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56 譲れないもの2

 床に血で描いた円より内側は、リディアの安全圏だ。黒い煙がリディアに近づこうとしても、見えない壁に阻まれていた。今はリディアの周囲をぐるぐると旋回して、壁の崩壊を待っている。


 リディアはブローチの針で傷つけた手にハンカチを巻いた。壁が有効なうちに、次の対策を考えなければいけない。


「私の心の中といっても、好き勝手にできるわけじゃないのね」


 夢のように想像力で何でもできるなら、リディアはとっくに体の主導権を取り戻していただろう。


 紙で作った呪符はない。味方になってくれそうな精霊も、リディアの中まで入ってこられない。


 外の様子は、ぼんやりと自分の経験として伝わってくる。すぐそばにクラウスがいるのに、おかえりと言うことすらできない。自分の口から言いたくないことが次々と出てくる。そのことが心の負担になり、リディアを弱らせていた。


 間に挟まっているシビルが余計だ。


 ――でも、すぐに私じゃないって気がついてくれるなんて流石ね。


 こんな状況の中で、幸せなこともあった。


 リディアの呪いを解くために、クラウスが奔走してくれた。精霊と交渉をするなんて危険なことをしてきたのは、申し訳ないと思うと同時に怒りもある。あの精霊が人間との取り引きに慣れていて、素直にクラウスの案を受け入れてくれたから良かったものの、出会い頭に食われていた可能性だってあったのだ。


「クラウス様があんな目で私を見てくるなんて……」


 冷め切った眼差しと、全身で拒絶する態度。初めて向けられた敵意。胸が締めつけられるほど切ないはずなのに、気持ちが高揚していた。


 髪を短く切り、眼帯をしている姿が精悍に見えたせいかもしれない。あの敵意はリディアではなく、シビルに向けられたものだ。客観的でいられたから、呑気に素敵だと思えるのだろう。


「ああなった理由を質問攻めにしたかったのに。眼帯の下はどうなっているのかしら。眼球が損傷したの? それとも視力の問題? 気になるわ!」

「いいねいいね。自分の欲を優先させる奴は嫌いじゃない」


 耳障りな笑い声がした。黒い煙に空白地帯が生まれ、仮面をつけた猿が歩いてくる。猿は大きな犬歯を見せて、線の外側で止まった。


「こんにちは。呪いの精霊さん。それとも悪夢の精霊とお呼びすべきかしら? あなたのお友達には、以前お世話になったわね」


 辺境に現れた詐欺師に悪夢を見せたとき、目の前の猿と似た性質の精霊に協力をしてもらったことがある。


 精霊は円の周囲をぐるりと歩き、長い尻尾を体に巻きつけた。


「呼び名なんて何でもいいさ。どうせ会うのはこれっきりだ」


 ここから出たいかと精霊が尋ねてきた。


「お前の夫がうるさいから、手助けをしに来た。でも私はお前がどうなろうと、どうでもいい」

「あら。報酬はもう受け取っているのよね? 中から聞いていたわ。私が呪いをかけられる以前の状態に戻してくれるって。報酬分は働いてくださいな。クラウス様の目は高いのよ」

「……お前も嫌いになる気がする」


 精霊はうんざりした顔で尻尾の先端を振った。


「手助けはする。だがお前が自力で体の主導権を取り戻さないと、あの女の思念は追い出せない。お前の体が王都へ言って、あの女の本体と出会ったら、取り返しがつかなくなるぞ。魂が入れ替わる」

「そう言われても……」

「お前の体はお前のもの。本来の持ち主であるお前のほうが、体の主導権を握っているはずなんだ。心が弱って横取りされても、綻びがある。私がその綻びを広げてやろう。あとはお前の番だ」


「簡単に言ってくれるのね」

「あの女の思念は欲でできている。お前を踏みつけて、人生を乗っ取りたいという欲だ。お前はそれ以上の欲か、強い意志をぶつければいい。人を傷つけたくない、なんて甘い考えは捨てろ。ここはお前の内側だ。どんな欲望を抱いたとしても、外側には何の影響もない。そうだろ?」


