第十五話、卑怯な蝙蝠。
―――私は。
私は誰なんだろう。神か悪魔か選ぶこともできず、表では悪魔を装う。
目の前に広がる広い闇。私の前には何もない。
誰の声も聞こえない。私の声も届かない。私は、独りぼっちだ。
私がいじめられないようにみんなに弁明したお父さんも、一緒にいることで私が悪いことを言われないように距離を取ったお母さんもみんな私のために働いてくれたのに、なんで私はこうも虚しい気持ちになるのだろう?なんでこうも惨めなのだろう?
――ピシッ
やっぱりこんな私なんか彼には見せられない。見せるのが怖い。自分が何なのかさえ決められず、ただただ他の悪魔の真似をすることだけしかできないこんな私を。
――ピシピシッ
心の奥底から何かが押し寄せてくる。恐怖ももうなかった。いっそこのまま沈んだ方が…。
「―――ベル!」
――!何でここに…!?
―――パキッ!
暗闇にヒビが入り光が差し込む。自分を縛り付けていた鎖が光に当たり、まるで砂のように消えていく。その瞬間この場所は完全に崩壊した。壁一面にヒビが入り弾ける。そこに立っていたのは私の『友達』だった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
話は少し前に巻き戻る。ベルがガープに眠らされた頃、亘希は一人別の空間にいた。何かが起こるわけでもなく、まるで時間が止まっているように何も動かない。ベルは大丈夫だろうか。その疑問だけが頭に浮かぶ。
『…あなたは卑怯なコウモリというお話をご存知ですか?』
急に頭上から声がした。その方を見ると女性が二人空を飛んでいた。まるでカラスのように真っ黒な服とスカート。青白い瞳と、紫の瞳が爛々と輝いて見える。
「君たちは…?」
『名乗るような名は』
『持ち合わせていない。』
『我々は常に静観するのみ。』
『干渉しない』
『ただ全てを見届けるのみ。』
『全ては天の運命のまま。』
まるで照らし合わせたように交互に流暢に喋る二人はとても不気味に見えた。
そしてそのまま昔話を始めた。
『昔、獣と鳥が戦争をしていた。』
『コウモリはいつもどちらか優勢な方についた。』
『鳥が優勢の時は自らの羽を鳥の証とし、』
『獣が優勢の時は自らの体毛を獣の証とした。』
『しかしある時戦争は終わった。』
『どちらにもいい顔をしたコウモリは』
『獣からも』
『鳥からも』
『嫌われて夜しか飛ばなくなった。』
『どちらも捨てられず、』
『両方を選んだコウモリは』
『最後はどちらも失った。』
『おしまい』
『おしまい』
どこかで聞いたことがある話だった。嘘をついたコウモリが最後に誰からも見捨てられるのは印象に残っている。
「何でその話を僕に…?」
二人が不気味に笑う。
『…悪魔と神を選べないコウモリが最後に選ぶのはどちらか。』
『破滅か救いか』
『あるいは…。』
二人の口が急に止まる。
『コウモリは一羽だった。』
『他に仲間はいなかった。』
『だが彼女は仲間を得た。』
『餌を分け合う仲間を。』
亘希は二人がベルの話をしていることに気づいた。おそらくコウモリはベルのことだろう。悪魔と神を選べない?どういうことなのだろう。
「…ベルは今どこに…?」
それを聞いて彼女たちはにやりと不気味に笑った。
『我々の知りたいことはただ一つ。』
『彼女は、いや、彼女たちがどちらを選ぶのか。』
『獣か、鳥か。』
『はたまた蝙蝠か。』
急に二人の体が透け始める。
『…我々の助言はここまでだ。』
『然らば。』
二人は完全に姿を消した。
気づけば亘希はどこかの廊下に立ち尽くしていた。
「ここは…。」
赤いレッドカーペットが敷かれた廊下。廊下についている明かりは弱く、床をぼんやりと照らしている。
まっすぐに続く廊下。後ろは真っ暗闇で何も見えない。亘希は前に進むしかなかった。
