6.誇りを捨てるな
帝都に来てから二週間がたった頃、ダリルは少しずつ身体を動かせるようになっていた。
相変わらず部屋から出る事は許されなかったが、窓辺で銀鎖を引きずる音をできるだけ小さく抑えながら、剣を抜き、短い素振りを繰り返す。
銀鎖がぎりぎりと軋み、手首に痛みを走らせる。
だが、かまわなかった。
剣を振ることだけが、いまのダリルにとって唯一「生きている」と思える行為だった。
ふと、扉の外で物音がした。
ダリルは動きを止める。
数拍の静寂の後、扉が叩かれ控えめな声が響いた。
「……失礼します。エドガー・レオンハルトです」
あの獅子殿下の副官だ。
ダリルは、返事をしない。
それでも、エドガーは扉を開けることなく短く告げた。
「お伝えします。──レーベンハイト王国より、講和の使者が帝都に到着しました」
ダリルの心臓が、かすかに跳ねた。
「……講和?」
かすれた声で繰り返すと、扉の向こうでエドガーが静かに肯定した。
「はい。数日以内に、皇城で正式な協議が行われる予定です」
淡々とした口調だった。
エドガーはひと呼吸置いて、さらに言葉を継いだ。
「……その際、ダリル様も同行を求められる可能性があります」
ダリルは、銀鎖を軋ませたまま、目を細めた。
(……何故、俺を……?)
答えは、すぐに浮かんだ。
敵国のΩ。
しかも、遅咲きで大公が番だと確信している。
利用価値がある。
両国ともに交渉材料にできる。
あの夜、扉の外で聞いた会話が頭にこだました──まるで、過去の亡霊に、また手を伸ばされたかのような感覚。
ダリルは、ぎり、と剣の柄を握りしめた。
熱く滲む掌。
怒りではない。
恐怖でもない。
ただ、抗いがたい絶望に、再び心を飲まれまいとする、必死の抵抗だった。
(──来るな。誰も、俺に触れるな)
銀鎖が、小さく悲鳴を上げた。
「その件は決まり次第、あらためてお知らせに参ります。それとは別に閣下より夜、食事を共にするようにと仰せつかっています」
エドガーは静かに告げるとその場を後にした。
静寂が、再び室内を満たす。
残されたのは、ひとり、剣を握りしめたまま、震えるダリルだけだった。
夜。
離れの小棟は静まり返っていた。
窓の外には、鈍く曇った月が浮かんでいる。
微かな夜風が、鉄格子を震わせる音だけが耳に残った。
小さな食卓。
白布が掛けられたその上に、温かいスープと硬い黒パン、そして小さな肉料理が置かれている。
ダリルは、じっと手を止めていた。
銀鎖が、かすかに軋む。
そして──向かいの席には、ロデリック・フォン・ヴェステンベルクがいた。
礼装ではない。
黒の軍服に、軽く外套を羽織っただけ。
黄金の髪が、灯りに淡く照らされている。
無言だった。
食器の触れ合う音すらない。
ただ、二人の呼吸だけが空気を震わせていた。
やがて、ロデリックが静かに言った。
「……エドガーから聞いたと思うが、講和条約が結ばれる日は近い」
低く、感情を抑えた声。
ダリルは、視線を動かさなかった。
ただ耳だけを、そちらに向ける。
ロデリックは、わずかにパンを千切りながら続ける。
「レーベンハイト王国は、もう戦えない。兵は疲弊し資源は尽き、民は飢えている」
冷静な言葉だった。
同情も、侮蔑もない。
ただ、事実を告げるだけの声。
ダリルは、拳を膝の上で握りしめた。
ロデリックは言う。
「ヴェステンベルクとしてもこれ以上、戦をするつもりはない。若い王は時に血気盛んだ。だが、国を支えるには、それだでは足りない」
まるで、遠い歴史を語るような調子だった。
ダリルは、唇を噛んだ。
(……知っている)
誰もが、帝国に戦を挑むなど愚かなことだと思っていた。
それでも、最後の最後まで、国を、誇りあるものとして守ろうとした。
──その結末が、これだ。
食事の匂いが、妙に遠く感じた。
冷めた肉に手を伸ばす気にもなれず、ダリルはただ俯いた。
銀鎖が、小さく鳴る。
そのとき。
ふと、ロデリックの声が落ちた。
「……生き残った者が、すべきことは一つだ」
ダリルは、顔を上げた。
ロデリックは、じっとこちらを見ていた。
冷たくも、温かくもない。
ただ、静かに。
「……誇りを捨てるな。それだけが、国を、己を生かす」
その声は、低く、堅く、揺るがなかった。
ダリルは、何も言えなかった。