プロローグ、明晰夢。
―――夢を見ていた。
いや、普通今見ているものが夢かなんて分かるはずもないのだが、なんとなく自分は夢の中にいるのだと実感した。俗に言う明晰夢というものかもしれない。
―――どこだここは…?
そこは雲の上のようだった。雲のようにふわふわとしたものの上に自分が立っている。空にも雲が広がっており、なんとも形容し難い光景だ。その雲のようなものも色に現実味がない。視界の端には星空のようなものも見える。心なしか意識もぼんやりとしている。この場所に来てもう一時間も経ったようにも思えるし数分しか経ってないようにも思える。この夢の世界に来てから何も起きていないため時間感覚が狂ってきていた。
…暇だ。
周りには雲と星空以外何もない。いくら夢の中とはいえただぼっとしているだけでは退屈してしまう。
そういえば、前に動画で見た内容によると明晰夢では自分の体を自由自在に動かせるらしい。もしこれが明晰夢のようなものならば体を動かせるはずだ。
試しに体を動かそうとしてみる。
動く。
自分の体の自由に少し安心したのもつかの間、急に視界がぼやけた。頭がズキズキする。どこかから引っ張られるようなそんな感覚。
―――夢から起きようとしているのか?
意識がだんだん薄くなっていく。そんな中彼の瞳に一人の女性が映った。さっきまで誰もいなかったのに。
―――誰…だ…?
狐耳?に白地に赤の模様のついた和服、なんとも場違いな格好だ。顔はぼやけて見えない。口元だけが辛うじてわかるくらいだ。髪色は服と同じく白色の中に鮮やかな赤色が混じっている。彼女は彼が自分を見ていることに気づいたからなのか、口元を綻ばせ微笑んだ。
鼓動が早くなる。意識が朦朧とする。そんな中彼女の唇が動いた。
「――――、―――――――。――――――。」
何か話している。でも何も聞こえない。糸が千切れるように意識が途切れる。その直前、彼女の最後の声は彼に届いた。
「頑張って。」
その声はまるで耳元で囁かれたように頭の中で反響した。
彼の意識は暗黒に染まった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
再び意識が戻ってきた。
「現実の世界に帰ってきたのか…?」
瞼を開き、辺りを見渡す。
見覚えがあった。が、現実ではない。意識が途切れる前の夢の世界に戻ってきていただけだった。
夢の世界は先程とは少し変わりつつあった。視界の端に見えていた星空が消え、辺り一面が雲に覆われていた。
不意に後ろに人の気配がした。ばっと振り返ると紫色の髪をした少女がいた。引き込まれるような美しい金色の目をした可愛らしい少女だった。少女はこちらに気づくと不思議そうな顔をした。
「あれ?キミは人間だよね?普通の人間はこの『夢の間』に入り込めないはずなんだけど…。」
「『夢の間』…?」
「そう、この場所の名前。私たちが管理している『夢の監視塔』の中だよ。」
全く聞き覚えがなかった。『夢の間』も『夢の監視塔』も。
「その反応だとここのこと、何も知らないみたいだね。君がどうしてここにいるのかは分からないけど、それでも迷子は助けてあげないとね。」
そう言うと、彼女は後ろを向いて歩き出す。
そして振り返って微笑む。
「付いてきて。」
雲間が晴れ、日が差してきていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「――ふぅん。なるほどね。狐耳の女性…か。ここでは見たことはないな。」
彼女にこれまでの経緯を話した。同じく『夢の間』にいた彼女なら知っているかもと思ったからだ。とは言っても彼女は何も知らず何も意味はなかった。
『夢の間』はとても広かった。歩いても歩いても景色が変わらない。
彼女曰く「最短ルート」らしいが出口らしきものは見つからない。
「それにしてもよく立っていられたね。」
「えっ?」
「あそこは耐性がない者や、慣れていない者が入ると吐き気や頭痛が起こるんだよ。ここは人が見る夢を管理する場所。迂闊に行動するとその夢に影響されることがあるからね。」
そういえば意識が途切れる前、頭がズキズキしていたことを思い出した。それが治ったのは再びこの世界で目を開いてからだ。
「ほら、ここだよ。」
彼女がそう言うとどこからともなくその場所に扉が現れた。その扉に手をかけると、彼女が話しかけてきた。
「――そういえばキミ、ここ来たのは初めてだって言ったよね。」
「うん。」
「だったらこれからこれを皮切りに色々なものに巻き込まれるかもしれない…。だから。」
「だから?」
「私と、契約してくれない?」
「…は?契約…!?」
「そう、契約。私はキミの願いを一つ叶えられる。まあ、代償はその内容によるけど、こうすることで私はキミが夢から醒めても守ってあげられる。さぁ、キミはどうする?」
「ちょっと待って!?急に契約って言われても…。」
「何か心配?」
「まぁ、そうだけど…なんか騙したりとかはしないよね?伝えなきゃいけないことを聞かれるまで伝えないとか…。」
「そんな卑怯なことはしないよ。」
「でも…。」
「あぁ、そういえば自己紹介がまだだったね。」
「そう言うことじゃないんだけど…。」
だがこの緩やかな空気は彼女の次の一言で凍り付いた。
「私は悪魔。『暴食』の悪魔ベルゼ・バアルだよ。」
彼女――ベルゼ・バアルと名乗った少女は、七つの大罪の一つである『暴食』を名乗った悪魔は、その顔に笑みを浮かべて嗤っていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「暴食…!?」
少しの沈黙の後、彼はそう叫んでしまっていた。
「そ、暴食。知ってるの?」
暴食といえばキリスト教の七つの大罪の一つであったはずだ。その名を冠する悪魔とあらば相当強いに違いない。もし怒らせでもしたらどうなるか予想がつかない。
「で、その…ベルゼ・バアル…、様は…。」
「様なんかつけなくていいよ。ベル、とでも呼んで。」
「うん、じゃあベル…さんは…。」
「さんもつけなくていいってば。呼び捨てでいいよ呼び捨てで。」
「…じゃあベルは何で僕に契約を…?」
ちゃんと呼び捨てで呼ばれて満足そうな顔をした後、ベルは少し考え込むような仕草をした後こう言った。
「…キミを案じる気持ちが半分。私のキミへの好奇心が半分。キミがここにきたのは偶然ではないと私は思っているよ。キミが何のためにここに呼ばれ、私と出会ったのか。私はだから私はキミが、キミの運命がどうなるかを見てみたいんだ。それに…。」
「それに?」
「…いや、何でもないよ。」
気になって更に尋ねようとした矢先だった。
急に目眩が酷くなる。気持ち悪い。頭の中で耳鳴りがする。彼はそのままそこに座り込んでしまった。
「ありゃりゃ…。夢からの覚醒が近いみたいだね。」
ベルの声も上手く聞こえない。
「じゃあ明日、目が覚めたらキミの学校の屋上に来て。そこで待ってるから。契約の答えもそこで教えてね。」
「またね、皐月亘希くん。」
なぜ自分の名前を知っているのか。それを考える間もなく意識が深い沼に沈んでいく。彼女の最後の声を聞いたところで彼――皐月亘希はいつも通りのアラームの音と共に目を覚ました。