品なんかは全部抜かれているはずだからな」




