第二十話、雨のち晴れ。
季節外れの雪が降った後の出雲では雨が降っていた。
時々、雷鳴が響き渡る。風もとても強く吹いていて窓ガラスを揺らしている。
『――続いて気象情報です。島根県出雲市で大雨警報、強風注意報が出されています。出雲市にお住まいの方はくれぐれも――』
暗い室内にニュースの音声が流れる。
窓ガラスの揺れと雨の当たる音でニュースの音声はほとんど聞き取れなかった。
ここはホテルの一室。ソファーではベルが寝かされ、亘希はその隣で座っている。
あの後、亘希は眠るベルを担ぎながら山を降りていた。ただでさえ降りるのが大変な山を誰かを背負って降りるのはなかなかの至難の業だった。やっとの思いで下山したが、すぐに雨が降り出した。当然、傘なんて持ってきていない。しばらく近くの店の軒先テントで雨宿りしていたが、一向に止む気配がなく、仕方なくコンビニで傘を買い、ホテルに帰ってきたのだった。
ホテルに帰ってきてから雨はより一層勢いを増していた。
そんな中雷光が部屋を照らす。間髪入れずに雷鳴が轟く。だいぶ近いところに落ちたようだ。
ベルはそんな中でもすやすやと深く眠っている。
その刹那、亘希の脳裏にある光景が浮かぶ。
そうだ、あの時もこんな…。
心臓の鼓動が激しくなる。今まで忘れていた、忘れようとしていた光景が脳内にフラッシュバックする。
「はッ…はぁ…はぁ…!」
息切れが激しくなる。息が苦しい。とてつもない胸の痛みと吐き気が体の中を蠢き回る。
雨の中、外で一人で佇む自分。雨の冷たさと頬の痛みが鮮明に蘇る。滝のような汗が体を伝っていく。
何かに引き摺り込まれそうな幻覚を感じる。意識が暗い闇の底に落ちていく…。
「…ん…亘希くん…?」
ハッとして目を開ける。急に現実に引き戻される。まだ息が上がっている。
すぐさま汗を拭き取り、ベルに笑顔を向ける。だが汗は止まらない。
「おっ、おはよう…!」
「…?汗すごいよ…?熱でも…ふぁあ〜…あるのかな…?」
「そ、そうかもね〜?」
胸の苦しさを我慢し作り笑顔を作る。
「やっぱり熱あるかもしれないから今日はもう寝るね…。じゃあちょっとお風呂に…!」
過去を受け止めるとかかっこいいことを言いながら自分の弱みを隠そうとする自分に嫌気がさす。すぐにベルと離れたい。自分の弱いところなんか見せられたものじゃない。そうやって早足で離れようとする亘希の手をベルが掴んだ。
「待って…!」
「えっ…?」
体勢を崩してソファーに尻餅をつく。そんな亘希をベルはまだ眠そうな目で見つめてくる。
ソファーに倒れ込んだ時に腕が隣の台に当たった。痛みで顔をしかめているとベルの両手が亘希の顔に伸びる。
そしてそのままベルは自分の顔に引き寄せた。
「…!?」
ベルと亘希の額が密着する。目と鼻の先にベルの顔がある。
さっきまでとは違う意味で心臓がドキドキしてくる。ベルの吐息が顔に直接当たる。
自分の顔が赤くなるのを直に感じていた。
「べ、ベル…!?」
「…うん、熱はなさそう…。」
額が離れる。まだ心臓の鼓動が激しい。心臓の音がうるさくて、雨の音すら聞こえない。
声が出ない。亘希の頭はすっかりベルへとシフトし、さっきまでの悪夢は影も形も無くなっていた。
「…えっと…ここはどこだっけ…?う〜ん…。」
そう呟いて周りをキョロキョロと見渡す。
その時、ふらついた足が自分の足の踵を踏み、体制を崩す。
「あっ…。」
そうベルが呟いた時にはもう立ち直れないところまで来ていた。
「ベル…!」
急いで床とベルの間に割り込む。間一髪で滑り込めた。亘希の手にベルの重みが伝わってくる。
「ふあぁ〜。あれ?今まで私何して…。」
抱きかかえられたベルと目が合う。
彼女の寝起きの脳がフル回転され、今自分がしたことがフラッシュバックしていく。その瞬間ベルの顔が耳まで赤くなった。
「〜〜〜〜っ!!ちちち違うのッ!!え〜と、さっきのは…!ちょっといつもの癖で…!」
顔を赤くし必死に弁明しようとするベルにすっかり我に帰る。
「癖って…。そんな癖ある?」
「ええと…、あっ、寝ぼけてたからそれで…!うん!そうなの、寝ぼけてたの!」
