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一章  左遷

「――くそっ」

 セレンは無意識に悪態をついて、テーブルに拳を叩きつけた。

 アキュリア領主の地位を拝命してから数日。

 すっかり物の無くなった自室で下命を受けた時のことを思い出し、いまだに冷めやらぬ怒りがふつふつと沸いてきていた。

「何故、私がアキュイラなどに……!」

 明朝になれば、セレンはここウィレミニア王国の都を発ち任地に赴かなければならない。

 国の辺境にあるアキュリアまでは、馬車で二週間程がかかる。おいそれと行き来の出来ぬ距離だった。

 そうまでして父上は私をここから追い出したいのだろうか――。

 セレンは手の平に爪が食い込むほど、拳を握り締める。

 玉座に座る父の隣に立っていた異母弟アレイストのことが、自然と思い出された。王との血縁を疑うべくもないほど、濃青の瞳も、その顔形もよく似た、どこか儚さのある姿が目に浮かぶ。

 隣国の公女であった母親と同じ色だという黒髪くらいしか、父と違っている場所がないのではないか。そう思えるほど、彼らは生き写しのようだった。

 母にばかり似たセレンには、それが羨ましくて仕方がない。

「……、」

 どうにか怒りを鎮めようと溜息をつく。

 父王の寵妃だった母シエラがこの世を去ったのは、セレンが九つの頃だ。

 それまでのセレンは、まるで王の「唯一の子」であるかのように、遇され尊重される嫡子だった。

 しかし母が亡くなると、周囲の状況は瞬く間に一変したのをよく覚えている。

 セレンは王太子位から引きずり降ろされ、一つ年下の弟が公国から召喚されると、彼が代わってその座を埋めた。

 正妃である隣国の公女は、アレイストを孕むと同時に故国へ宿下がりしたきりで、セレンに物心ついた頃には、既に王国内にはいなかった。自分の他に寵妃がいるという現実に耐えられなかったのだと聞いている。

 彼女は今も公国にいるが、たとえこの場におらずとも、「公女」という肩書きは絶大だった。

 正妃という強い後ろ盾を持つ王子が、次期国王として注目されるのは自明だ。

 それでも、セレンは特に玉瑕があって廃太子の憂き目に遭ったわけではない。能力もあからさまに劣るわけでもなく、中には長子であるセレンのままでも良かったのでは、という声もあった。

 つまり現状として、セレンティーネという王女の立ち位置は、非常に繊細な問題を孕んでいる。後に禍根を生みかねない、という意味で。

 その問題を払拭し、アレイスト即位の邪魔になりかねない人間を排除する。

 セレンのアキュイラ赴任は、そういう点でこの上ない手だった。

 ()の地は国境に面しているため、王の信任深い者にしか任せることはできない土地だ。とはいっても、その隣国とは長らく友好関係にあり有事が発生するとは考えづらく、まさにセレンを飼い殺すのに相応しい立地だった。

