1.雷鳴の獅子と蒼鷹
乾り上がった大地を裂く騎兵の突撃音が、戦神への賛歌のように轟いた。
西域最大の軍事国家――ヴェステンベルク帝国。
その黒旗が要塞都市アルトナの城壁を呑み込み、夕陽に赤く染まった空へと翻る。
丘の稜線に立つのは「雷鳴の獅子」と呼ばれる大公――ロデリック・フォン・ヴェステンベルク。
「中央突破、予定より半刻早いな」
副官であるエドガーの報告に、ロデリックは小さく頷いた。
作戦図どおり。
いや、敵の動きを読み切った分だけ余剰が生じた。
「門を壊せ。抵抗した兵は討って構わん」
剣のように鋭い号令が降りる。
獅子の軍旗が掲げられた瞬間、帝国精鋭騎兵が装甲槍を傾け、一斉に城門へ奔った。
ヴェステンベルク帝国とレーベンハイト王国は隣国同士でありながら、長年にわたり幾度も剣を交えてきた。
両国の国境地帯には豊かな鉱脈があり、そこから産出される「魔鉱石」は魔道具の製作に欠かせない希少資源だった。
今や魔道具は貴族から庶民に至るまで、生活に不可欠な存在となっている。
そのため、魔鉱石をめぐる争奪戦は激化し、停戦協定は結ばれても常に破られ、疲弊ばかりが募る悪循環に陥っていた。
疲弊を重ねるばかりの泥沼に、ついにヴェステンベルク帝国も重い腰を上げた。
戦局を打開すべく皇帝の命によって呼び出されたのは——雷鳴の獅子の異名を持つ皇帝の弟、ロデリック・フォン・ヴェステンベルクだった。
剣術、戦術の双方に卓越し、数々の戦場で無敗を誇る名将。
輝く金の髪は陽光を帯びるたび刃のような光を返し、猛々しい金の瞳は敵将を睨めば一瞬で戦意を折る。
恵まれた体躯は無駄なく鍛え上げられ、長身から放たれる気迫は、遠目からでも王者の風格と畏怖を感じさせる。
重い黒鎧の隙間からのぞく肌は褐色がかり、野戦を駆ける者だけが持つ硬質の強さを漂わせていた。
騎乗の姿は大地を貫く雷鳴のよう。
その存在は、まさに戦場に雷鳴をもたらす獅子——。
帝国の希望であり、敵国にとっては恐怖そのものであった。
日が落ちるころには戦場に響いていた金属の衝突音は消え去り、血と泥の匂いだけが残った。
敗北を悟ったレーヴェンハイト王国軍の兵たちは武器を捨て膝をつき、ある者は泣き、ある者は無言で空を見上げている。
その列の中――蒼銀の軍装を纏い血を滲ませながらも背筋を折らず、若者がいた。
艶のある黒髪は血と汗に濡れて頬に張り付き、白い肌と繊細な輪郭を一層際立たせる。
青い双眸が異様なほどまっすぐロデリックを射抜く。
身体は華奢というより細身で、兵士たちの中では一際小柄に見えた。
だがその視線だけは、己の背丈を補って余りあるほど鋭く、冷えた誇りを宿していた。
薄く引き結ばれた唇、頬をかすめる小さな裂傷、全身の震えさえ誇りで押し殺すかのような佇まい。
──まるで砕けそうで砕けない、闇に光を宿した断片のように。
その瞬間、わずかに、ロデリックの肩が動いた。
それは、誰にも気づかれないほど小さな、本能の微かなざわめきだった。
「閣下、捕虜の将兵を揃えました。あの男は下級貴族の――」
エドガーの説明を、ロデリックは右手で制すると馬を進めた。
彼に近づくにつれ、鉄と血の匂いの奥から淡い甘香が混じり始めた。Ω特有の、しかし初めての発情を予兆させる拙い香り。
蒼い瞳の若者の前でぴたりと歩を止める。
(ヒートを迎えたことがないのか)
希少な遅咲きのΩ――しかも敵国の士官。
ロデリックは高い鞍上からその男を見下ろし、己の本能が告げる言葉を口にする。
「その者を俺の戦利品とする。名は?」
「……ダリル・エティエンヌ・ド・ヴァレール。捕虜の処遇は戦時条約に従ってもらう」
疲弊したはずの声は芯を失わず、唇には乾いた嘲笑が浮かんでいる。
「なるほど、獅子殿下。あなた方は誇りより欲望を先に満たすらしい」
エドガーを含め、その場に居た帝国兵たちが息を呑んだ。
嘲りの言葉を放った相手が誰であるかを、彼は理解していた。
しかしロデリックは微笑すら見せず、宣告する。
「欲でも誇りでもない。番だと確信しただけだ」
蒼い瞳がわずかに揺れた。
その一拍の揺らぎを、ロデリックは逃さなかった。
対するダリルは息を呑みかけ、すぐに唇を引き結ぶ。
だがその顔色は、ほんのわずかに朱を帯びていた。
気付かれまいと強がるその仕草さえ、獅子の目には隠せなかった。
「鎖を用意しろ。丁重にだ。死なれては困る」
エドガーが慌てて敬礼する。
その横顔に、笑みとも畏怖ともつかぬ色が浮かんだ。
深夜。
帝国軍野営地の最奥にある黒天幕。
粗く織られた布越しに、焚き火の赤が揺れる。
テント中央の寝台ではなく、その片隅でダリルは息を詰めていた。
両手首には銀鎖。
奥で鎧を外す音が止む。
漆黒の影が近づき、蝋台の灯が金の髪を浮かび上がらせる。
「距離を取れ」
低く抑えた声。
ダリルは反射的に腰を引いた。
だが鎖が足りない。
ガシャン、と束縛が張りつめ、身体が前へ引き戻される。
咄嗟に噛みつくつもりで歯を剥いたが、喉が焼けるように乾き、身体が妙な熱気に包まれて力が入らない。
(馬鹿な……俺は、ヒートなど一度も……)
腹の奥で、じわりと疼く脈動。
皮膚が、血が、勝手に甘やかな香りを滲ませる。
ロデリックはわずかに眉を寄せた。
「抑制剤を使わず生きてきたと聞いた。遅効型のΩは初発が安定しないと聞く」
その言葉に、ダリルはかすかに目を見開いた。
(──遅効型……?)
