6 婚約は唐突に
リディアの父、ドミニク・フォン・キースリング子爵は平凡に生きて平凡なまま人生を終えたいと思っていた。他人を蹴落として出世し、華やかな生活を維持するために、心身を消耗させながら働くなど考えたくもない。だから可能な限り争い事の芽を摘み、諍いが起こりそうな時は回避する道を選択してきた。
自分が死んだ後も同様だ。家族が相続争いなどという低俗なことに巻き込まれないよう、すでに遺言書を作成している。キースリング家は息子が継ぐ。リディアには妻が遺した貴金属やドレスを相続させた。唯一、妻が身につけていた装飾のない指輪だけは、お守り代わりにもらっただけだ。リディアは、他のものもお父様が受け取ってもいいのにとぼやいていたが、母親を亡くして悲しんでいる娘から遺産を掠め取るようなことはしたくなかった。
――このまま死ぬまで凡庸としていたかったのに。
昨日はまたリディアとグロリアが揉めていたと、再婚した妻シビルが言っていた。どうせまた、グロリアが小さなことを大袈裟に騒ぎ立てたのが発端だろう。リディアは穏便に済ませようとしてくれているようだが、グロリアは絶対にリディアが悪いと言って譲らない。
シビルはいつだってグロリアの味方をする。
もちろんドミニクはシビルの要求を受け入れる気はない。騙し討ちのような形で、親族から押し付けられた再婚相手と連れ子だ。幼かった子供達の母親代わりになってくれるかと期待したこともあったが、シビルはグロリアしか見ていない。
一応、シビルとグロリアにも幾許かの遺産を渡すように手配していたが、全て再婚前の状態に戻してしまいたい。悪意を撒き散らす姿を見ているうちに、二人を家族として受け入れる気持ちは、芽生える前に枯れてしまった。
――こんなことなら従兄弟と絶縁してでも断っておくべきだった。
片親は世間体が悪いという言葉に揺らいでしまった自分が悪い。
「……はぁ」
思わずため息が出た。
平凡な、波風のない人生を送りたかった。家にいる間は気が休まらず、仕事をしている最中だけが平和だ。
ドミニクは返却された本の山に手をかけた。すでに事務手続きを終えて本棚へ戻すのを待っている本ばかりだ。
行政区の資料室管理人。それがドミニクの仕事だった。資料室と名前がついているが、政府が扱っている資料の他に、国内で出版された本の一部を収蔵している図書室でもある。ドミニクの担当は、閲覧者の対応や持ち出し可能な資料の管理など、地味で目立ちにくい仕事だ。
今の仕事に不満なんて全くなかった。政治が安定しているおかげで、戦争とは無縁でいられる。資料室に火をもった暴漢が殴り込んでくることもない。汚職や犯罪に手を染めなければ、解雇される心配もなかった。うまい具合に席が空いて希望通りに配属された時は、これで安泰だと喜んだものだ。
――ああ、そうだ。リディアローゼの結婚相手を見つけないと。
できればキースリング家と同格ぐらいの、性格に問題がない健康的な独身男性がいい。
先日、打診をしてみた家からは、まだ返事がない。前向きに検討してくれているならいいが、今回も断られてしまう気がする。
貴族でなければ、何かあった時に娘を守れない。
鬱々と考え事をしながら本を棚へ収めていたドミニクは、資料室の扉が閉まる音で我に返った。
「キースリング子爵はいるか」
堂々とした、よく通る声がする。声の主はドミニクが苦手な相手だ。
勘違いであってほしいと願いながら資料室のホールへ向かうと、赤毛の男がいた。受付にいる同僚の方を向いている。このまま隠れていたかったが、目ざとい同僚が、こちらへ手を振ったことで台無しになった。
「おお、そこにいたか。少し資料探しに付き合ってくれんか」
「……分かりました。閲覧室へどうぞ」
ドミニクは男のことが苦手だった。
ベルトホルト・フォン・ゼンケル伯爵。魔術師団の団長を務める男は、亡き妻の実兄だ。
ゼンケル一族といえば、数多くの魔術師を輩出してきた名家。国内はもとより、外国にも名が知られている。その中でもベルトホルトは華々しい武勲と実力で魔術師団の長にまで上り詰めた。彼がどのように戦場で活躍したのか、ドミニクもよく知っている。あらゆる意味でドミニクとは生き方が真逆の人物だった。
分け隔てない性格のベルトホルトは、平凡に生きたいドミニクを嫌うどころか、理解して尊重してくれる。そんな懐の広さと交友関係の広さは、ドミニクには眩しすぎた。
ベルトホルトが苦手だと思うのは、一方的な僻みでしかない。だから誰にも言えず、子供のように彼を避けるわけにもいかず、接触してこないようひたすら祈るしかなかった。