 このまま、王都から遠い地で自身の存在など忘れ去られていってしまうのではないか――。

 そんな恐ろしさが胸いっぱいに広がっている。

 だが、そうなってしまえば母が今際の際まで望んでいたことを叶えられなくなってしまうだろう。

 ――お前は王になるのよ、セレンティーネ。

 彼女が死してから十年以上の月日が流れた今も、その声は消えることはなかった。

 このままでは、母の願いを叶えられない。

「…………ならば、いっそ」

 思考がどす黒いものに沈んでいこうとした時だった。

「姉上」

 控えめな叩扉の音と共に、青年の声が聞こえてハッとする。

 ――私は今、何を。

 セレンは真っ青になって、口元を押さえた。

 無理やりにでも王位を奪い取ってしまおうか、などと思わなかったか。たとえ、()()()()を使ってでも。

 浮かびかけた恐ろしい考えを振り払うように頭を振る。

 そうしていると、返答がないことを訝しんだのか、もう一度「姉上?」と声が聞こえた。

 自身のことをそんな風に呼称するのは一人しかいない。

「アレイストか……?」

「はい。今、お時間はよろしいでしょうか?」

 戸惑いながら異母弟の名を呼ぶと、ほっとしたような声音が耳に届いた。

 何の用だろう。セレンは不思議に思いながらも、入室の許可を出す。

 自分たちは取り立てて仲の良い姉弟ではない。いがみ合っている――とも言わないが、互いに難しい立場であり、どことなく交流を避けてきていた。

 もちろん、顔を合わせる機会はあるし、言葉を交わしたこともある。だが、個人的なやり取りは……記憶に薄い。

 そんな彼がわざわざ訪ねてきた。

 どうしても、訝しまずにはいられない。

「失礼いたします」

 扉を開け、柔和な笑みと共に現れたアレイストは、左足を軽く引きずりながら杖をついて入室してくる。

 セレンはハッとして、慌ててその扉を押さえてやった。

「どうしたんだ? 何か用があったのなら、呼んでくれれば……」

 彼は幼少期――、まだ公国で母と暮らしていた頃、何か事故に遭ったのだそうだ。それによって左足に麻痺が残っている。

 そんな弟を歩かせたのが申し訳なくなり、セレンがそう言うと、アレイストは目を丸くして首を左右に振った。

「まさか。姉上を呼びつけるなんて出来ませんよ」

 それから、殺風景になった部屋を見渡して、にこりと微笑む。

「あと、ご出立前でお忙しいでしょう。最後の挨拶に、とは思いましたが……。それでお手を煩わせるわけには」

「…………そう、だな」

 苦笑を浮かべると、途端に沈黙が落ちた。それを破ったのはアレイストの意外な問いだった。

「姉上、下命を断ろうとは思わなかったのですか?」

「それは……」

 こちらの様子を探るような、何とも言えない視線を向けてくる。そんな彼の目に、少し不満めいたものを感じた気がした。

 物言いたげな青い瞳を、不思議に思う。

 どうして、そんなことを訊くのだろうか。

 アレイストの立場を考えれば、セレンがいなくなることは歓迎しこそすれ、「不満」などないはずだ。

 清々する――。そう言われる方が納得できるくらいだった。

 セレンは返答に窮しながらも、ゆっくりと口を開いた。

「……王命に逆らうことなんて、出来るはずがないだろう? それに、あちらでやれる事もあるはずだ」

 迷った末に絞り出した言葉は、多少は強がってみせた側面もある。だが、自分で言ってみて気付いた。

 そうだ。アキュイラを立派に治められれば、いずれ父上もその手腕を認めてくださるかもしれない。

 言い聞かせるような気持ちが、ないわけではなかった。

 それでも、これから向かう新たな地で出来ること、すべきことが、必ずあるはずだと考える方が、よほど現実的に感じる。

 個人的に思うところはありこそすれ、アレイストは優秀だ。それは紛れもない事実である。

「アレイスト。私がいない間も、陛下をしっかりお支えしてくれ」

 立ち竦む彼の肩をぽんと叩いた。しかし、何故か返答がない。不思議に思い、セレンは俯き加減のアレイストの顔を覗き込んだ。

「っ……?」

 彼と目が合って、息を飲む。

 一瞬――ほんの一瞬だけ、酷く冷徹な視線に射抜かれような気がした。

「アレイスト……?」

 しかし頭をあげた彼の表情は、特に普段と変わって見えない。

 見間違い――?