そんなもの、知らなかった。
発情は、Ωなら誰でも幼少期に訪れるものだと、そう教えられていた。
それがなかった自分は、「壊れている」「欠けている」と、だからこの先もずっと、ヒートを起こす事なんてないと──そう思っていた。
だが、ダリルは必死にそれを押し込め、睨み返す目だけは逸らさなかった。
「近寄るな……!」
「噛む気はない、まだお前のヒートは誘発には達していない」
淡々と告げた声に嘘はないように思えた。
「っ……今すぐ殺せ。囚う理由はないはずだ」
「ある。俺が生涯欲した『翼』だ。戦は終わる。だが次の時代を飛ぶには、蒼鷹の翼を番として迎える必要がある」
「俺は帝国の傀儡になるつもりはない」
「番は鎖ではない。誓いだ」
大公が顔を寄せる。黄金の瞳に映る自分の頬は熱に赤い。
その瞬間、外で警戒ラッパが一度鳴った。
斥候が戻り、戦後処理が終わった合図――夜襲はない。
「今夜は医官を呼ばぬ。未熟とはいえΩの発情は敵意を引き寄せる」
短い肯定に、ダリルは言葉を失う。
銀鎖が微かに鳴った。
蒼銀の軍装に包まれた細身の身体が、痛々しいほどに震えている。
喉が焼けつく。
皮膚の裏側で脈打つ熱が暴れ、身体の芯から甘い香りが溢れて止まらない。
まるで、自分の中に眠っていた獣が目覚めたかのようだった。
ダリルは荒い呼吸を押し殺し、縛められた手首を軋ませた。
金の髪の男は、何も言わなかった。
ただ、手に持っていた黒革の袋を開き薬品の瓶と布を取り出した。
瓶の蓋を開け布に染み込ませる。
その薬液の匂いが、焚き火の煙と混じり鼻腔をくすぐる。
男は無言のまま、ダリルの肩口の破れた軍装をそっと裂いた。
痛みが走り、ダリルは反射的に身体を捩らせる。
「っ……触るな……!」
乾ききった喉で絞り出すように叫んだ。
だが、身体は汗に濡れ、力は入らない。
噛みつくことも、突き飛ばすこともできないまま、ダリルは肩を揺らすだけだった。
──抵抗しなければ、誇りを失う。
そう思って、ダリルは歯を食いしばった。
「殺せ……こんな…屈辱を味わうくらいなら……死んだほうがマシだ……」
呻きにも似た声。
熱に浮かされた頭でも、それだけは言えた。
そのとき。
「……おとなしくしろ」
低く、落ち着いた声が空気を震わせた。
命令ではない。
叱責でも、怒りでもない。
ただ、静かに、どうしようもないほど確かな声。
ダリルは震えながら睨み上げた。
金の瞳は、至近距離でまっすぐこちらを見返していた。
鋭くも、冷たくもなかった。
ただ、淡々と、必要なことだけを成そうとする目。
肩に冷たい感触。
薬液を染み込ませた布が、傷口を押さえる。
「……っ、……触るなと、言っているっ!」
かすれた声が喉の奥から漏れたが、ロデリックは応じなかった。
淡々と血を拭い、消毒し、包帯を巻いていく。
その手つきには、一切の情欲も苛立ちもなかった。
ダリルの身体がわずかに震え、銀鎖が軋む。
矜持だけで自分を支える――その限界が、わかっていた。
やがてダリルの膝が崩れ、全身から力が抜け、意識が沈むように落ちていった。
その瞬間、ロデリックは無言で、倒れかけた彼の身体を抱き留めた。
浅く息を吐き、壊れ物を扱うようにそっと腕に抱き上げ、簡素な寝台へと運ぶ。
「……誇り高き鷹だな、お前は」
小さく、つぶやく。
その頬に髪がかかるのをそっと払いのけ、傷だらけの手を包帯で覆った。
触れることは容易い。
だが、それをすれば、ただの所有に成り下がる。
この男は、決してそれを許さないだろう。
ロデリックは静かに立ち上がり、焚き火の赤を一度見やった。
銀鎖の軋む音だけが、静寂の中に溶けていく。
その音が、妙に胸に残って仕方なかった。
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