しばらく進むと壁にはたくさんの額縁があった。しかしその多くには何も貼られていなかった。
そして所々には横に行ける扉がある。その扉とこの暗い廊下の様子はまるで…。
「映画館みたいだ…。」
少し進むうちに亘希は一つのポスターを見つけた。無地にただ『ベルゼ・バアル』とだけ書かれてあった。
「ベルの名前…。ここがもし映画館だとするとつまり…。」
廊下を走って突き進む。扉を通過する度に看板を確認する。そしてようやく看板に『ベルゼ・バアル』と書かれた扉を見つけた。
「あった…!これだ!」
微かながら扉の向こうから音が聞こえる。扉はいとも簡単に開いた。
まるで誘い込まれているような不気味さを感じるが、ここに入ることくらいしか彼の心の中には浮かばなかった。
中は広かった。本物の映画館のようにたくさんの席があるが、そこには誰一人座っていなかった。肝心のスクリーンはノイズが走っており、大音量のノイズ音だけが耳元を劈く。
「ぐっ…!耳が…!」
聞いているだけで不快感や吐き気を感じさせるこの音は耳を塞いでも頭の中を響き渡る。先ほど開けた扉はもう開くことはなかった。思わず客席に座り込む。すると映像が切り替わり、開幕のブザーが鳴った。
――流れてきたものはベルの過去だった。悪魔と神のハーフとして生まれた彼女。悪魔として嫌われ、神として扱われない日々。優しい彼女は誰も恨まなかった。ただ自分だけを責めた。弱い自分を。決断できない自分を。頼ってばかりの無力な自分を。そして彼女は自ら悪魔という殻に身を投じた。
確かに自分を悪魔だと認めてしまえば、悪魔としての自分が本当の自分だと認めてしまえば、どれだけ悪魔と罵られようが心は耐えられるだろう。だがそれは神である自分を否定することを意味する。自分を否定する、それがどれだけ苦しいことか、亘希は身に染みて知っていた。彼も同じだったから。自分を隠す自分が嫌いだった。本当の自分はどの自分なのか。彼は未だにその迷宮を彷徨い続けている。
映像が切り替わり画面が暗くなる。
亘希は何も言えなかった。前に自分が話した過去とは比べ物にならないほど壮絶で苦しく、孤独な過去だった。亘希の目の端に涙がたまり、零れ落ちる。しんと静まり返った劇場内に金属の擦れる音が響いた。亘希がハッとして顔を上げると暗くなったスクリーンの奥に何かが見える。急いで駆け寄ると、スクリーンの奥に何か空間が見える。この奥に何があるのか、亘希はもう悟っていた。
「…ベル、この奥にいるんだね。」
返事はない。でも、亘希はその向こうにいるはずの彼女に声をかけ続ける。
「自分の過去を話したからって君の過去を聞き出そうとしたこと、謝るよ。こんな過去、誰だって話したくもないよね。話そうとすると行き場のない怖さが溢れてくるんだよね。こんなことを話してもみんなは自分を認めてくれるのかって。分かる、分かるよ。本当にごめん。…でも、もう大丈夫だよ。もう君を知れた。悪魔の自分も、神様の自分も、もう見捨てなくていい。どんな君も君なんだって僕が認め続けるから。たぶんアリエも同じ気持ちなんだと思う。君はもう独りじゃない。僕が君のおかげで独りから抜け出せたように、今度は僕が君を助けるから。いくらでも頼ってくれて構わない。だからお願い、戻ってきて!」
突如闇を切り裂くように一本の鎌が降ってきた。それは亘希の目の前に突き刺さり、暖かな光を放っていた。
鎌を引き抜き、構える。かつて彼女がそうしていたように。
「いま助けるよ、ベル。」
亘希は無我夢中で鎌を振り、スクリーンを切り裂く。すると中から巨大な真っ黒な水晶が現れた。その中には鎖に繋がれたベルがいた。水晶の中のベルは眠りについていた。
「ベル!」
必死に彼女の名を呼ぶ。それが彼女に聞こえてようが聞こえてなかろうが、亘希には関係なかった。