 やる気がない精霊にしては、よく喋る。


「もしかして、その欲望も精霊さんの糧になるのかしら」

「そうさ。人間の欲には際限がない。人間が存在する限り、私の腹が満たされる」


 ニタリと精霊が笑った。全身の毛が逆立ち、膨張していく。精霊は俊敏に飛び跳ねて、黒い煙の一部に食らいついた。


「不味い。この女、気持ち悪いことを考えているぞ。聞くか?」

「いいえ」


 リディアの体で何をしようとしているか、絶対に聞きたくない。


 黒い煙は精霊を脅威と判断して逃げたが、動きが遅く端から齧られてしまう。


 精霊が少しずつ黒い煙を食べるたびに、リディアは外からの情報が鮮明になっていくのを感じた。


「――まず私を不快な気分にさせたら、この体に傷を付けるわ」


 自分の声でシビルが喋っている。体が勝手に動いている感覚も伝わり、めまいがしそうだった。


「シェーラ。あんたは私の専属から外すわ。そうねぇ……馬小屋の掃除でもしてきなさいよ。昔から、その澄ました態度が気に食わなかったのよ。馬糞を片付けているあんたを想像するだけで笑えるわ」

「よく喋る口だな」


 心の底からめんどくさそうにクラウスが言った。


 早く自分の体を取り戻したい。だがシビルを追い出せるほどの欲望なんて、すぐには思いつかなかった。


 ――クラウス様と一緒にいたいだけでは駄目なの? 私の生活の全てなのに?


 精霊が黒い煙を駆逐してくれているから、シビルの影響力は弱ってきているはずだ。


「な、何よ。近づいてこないでくれる?」


 考えている間に、クラウスが無言でシビルに近づいた。


「言っておくけど、私を殴っても意味ないわよ。あなたたちが少しでも私を追い出そうとしても、絶対に出て行ったりなんかしな」


 クラウスは強引にシビルの肩を抱き寄せた。頬に触れて顔を上向かせ、視線を合わせてくる。リディアは自分の体がかっと熱くなるのを感じた。心臓の鼓動が速くなる。


 いま体の主導権を握っているのはシビルだ。つまりこの反応は、シビルの感情によるものだろう。


 ――え? 何よ、それ。


 体を奪っただけでは飽き足らず、人の夫に恋をしようとしているなんて許せない。


 ――私は何を見せられているの。クラウス様は素敵だから好きになってしまうのは分かるわ。でも、これは私の体なのよ。


 思えば、シビルにはいつも平穏な生活を壊されてきた。勝手な理由でリディアの大切なものを壊したのに、悪いとすら思っていない。口を開けばリディアへの恨みばかりだ。己の行動が現在の処遇を決めたのに、他人のせいだと信じている。


 絶対に追い出す。リディアがそう決意したとき、クラウスが指先で唇に触れてきた。


「リディア。このままだと、俺は君の元継母と結婚生活を送ることになるが、いいのか?」

「駄目です!」


 リディアはクラウスの手を両手で掴んだ。


「そんなの嫌ですわ! クラウス様と結婚したのは私です! 失恋しても諦められなくて、ずっと好きだったのに。本当は、妻扱いしてくれないのが嫌だけど、嫌われたくないから言えなくて、我慢してたのよ。クラウス様の一番になりたくて頑張ってたのに、見てるだけなんて、やだっ」


 頬を涙が伝う。泣くなんて、母親が亡くなったとき以来だ。泣いても現実は変わらない。だから悲しくても泣かないようにしていたのに、限界がきてしまった。


「人前で泣くなんて、私……」

「リディア。おかえり」


 クラウスが子供をあやすようにリディアを抱きしめた。


「私、戻ってる……?」

「ああ。君に取り憑いていたのは、ほら」


 窓の近くにいる精霊が、尻尾で黒い塊を捕まえていた。塊は暴れて逃げようとしていたものの、精霊はびくともしない。


「これ、お前たちがいらないなら食べるぞ」


 精霊は大きく口を開け、リディアたちの許可を待っている。


「駄目よ。それは本人へ返すわ」


 リディアは涙声で言うと、服に隠している紙の鳥を出した。ブローチの針で親指を浅く刺し、出てきた血で鳥の目を描く。


「二度と、私の前に現れないで」


 黒い塊へ向かって紙の鳥を投げつけると、精霊は急いで尻尾を自分の体に引き寄せた。紙の鳥が塊を吸収し、黒く染まる。そのまま開いている窓から外へ飛び出し、王都がある方向へ飛んでいった。

書いた本人が言うのもなんですが、シビルの所業にはドン引きしてます

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