「お任せ下さい、姉上」

 そう言ってアレイストは微笑んだが、セレンはどこか冷たいものを感じずにはいられなかった。




 ウィレミニアの王都を出発してから数日、セレンは山中を馬車で移動していた。

 アキュイラまでの道のりは、旅慣れない侍女も含めた長旅となるため、一月程度の余裕をもって行程を組んでいる。

 王宮を出て日が浅い今は、まだ都の方が近い位置にいた。

 馬車に揺られるセレンの対面には、自身の乳姉妹であり現在は専属侍女を務めるミイスがいる。生まれた時からの付き合いである彼女とは、気心が知れていて何の気兼ねもない。

 日程の長さには辟易するものの、穏やかな馬車旅となる――、はずだった。

 だが、セレンはどうにも落ち着かない。隣に立てかけていた剣を持って、柄に触れたりと、言い知れぬ焦燥感が募る。

 ミイスからは心配げな視線が向けられていることにも気付いていたが、ゆったりと構えることができないでいた。

 本当に、このまま王都を去っても良いのだろうか――。

 もう王宮を出発してから幾日も経つというのに、そんな疑問は薄れるどころか日に日に強まっている。

 アレイストに「アキュイラでやれる事がある」などと言って、一度は納得したつもりだったが、どんどんと迷いが出てきていた。

 任地への旅が進み、王都から遠い地で領主をするという現実が刻一刻と迫ることで、ますます焦りが湧く。

 この十年余りの期間を、母が口にした最期の願いを叶えるためだけに生きてきた。

 王になる。

 セレンにあるのはそれだけだった。

 それが今は、まるで負け犬のように都に背を向けている。

 こんな姿を見た母上は、一体何と仰るだろうか――。

「ミイス……」

「はい、姫様」

 にっこりと微笑んで応える彼女の栗色の瞳を見て、少しだけ気分が落ち着いた。

「母上は……、私にいつも……王になるよう仰っていただろう?」

「ええ。妃殿下は姫様にとてもご期待なさっていらっしゃいましたからね」

 それがどうか、というようにミイスが首を傾げて、瞳と同じ色の短い髪が肩口でさらりと揺れる。

 セレンは言葉に詰まって、きゅっと唇を引き結んだ。

 期待。そう、私は期待されていた。なのに。

 胸の内に渦巻く判然としない思いを、セレンは迷いながらも口に出そうとする。

「母上は、今の私を――」

 だが、それ以上が言葉になることはなかった。

「――きゃあっ!」

 突然、大きな衝撃と共に、馬車が急停止する。ミイスの悲鳴にハッとして、セレンは座席から投げ出される彼女の身体を受け止めた。

 ミイスに怪我がないことだけ確認しながら、セレンは外に向かって叫ぶ。

「何事だ!」

「賊です! 殿下は中に――」

 御者の声が響き、微かに剣劇の音も耳に届いた。

「いや、私も出る!」

 セレンは反射的にそう言うと、床に転がった剣を握り締めて扉に手をかける。

「いけません、姫様!」

 背後からはミイスの制止が聞こえたが、それは無視して外へと躍り出た。抜刀して、鞘を放る。

 ザッと周囲に視線を走らせたセレンは、眉をひそめた。

 状況は、思わしいものではない。

 御者は腕を射抜かれ、護衛たちも一体何人いるのかという数の敵と相対している。

 その時、飛んできた矢をセレンは剣で叩き落し、チッと舌打ちした。

「射手までいるのか……」

 これはかなりまずいかもしれない。

 どうやって現状を打開すべきなのか考えながらも、襲いかかってきた刺客に応戦する。

 振り下ろされた剣を受け流し、相手の足を斬った。

 致命傷を与えられたわけではないが、どうっと地面に倒れたのを見て、セレンは男に背を向けて走り出そうとする。

 あれはもう動けないはずだ。ならば、それに構っているよりは、一人でも多く敵を倒さねば――。

 そんな焦りがあったのだと思う。

 走り出したセレンは、何か嫌なものを感じて思わず振り返った。

「っ――!」

 そこには先程倒したはずの男がいて、振りかぶった剣身に光が反射する。

 まずい……!!

 セレンは己の判断の甘さを呪った。しっかり仕留めてから移動をするべきだったのだ。

 だが、後悔しても今更だった。

 気付くのが遅れたせいで、避けることも、剣で受けるのも間に合いそうにない。

 わたしは、こんなところで……?

 振り下ろされる刃が、妙にゆっくりと感じた。

 これが「走馬灯」というものなのだろうか。なんてことを思った時だった。

 キンッ、と高い音がして、迫っていた凶刃が跳ね飛ばされる。

「あっ……」

 セレンを捉えようとしていた「死」が、どこからともなく飛来したナイフに弾かれたのだ。そう理解した次の瞬間には、刺客との間に広い背中が割って入る。

 その人物は腰に佩いていた長剣を抜くと、あっという間に敵を倒してしまった。

 相手が動かなくなったのを確認して、彼はセレンの方に振り仰ぐ。

「敵に背を向けるなんて不用心だぞ、お嬢さん」

 茶髪を項で雑に纏めた旅装の男は、そう言って緑色の印象的な目をニヤリと細めて笑った。




「よーし、ざっとこんなもんだな」

 剣を納めて手をパンパンと払った茶髪の男は、セレンの方を向いて、ニカッと笑った。

「……助太刀、感謝する」

「いやいや、礼には及ばないよ」

 そう言って朗らかに微笑む彼に、ついセレンは眉根を寄せる。

 正直、とても怪しい。

 危ういところを助けられたのは事実だし、この男が乱入してからというものの、余程腕が立つのかあっという間に戦況をひっくり返してしまった。怪我人はいるにせよ、死者が出ないまま賊から難を逃れることができたのは、偏に彼の登場によるものである。

