7.かつての婚約者
朝が、鈍い灰色の光をもたらした。
離れの小棟。
扉の外で、控えめなノック音が響く。
「……失礼いたします」
低い声──エドガー・レオンハルトだ。
返事を待たず、扉が開く。
無言のまま、従者たちが中に入り、腕に抱えた衣装を恭しく差し出した。
「本日、王国使者との面会にあたり──礼装への着替えをお願いいたします」
形式上の言葉だった。
拒否権など、最初から存在しない。
ダリルは、ただ無言で立ち上がった。
銀鎖が微かに鳴る。
衣装は、深い青。
レーベンハイト王国の伝統を思わせる、格式高い礼服だった。
銀糸の刺繍が控えめに施され、高貴でありながら、どこか冷たい色彩。
従者たちは手慣れた手つきでダリルの着ていた簡素な服を脱がせ、淡々と礼服へと着替えさせていく。
まるで、物を扱うように。
鏡越しに見えるのは、濡れたような艶の黒髪と、切れ長の青い瞳。
華奢ではないが細身の体躯、傷痕を隠すように織り込まれた絹の袖口。
ダリルは、力なくされるがままになりながら、微かに、奥歯を噛み締めた。
──まただ。
また、誰かのために飾り立てられる。
また、誰かの望む姿に仕立て上げられる。
かつて、婚約を言い渡されたあの日も。
婚約破棄と見限られたあの日も。
こうして、何も言えずに絹の衣をまとわされ、ただ「役立つか、役立たないか」で量られた。
窓辺の鏡が、ひどく遠くに見えた。
そこに映るのは、銀鎖に繋がれたまま、形ばかりの礼装を纏った、若い男の姿。
──これが、俺か。
ダリルは、静かに目を閉じた。
そのときだった。
扉の外で、気配が動いた。
誰かが近づき、そして──音もなく、立ち止まる。
ダリルは、反射的に顔を上げた。
黄金色の髪。
冷たく静かな瞳。
ロデリック・フォン・ヴェステンベルクだった──だが、いつもの軍装ではなかった。
彼は、漆黒を基調とした礼装仕様の軍服をまとっていた。
肩には銀糸の獅子紋章。
深紅の裏地を持つ黒いマントが、静かに揺れている。
無駄な装飾は一切ない。
それなのに──いや、だからこそ、そこに立つ彼の存在は、まるで帝国そのもののような、重い威厳を纏っていた。
(……こいつだけは、礼服を着ても、鎧を脱いだ感じがしない)
ダリルは、喉の奥で小さく息を呑んだ。
だが次の瞬間、自嘲のようにわずかに口元を吊り上げ、皮肉を呟いた。
「──満足か、獅子殿下」
かすれた声。
皮肉と、怒りと、どうしようもない痛みを滲ませた声音だった。
ロデリックは、一瞬だけまなざしを細めた。
怒りもせず、弁解もせず。
ただ、静かに目を伏せた。
そして、無言のまま、ゆっくりと背を向け、扉の向こうへ消えた。
沈黙。
直後、控えていたエドガーが、申し訳なさそうに近づく。
「……閣下は、ああいう方ですから」
ダリルは、エドガーを一瞥した。
(……知ったことか)
そう、心の中で吐き捨て、銀鎖を軋ませながら静かに拳を握りしめると、軋んだ音を立てた。
※
白亜の大理石を敷き詰めた、皇帝との謁見の間。
天井は高く、はるか頭上にある天窓から鈍い光が斜めに差し込んでいた。
壁には帝国の紋章を刻んだ大理石のレリーフ、床には冷たく透き通るような光沢があり、歩くたびに微かな靴音が反響した。
空気は張り詰め、澄んでいるのにどこか重たい。
鉄の匂い、香水の匂い、そして――血の匂いすら幻のように漂っていた。
ダリルは、銀鎖を引きずりながら進んだ。
深い青の礼装は帝国の白と銀の空間の中で、異物のように際立っていた。
左右に並ぶ帝国貴族たちが、一斉に視線を向けてくる。
その視線は、突き刺さるように鋭かった。
好奇。
侮蔑。
憐憫。
あるいは、あからさまな興味。
ダリルは顔を上げ、背筋を伸ばし銀鎖の重みを引きずったまま、まっすぐに進んだ。
その先に、ロデリック・フォン・ヴェステンベルクがいた。
ロデリックは、ほんのわずかだけ目を細め──何も言わず、隣に控えるように目線で指示した。
形式上、ロデリックの「保護下」にある捕虜──それが、いまのダリルの立場だった。
ダリルは銀鎖の重みを感じながら、無言でその横に立つ。
視線を漂わせれば黄金の紋章の背後――玉座には、ヴェステンベルク皇帝が静かに控えていた。
その姿は帳の向こうにあり、ぼんやりと影を落として顔も表情も見えない。
ただ、その場に在るというだけで、場の空気が張りつめるような圧を放っていた。
その手前、中央に並ぶのは帝国宰相と数人の高官たち。
彼らを挟むようにして、レーベンハイト王国の使者団が進み出ていた。
そして、その先頭に深い青の軍装に身を包み、銀髪を後ろで結った若い男。
アンリ・ド・グレイユが居た。
かつて──ダリルの婚約者だった男。
ダリルは、思わず呼吸を止めた。
アンリもまた、こちらを見ていた。
驚きも、嘲りもない。
ただ、冷たく感情の読めない二人の視線が、空中で交錯した。
過去の夜が、血のように蘇る。
あの日、「仕方ないだろう? Ωとして欠けているのなら」と、幼い自分を切り捨てた声。
ダリルは、銀鎖を握り締めた。
震える指先を、必死に抑えた。
(……違う。もう、俺は──あの頃の俺じゃない)
ひとつ、深く息を吐く。
そのときだった。
すぐ隣で、静かに声が落ちた。
「顔を上げろ」
低く、乾いた声。
ロデリック・フォン・ヴェステンベルクだった。
ダリルは、わずかに驚き、横目で彼を見た。
ロデリックは、こちらを見ていなかった。
ただ前を向き、揺るぎない立ち姿のまま、小さく──だが確かに、ダリルにだけ届く声で言った。
「……誇りを忘れるな」
その一言だけだった。
ダリルは、強く息を吸い込んだ。
銀鎖がかすかに鳴った。