亘希はただ彼女を助けるために、鎌を振り続けた。ようやく水晶にヒビが入る。何度も何度も手が痛くなり、鎌を落としそうになる。だが、それでも亘希は鎌を振り続けた。
そしてようやく水晶は音を立てて崩れ落ちた――。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
崩れ落ちた水晶からベルが転がり落ちる。
すんでのところで亘希は彼女を受け止めた。
いつもの安らかな寝顔に、つい顔が綻ぶ。
水晶が割れた時、あの映画館のような空間も消え失せてしまった。残骸も残らず、全く別の空間が広がっている。亘希にはここは見覚えがあった。
「ここって、ベルと初めて会った場所…!」
確か『夢の間』と言っていただろうか。彼がここで彼女と出会ったことが全ての始まりだった。
その時、亘希はベルの目が開いたことに気がついた。
「…!ベル!」
「…ん…、ここは…。私は今…。」
ベルが目を覚ましてくれたことで亘希の心の中に安堵感が広がる。
「…ベル、ごめん。」
「えっ?何が?」
「君から聞く前に君の過去を見ちゃった。せっかく覚悟を決めてたのに、ごめんね。」
ベルは驚いた顔をして亘希を見つめる。少し見つめた後ベルは優しく微笑えんだ。
「…謝る必要ないよ。さっきもあんなに謝ってたじゃん。」
「えっ!?聞こえてたの!?」
「うん、ばっちりね。」
すっかり聞こえてないと思い込んでいたので恥ずかしくなり顔が赤くなる。
「『今度は僕が助ける』。そう言ってたよね。私ってこんな生まれな上に、『神たちの王』って私には勿体無いくらいの位だからさ、自分から頼ることなんてできなかった。他の神から頼られる存在であるために誰かを頼ることは許されなかった。いつもアリエやお父さんたちが私のために何も言わなくても行動してくれて、私は右往左往することしかできなかった。でも君は『頼っていい』、そう言ってくれた。私にはそれがとても嬉しかったんだ。」
「ベル…。」
「だから改めて私から頼ませてほしい。亘希くん、私を、あなたの友達にして!」
亘希はしばらく呆然としていたが、すぐに笑顔を返す。
「…うん、こちらこそよろしくね、ベル。」
ベルの顔に太陽のような笑みが広がる。
「…ところでお願いなんだけど…。」
「ん?」
「一回降りてもらってもいい?ちょっと重くて…。」
亘希はずっとベルをお姫様抱っこの要領で抱き抱えていた。そろそろ腕が痺れ始める頃だ。
「あっ、ごめんごめん!今降りるよ!っていうか、女子に重いとか、デリカシーないぞ〜?」
「ごめんって。」
ベルがゆっくりと亘希から降りる。
「さて、今からどうしようか…?」
「うーん、あっ、あれって!?」
ベルが驚いた声を上げる。そちらを見ると一人の小柄な女性がこちらを見ていた。ピンク色の髪にいわゆる地雷系の服。あまりに場違いすぎる。
「あれ〜?アタクシの予想だともう廃人状態になってもおかしくないはずなのですが…。」
「廃人…?」
二人が問いかけると彼女は不気味な笑みを浮かべる。
「その人にとって辛い過去を何度も追体験させることで心が壊れるのを待って体には一切傷を入れずにあなたの身体を手に入れる予定でしたのに。ああ、あなたは初めましてですよね。私は序列33、階級『総裁』、ガープと申します。」
そう言って深くお辞儀をする。どこか高貴な感じがするその姿に不気味さを感じずにはいられなかった。
「…なぜ、あなたはまだ動けていられるんですか?もうとっくに精神が崩壊しているはずですが…。」
「君が私を弱らそうと思ってあれを見せたのなら、逆効果だったね。」
「というと?」
「私はもう迷わない。私は神であり悪魔。ベルゼブブの孫にして現・最高神の娘、ベルゼ・王・グラディス。ここに参上、だよ!」
ベルの宣言が空に響く。
戦いの火蓋は落とされた。