 ありがたいと思っているのは確かだったが――、腕に覚えのある旅人がそう偶然に通りがかるものだろうか。

「それで、貴方は一体――」

 男に問いかけようとした時、彼はセレンの更に背後へ視線を向けて、片手を上げた。

「遅かったじゃないか! もう終わったぞ」

 振り返ると、こちらへ颯爽と歩いてくる淡い金髪の男が見える。彼は微かに眉根を寄せて、茶髪の男を睨んだ。

「貴方が勝手に突っ込んで行ったんでしょう! それに、あっちには弓兵がいたんですよ」

 そういえば、いつからか弓矢が飛んで来なくなっていたと気付く。口振りから察するに、この金髪の青年が倒してくれたようだ。

 セレンは彼にも頭を下げる。

「危ないところを助けられた。感謝する。それで、貴方がたは何者だ?」

 問いに答えたのは、茶髪の男だった。

「俺ら、傭兵みたいなことやってんの。ここにはたまたま通りがかったんだけどさ。物騒な音が聞こえて来てみれば、身分の高そうな人が襲われてるし……。これは助けなければ――、ってね」

 片目を瞑る男に、セレンはつい胡乱な視線を送る。

 なんとも調子のよい男だ。

「それで、お嬢さん? あんたらはこれからどこへ行くんだ?」

「……何故、そんなことを聞く」

 警戒心を滲ませて問い返すと、彼は飄々とした様子を崩さずに肩を竦めた。

「なに。ここで会ったのも何かの縁だろう? 怪我人もいることだし、道中の用心棒にいかがかな、と思ってさ」

 申し出は悪い話ではなかった。

 だが、どこか疑念が拭えずにいるセレンは、断ろうと口を開く。

 しかしそれよりも早く言葉を発したのは、金髪の男だった。

「――私は嫌です」

「えぇっ!? いいじゃんかよ。こんな美人が困ってんだぞ?」

 茶髪の男が言い返すが、金髪の男はそれでも首を横に振る。

「行くなら、どうぞお一人で」

 そう言い放つと、彼は踵を返してすたすたとその場を去っていった。

「おーおー、そうかい。なら一人でも行くもんね」

 べー、と舌を出す男に、セレンの方が驚いてしまう。

「お、追いかけなくいいのか……?」

「いいのいいの。こういうのしょっちゅうだし」

 二人がどういう関係なのかいまいち掴めず、セレンは金髪の男が去っていった方向と、隣にいる彼とを見比べた。

「それで、俺を雇う気はある?」

 小首を傾げる男に、セレンは唇を引き結ぶ。

 そして、迷った末に口を開いた。

「断る」

「そんなぁ……」

 悲しい顔をする彼に、仕方なく続ける。

「――が、礼くらいはしよう。とりあえず、次の町まではついて来てくれ」

「お! さっすが、お嬢さん! そうこなくっちゃな」

 嬉しそうに拳を握る男に、セレンはまた呆れて肩を竦めたのだった。




 麓の町へ辿り着いた頃には、空はすっかり赤くなっていた。

 急遽襲われ、行程が遅れてしまっている。本来、この次にある街で宿泊予定だったのだが、どうにか一行が泊まれるだけの宿が空いていた。

 金持ちの平民向け、といった風情の場所で、セレンの目には些か貧相に見える部分や成金趣味のように感じるところもあったが、掃除は行き届いており、対応も丁寧なものだ。

 急な来訪である以上、文句があるわけもない。

「――姫様、聞きましたよ?」

 セレンに充てがわれた部屋に、ミイスが不満を隠しもしない仏頂面で現れる。

「何をだ……?」

 賊の中へ飛び出して行ったことについては、もう既にこんこんと説教をされた後だ。

 まだ怒らせるようなことをしていただろうか、と首を傾げる。

「護衛のお申し出、お断りになったって。何故ですか?」

「ああ……」

 出発前に傭兵のようなことをやっているという男と交わした会話についてだった。