「…ぷっ、ふふっ、ふふふふっ!」
「笑わないで!私は…!」
「わかった。ふふっ…!」
「笑わないでってば!」
拗ねて頬を膨らませるベルにまた思わず笑ってしまう。
そうだ、ベルといればあんな過去だって二度と思い出さなくて済むかもしれない。眩しくて優しくて強い彼女なら自分の辛い過去でさえかき消してしまえるだろう。そう思えるほどにベルは眩しい。彼女にならきっとどんな自分でも見せられる。
もう、隠さない。いや、隠さなくていいのだ。だって…
「行こっか、温泉!」
「えっ、まあいいけど…。寝ぼけてただけだからね!さっきのは!」
「はいはい、もうわかったから。ふふっ!」
「分かってないじゃん!」
もう、ひとりじゃないから。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「…はあぁぁぁ〜〜!」
私は大きくため息をついた。
私はなんであんなことしたんだろう。あんな…こと…。
「〜〜〜っ!」
今思い出しても恥ずかしさで顔が赤くなる。
息が当たるほどの距離で亘希くんと見つめあった。寝ぼけていたとはいえあそこまでするだろうか。あんな近くに亘希くんの顔があることなんて初めてだ。
「あ〜〜〜〜!もうっ!」
もう考えないようにした。さすがに風呂でさえリラックスできなければもう落ち着く場所がない。
それにしても今日は散々な日だった。連戦による疲労はまだ体に残っている。
それとガープの件。
彼女は私に何度も繰り返し過去を見せてきた。思い出したくもないあの過去を。
それはやはり断罪するべきことで、倒されるのは自業自得なことだが、それでもあの最期は忘れられない。あんな残虐な最期は敵だろうが到底受け入れられない。
私には死というものへの覚悟が足りていなかった。この先死に向き合わなければいけない日は必ずくる。それまでに死を受け入れられる日は来るのだろうか。
「はぁ…。」
せっかくリラックスしようと別のことを考えたのにさらに体が疲れてきた。もういっそそっちのことを考えた方が…。
…いや、無理だ。あの時の亘希くんの顔が何度も脳にフラッシュバックする。その度に心臓がバクバクする。こんなことは初めてだ。無意識にお風呂に顔を沈める。口から出た空気がブクブクと上がっていく。
「…もう。亘希くんのばか…。」
顔を上げて小さく呟く。
「あの…。」
聞き覚えのある声が聞こえる。驚いて振り返るが誰もいない。当たり前だ、彼は今…。
「全部聞こえちゃってるよ、ベル…。」
「えっ〜!もう、どこから聞いてるの!?」
「上見て、上。」
「え?」
上を見れば天井に近いところだけ男性風呂と女性風呂がつながっている。私の声は亘希くんに筒抜けだった。それだけで恥ずかしくなるが、変なことを言ってなかった分マシだった。
「勝手に聞かないでよ…。むぅ…。」
「仕方ないでしょ…。」
彼もこうして話しているということは男性風呂の方にも誰もいないのだろう。よかった、心置きなく話せる。
「あの、さ…。」
「…ん〜?」
「明日はちゃんと…私を楽しませてね。楽しみにしてるんだから。」
「うん。分かってる。明日のために今日まで色々考えてきたからね。」
いつも彼はこうやって私に正面から向き合ってくれる。それが私にとって一番嬉しいことだった。私が過去を話せなかった時も、私が苦しんでいる時も彼は私を見て…。
「…違う!そっちじゃない!」
「えっ!?どういう意味!?」
「なんでもない!」
「そっか…。」
ああ、もう頭がふわふわする。何も考えられない。のぼせてきてしまったのだろうか。もう出なくては。
お風呂から出て脱衣所へ行こうとする。あっそうだ。これだけは言わなきゃ…。
「あの…亘希くん…。」
「ん?」
「これからもよろしく…ね。」
「…うん。こちらこそ。」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
雨はもう上がっていた。
太陽はゆっくりと地平線を上がってくる。
朝焼けの空に虹がかかっていた。
新しい朝が始まる中、ベルと亘希の二人は目を覚ました。