閲覧室の扉を開け、先に中へ入った。一組の机とイスしかない閲覧室は、持ち出し禁止かつ許可された者しか扱えない資料を読むために設けられている。閲覧室の使用前は不審物や余計な魔術がかけられていないか、点検するよう規則で決まっていた。
手早く点検を終えたドミニクが扉の方向を向くと、ベルトホルトが閲覧室に入ってくるところだった。
「すまんな。資料探しは、ただの口実だ」
「では、何を」
「どうしても内密に話がしたかった」
嫌な予感がする。ドミニクは胃のあたりに手を添えた。
「リディアローゼは息災か」
ベルトホルトは喋りながら顔の近くで右手を軽く振った。きっと盗聴を防ぐような魔術でも使ったのだろう。
「お陰様で、元気に過ごしています」
「実は、とある筋から婚約が来ている」
軽々しく口にできない家からだと、ドミニクは察した。それも魔術師団の団長を使いに出せるほどの人物が裏にいる。
「それは、光栄な話だと受け取ってもよろしいのですか?」
「もちろんだとも。少々、面白くない噂が流れているが、良縁であることに間違いはない。まあ、リディアローゼなら噂に流されないと信じているが」
「面白くない噂ですか。どの噂でしょうか。色々と耳に挟んでおりますが、どれも楽しいものとは無縁で……」
「それもそうだな」
ベルトホルトは同意して頷き、声を潜めた。
「クラウス殿下だよ」
「第一王子……!?」
ドミニクは今しがた聞いた名前が信じられなかった。
キースリング家は下級貴族だ。王族とは挨拶しかしたことがない。娘なんて遠くから眺めていた程度だろう。娘は王族から存在を知られているかも怪しいのに、何の因果か婚約者に抜擢されようとしている。
「あとは家長の君が承諾するだけだ」
――九割は決定したということか。しかも承諾以外の選択肢は無い。
クラウスの噂は聞いている。聞く度に内容が変わり、今ではどれが本当か分からない。それでも断片を繋ぎ合わせてみると、婚約者を蔑ろにして真実の愛を選び、婚約破棄騒動を引き起こした愚か者という姿が浮かび上がる。
「噂は、どこまで本当なんでしょうか」
「それについては、言うなと命じられている。巻き込まれるぞ」
ベルトホルトは恐らく真実を知っている。だがドミニクに明かせないのは、噂の真偽が明らかになると問題があるということだ。
娘の婚約者探しは難航していた。クラウスは噂になるほどの何かをやったが、結婚相手としては悪くないのかもしれない。少なくともお金で困ることはないだろう。
――王宮を追い出された王子は辺境で暮らしている、だったか。
リディアが辺境での暮らしに耐えられるだろうか。亡き妻のように肝が据わった性格だから大丈夫だという楽観的な気持ちと、年頃の娘には辺境のような国境地帯は過酷すぎるのではないかと心配する気持ちが拮抗している。
ドミニクは辺境を訪れたことがない。伝え聞く限りでは、国境警備や魔獣討伐など、武力で解決しなければいけない事態に悩まされているらしい。王宮育ちのクラウスが難儀しているという話は一つも出てこないから、噂通りではないとしても、男と女では事情が違う。
親として、リディアには幸せになってほしい。だが精霊が見えると主張する娘は、きっと周囲には理解されないだろうと思っていた。何もない空間へ向かって話しかけるところを見られたら、離婚されてしまうのではないだろうか。
ドミニクは少しでも安心したくて、ベルトホルトに質問した。
「殿下は、どのようなお人柄なのでしょうか。もしリディアローゼの能力を知ってしまったら……」
ベルトホルトはリディアの能力を知る、数少ない人物だ。亡き妻がリディアの能力に気がついたとき、真っ先に相談した過去がある。
「クラウス殿下なら、問題ない。優しい性格で非常に我慢強いお方だ。魔術の心得もある。色々と噂されているが、結婚した相手を乱暴に扱うことはしない」
お決まりの言葉だとドミニクは思った。年頃の子供がいる親は、自分の子供をそう評価して、相手を探しているからよく分かる。
――だが今のまま探し続けても、リディアローゼの婚約者は見つからないだろうな。
ベルトホルトは嘘で人を操るような人物ではない。シビルと再婚することになった時、彼だけは「あの女性との再婚は考え直したほうがいい」と指摘してくれたではないか。素直に言うことを聞いていれば、今抱えている悩みの大半は発生しなかっただろう。
どうせ断れない話だ。ドミニクは流されるほうを選んだ。