「何故、って。あんな急に現れた人間をすぐに信用できるのか?」

「でも、姫様を助けてくださいましたわ」

「それは……、そうだが」

 セレンが命を救われたこともまた事実であるため、強く反論ができない。

 ――私が考えすぎなのだろうか。

 そう過りはするものの、あの男の現れたタイミングは、些か上手く出来すぎではないかと思ってしまう。

「……とりあえず、駄目なものは駄目だ。ここまでは来てもらったが、明日にでも謝礼を渡して……、それで、終わりだ」

 彼女を説得できる言葉が浮かばず、突き放すように背を向けた。背中にじとりと視線を感じるが、それを無視して黙り込む。

 そして、暫く沈黙が続いた後、ミイスが溜息をついた。

「……仕方ないですね、もう! 姫様も頑固でらっしゃるんだから」

 どうやら折れてくれたらしいと察して、そろりと振り返る。

「どうしてそこまであの男のことを?」

 何か事情でもあるのだろうかと尋ねると、彼女は一瞬ぽかんとしたあと、ビシッとセレンを指差した。

「姫様が危険なことなさるからでしょう!」

 彼がいれば、止めてくれるかと思ったのにと、ミイスはぷりぷり怒っている。

「お断りになるんだったら、危ないことなさらないでくださいね?」

「…………善処する」

 善処? と睨まれたのは、言うまでもない。



     *



 目の前には、大勢の人々がいた。

 こちらに笑顔を向ける彼らは、新たな国の次期指導者が現れたのを、キラキラとした顔で見上げている。

 セレンは、父と、それから母とに見守られ、先刻受け継いだばかりである王太子の冠を頭に、胸を張ってその場に立っていた。

『立派な姿ね。それでこそ、陛下の子』

 やわらかく母がそう口にする。いつもの金切り声が幻かのように、落ち着いた穏やかな声音だった。

 王の子として堂々と完璧に振る舞うセレンは、かけられた彼女からの言葉に、安堵と嬉しさが募る。

 よかった。このまま父上の跡を継いで王になれば――、きっとたくさん褒めてくれる。

 しかし、突如としてそこに見知らぬ少年が現れた。

 セレンのことなど視界にも入れない父が、彼を「自分の――王の子」だと宣誓する姿を、遠くから呆然と見つめる。

 足元が崩れ落ちるような感覚。

 ただただ真っ暗な闇の中へ堕ちていく。

 ――嫡子アレイストを、王太子と定める。

 それを()()()告げられた時の虚無感が、セレンの胸を襲った。そして、

『なんて……、期待外れな』

 冷たい、地を這うような母の声が聞こえて――



     *



「――っ!」

 セレンはガバッと身を起こすと、早鐘を打つ胸を押さえて荒く息をついた。

「…………夢、か」

 辺りは暗く夜の帷の中にあったが、使っていたベッドも周囲も、眠る前と何一つ変わっていない。

「母上、は……、やはり――」

 自分が王位につくことを望んでいるのではないか。

 そんな考えが浮かび、それと反するように王都をどんどんと離れているという現状に指先が震える。母の意に叛いていることが、酷く恐ろしい。

 止まらない震えを誤魔化すように、セレンはぎゅっと拳を握って瞑目する。

 あの夢は、王太子位を失った十歳の頃を思い起こさせた。

 ただ一つ違うのは、アレイストが立太子した場に、母は既にいなかったということだろう。

 つまり、実際にああして声をかけられたわけではない。

 あれはただの幻。死者は甦らない。

 頭では理解している、のに。

 自身の身体をきつく抱きしめて、セレンはふると身を震わせた。

 しかし、そんな姿すら情けないものに感じて、その腕をほどく。

 セレンはきゅっと唇を噛み締めると、足を床に下ろした。

「夜風にでも当たろう……」

 このままではとても眠れそうになかったから。




 外へ出ると薄い夜着を風が吹き抜けていく。

 何か羽織って来るべきだった、と身を震わせつつ、セレンは宿の裏庭を当てもなく歩く。

 ぼんやりと夜空を見上げながら建物の角を曲がると、ふと人の気配を感じて視線を戻した。

「あ……」

 そこでは昼間の男が木箱に腰掛けて、こちらを見ている。

「よお。……寝れねぇの?」

 不意打ちの邂逅に固まっていると、彼は呑気な様子でひらひらと手を振った。

「何故ここに……」

「お嬢さんと同じだと思うけど?」

 なんと答えてよいか分からず黙っていると、男は気にした風でもなくへらりと笑って、隣に置いていた瓶を持ち上げた。

「飲む?」

「……酒か? 今はそんな気分じゃ……」

「いいから、いいから」

 彼はセレンの話など聞きもせず、小さなグラスに中の液体を注ぐと、ずいと差し出してくる。

 無視するのも決まりが悪く、仕方なくそれを受け取ると、セレンは男が座っているのとは別の木箱に腰を降ろした。

「お、や~っと座ってくれたな」

 にやにやと笑う彼には反応せず、薄赤色をした酒を一口飲む。ほのかに香る果物の匂いが、強すぎない酒精と共に喉を滑り落ちていくのを感じた。

「……酒なんて、久し振りだ」

 王女として出席する会食などで飲むことはあったが、私的な時間に酒類を口にしたことなどあっただろうか。

 不思議と好みにあう甘めのそれをあっという間に飲み干してしまうと、男はグラスに継ぎ足してくれながら言う。

「そうなのか。酒は悪くないぞ。……嫌なことも忘れさせてくれる」

 彼も別のグラスに注いで、縁に口をつけている。

「嫌なこと……? 貴方――……、あ、と……」

 名を呼ぼうとして、まだ聞いていなかったことを思い出した。いくら怪しんでいたとはいえ、命の恩人に名前さえ訊ねていなかったのかと恥ずかしくなる。

 そわそわとするセレンに、男はくっと笑って言った。

「俺はロウェル。お嬢さんは?」

「……セレン」

 本名をそのまま答えるのはまずいかと考え、略称を伝える。

「へぇ、美人は名前まで綺麗なんだな」

 さらっとそんなことを言われて、思いがけずセレンの頬は赤くなった。しかし、それに気付かぬ振りをして、話を戻す。

「そ、それで。貴方も……忘れたいことがあるのか?」

「『も』ね……。お嬢さんはどうなんだ?」

 ロウェルの問いに、冷たい母の声が甦った気がした。

 だが、それを振り払うように小さく首を振る。

「別に大したことじゃない。少し……、夢見が悪かっただけだ」

「夢……ね。嫌な過去でも思い出した?」

 やわらかな声音で続く問いに、セレンは素直に頷いていた。

 酒が緊張も警戒すらも和らげていたのかもしれない。

「……貴方は?」

「俺は――」

 ロウェルはグラスに口をつけながら、遠くにある細い月を見つめる。

「犯した罪と……贖罪について、かな」

 出会って以降彼が纏っていた、どことなく軽薄な空気がフッと煙のように消えた。

「贖罪……?」

 ちらりとロウェルがこちらを向いて、セレンはその暗い瞳にびくりと肩を震わせる。

 だが一瞬後には、再び仮面を被り直すかのように、彼は軽く笑った。

「なんてな。そんな重いもんじゃねぇさ」

 誤魔化すような笑みに、何も言えなくなる。

 けれど、どうしてだろうか。あの深い闇を思わせる目が――、この男の本質な気がして、取り繕っただけに聞こえる言葉を信じる気持ちにはなれなかった。

「……それで、何故…私たちについて来ようと?」

 どうして改めてそう訊ねたのか。自分でもよく分からなかった。

 ただ、もう少し……、彼の心の内に触れてみたかったのかもしれない。

 しかしロウェルはもう表情を崩すことなく、軽薄な調子のまま答える。

「言ったろ? ここで会ったのも何かの縁だし、って。今は暇してるから仕事があるとありがたい、ってのもあるけど。でも第一は――」

 彼は、ジッとセレンの顔を見つめた。

「第一は、かわいい女がいるから?」

「――……は?」

 男の言葉にセレンはスッと目を細める。

 かわいい女――。たしかに、この一行にはミイスをはじめとした侍女たちが幾人も同行している。

 セレンは「この男……」と額に青筋を立てて、ロウェルを睨んだ。

「お前……、ミイスたちに色目を使うなら――」

「は!? 違う違う!」

「何が違うん――」

 怒鳴ろうとしたところで、彼がこちらに指を差してくる。

「なんだ、この指は」

「本気で言ってる? 俺の言ってる『かわいい女』って、あんたのことなんだけど」

「はあっ!?」

 揶揄われてる。絶対に。

 セレンはやり場のない羞恥とも怒りともつかぬ気持ちを、グラスを握る手にギリギリと込めた。

 しかしロウェルは追い打ちをかけるように、へらへらと笑って続ける。

「冗談だよ。あんたは『かわいい』じゃなくて……、綺麗なんだよな」

「っ!!」

 いやに真剣な目で告げられて、セレンは恥ずかしさのあまりに残っていた酒を一気に呷ると、すくっと立ち上がった。

「馬鹿なことを言うのもいい加減にしろ!」

 セレンはグラスをロウェルに押し付けるように返すと、そのままくるりと背を向けて立ち去ろうとする。

 だが、背中に声がかけられた。

「それで? ついてってもいい?」

「~~っ、勝手にしろ!!」

 やけっぱちに叫んで、セレンは足早にその場を後にする。

 なんだかんだ、あの男の思惑通りにされてしまったのでは――。

 そう気付いたのは、ふて寝しようと布団をかぶったものの結局眠れずに、ベッドの上で朝日を拝んでからのことだった。




 結局、セレンはロウェルの同行を正式に許可した。

 一度は「勝手にしろ」と言ってしまったのもあるが、実際、怪我人の多い現状人手はあって困ることはないからだ。

 それに、あまりに頑迷なのも、子供っぽい意地のように思えてしまったというのもある。


 そうして、ロウェルを負傷した御者の補佐に当てて、旅路が続いた。

 数日が経ちいくつか山を超えはしたものの、あの時のような襲撃はなく、穏やかに時間が過ぎていく。

 抱いていた警戒心は、セレンの中から日ごとに薄れていき――、同時に胸の奥で燻っていた「疑念」も、己の勘違いだったように思えてきていた。

「なあ、なんか気になることでもあるのか?」

 そんなある日の野営中、不意にロウェルから問いかけられたセレンは、驚いて頭を上げる。

「……私は、そんなに変な顔をしていたか?」

「いんや。ただ……、たまーに周りを見回しているだろ。――警戒するみたいに」

 セレンは思わぬ指摘に息を飲んだ。

 この男は、存外周囲をよく見ている。傭兵をやっていくには、その程度の抜け目なさは必要なのだろうか。

 しばしどう答えるべきか考えたセレンだったが、結局は素直に首を縦に振った。

「本当に、襲撃はあの一度きりの偶然だったのか、と」

「なにそれ。ただの物取りじゃなかったって言いたいのか?」

 彼の問いに首肯する。

「荷が目的には、見えなかったんだ」

 馬車の外へ飛び出した瞬間に感じた殺気を思い起こす。

 もしも積荷や金が目当てならば、セレンをはじめとした女には、生きていてもらった方が都合が良いはずだ。護衛たちは邪魔にならないよう殺すとしても、それ以外は――、売るなり、犯すなり、使い道がある。

 ここウィレミニアでは、表向き人身売買は禁止されているものの、合法以外であれば残念ながら方法はいくらでもあった。

 ずっと考えていた疑念を口にすると、ロウェルは腕を組んで首を捻る。

「うぅん……、言いたいことは分かるが、それだけじゃあなぁ……」

 反論の言葉に押し黙っていると、ロウェルが顔を覗き込んできて、枝垂れていたセレンの前髪を耳にかけた。

「それだけが理由じゃなかったり?」

「…………ああ。お前は…奴らの武器を見たか?」

「武器?」

 彼は目を瞬かせる。

「奴らの使っていたものが……、お――私の家に仕える者たちに支給されているものに似ていた気がして」

 王宮、と言いかけて慌てて訂正した。

 ロウェルは不自然に途切れた言葉には気付かなかったのか、ただ驚いた顔をする。

「――んだな」

「何?」

「いや、身内から狙われてると思ってるのか、って驚いて」

「無い話じゃないさ」

 セレンは苦笑を浮かべた。

 己の存在は、躍起になって消すほどではないと考えていたが、彼らにとってはそうではなかったのかもしれない。

「弟は、……家督を継ぐのに私が邪魔だろうし、父だって、きっと――」

 アキュイラへの赴任も、自身を排除するための方便だったのだろうか。

 セレンが唇を噛んで俯くと、突然頭をぐしゃぐしゃと撫でられる。

「ちょっ、何をするんだ!」

「いや……。あんまさ、悲観するなよー、ってな」

 頭を上げると、軽い調子の言葉とは裏腹に、どこか思い詰めたような顔をするロウェルと目が合った。

 その表情に、ぎゅっと胸を掴まれた心地になる。

「……うるさい。悲観なんかしてないっ」

 ぷいっと顔を背けると、セレンは彼の手を払って髪を整える。

「そ? ならいいけど」

 ちらっと視線だけ戻すと、もうロウェルはいつもどおりの表情をしていた。

 セレンはそのことに、密かな安堵を覚えたのだった。




 セレンの心配をよそに、一行は何事もなくアキュイラの地を踏んだ。

 国境地帯ではあるものの、もう何十年と戦の起こっていない街は美しく整備され、馬車から見るその光景は両国の平和を象徴しているように思える。

 これから、自分はこの場所で生きて、そして死んでいくのだろうか。

 ほんの少し、胸の中に寂寥が浮かぶ。だがそれと同じくらい、この美しい街を守っていくという役目は、そう悪いものではないのかもしれないとも感じていた。

「――少し、街を歩いてみたいんだが」

 ぽつりと零れた言葉にミイスがにっこりと微笑み、程なくして馬車は中心部にある広場に停車する。

 ロウェルの手を借りて地面へと降りたセレンは、王都とはまた違うアキュイラの街並みに、きょろきょろと視線を巡らせた。

 そんなセレンにくすとロウェルが笑みを漏らす。

「楽しそうだな」

「なっ……そ、そんなんじゃないっ。私は周囲を警戒して――」

「はいはい、そういうことにしといてやるよ」

 苦笑しながら髪をかき混ぜる手に、セレンはますます目を吊り上げる。

「だから、髪を乱すのはやめろと――」

 拳を握ると、彼はようやく手を離して肩を竦めた。

「まあ、なんにせよ無事に着いてよかったじゃないか」

「……ああ」

「んじゃ、俺もお役御免だな」

 そう言って、ニッと笑うロウェルに、セレンは虚を突かれる。

「は――?」

「おいおい。元々アキュイラまでの護衛、っていう契約だったろ? 忘れちまったか?」

「そういうわけじゃ……」

 たしかに、目的の地まで到着はした。だが、てっきり城まで――、これから住むことになる場所までは着いて来るのかと考えていたのだ。

 まだ別れまで暫しの猶予があると思っていた――。

 しかし、ロウェルに「お役御免」という言葉を取り消す気配はない。セレンは呆然としたまま、どうにか謝礼金の手配を指示する。

 彼は受け取った袋を開けて、ザッと中身を確認してから懐にしまった。

「はいよ、たしかに」

 何と言ってよいか分からずに、セレンはロウェルの姿を無言で見つめる。

「それじゃあな」

「…………ああ」

 ここでこの男を引き留める理由など存在しない。

 セレンは俯きながら、こくりと頷いた。

 だが彼は、そのまま去ろうとはせず、小さく嘆息する。そして、俯いた視界にロウェルの手が伸びてきた。

「な、に……」

 頬をすべる指に、上を向かされる。

 感情の読めない彼の目と視線が絡んで、セレンはぴくりと肩を跳ねさせた。

「そんな顔しなくても、すぐに会える。またな、セレンティーネ」

「え……」

 ロウェルの唇が頬をかすめてゆく。

 セレンは彼の体温が移ったかのように熱い頬を押さえながら、今度こそ去っていく男の背中をただ見送った。

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