54 精霊4
紫色の空が広がっていた。
雲に触手が生えたものが漂い、狐の頭をした鳥が追いかけている。狐鳥は触手に食いついたが、痺れて動かなくなった。次々と触手が狐鳥に絡みつき、雲の部分へ引っ張り上げていく。見えなくなった狐鳥がどうなったのかは、赤く染まった雲を見れば察しがついた。
地面では毒々しい色をしたキノコが歩いている。傘の部分には老人の顔がついており、クラウスに朗らかな挨拶をして去っていった。
精霊の世界は想像よりもずっと奇抜で、悪夢の中に似ていた。リディアのためという理由がなければ、数歩進んだだけで帰っていただろう。
「……お前が犬の姿で良かったよ」
クラウスは牛と同じ大きさになったルカを撫でた。顔つきは狼に近くなったが、尻尾を振って甘えてくる仕草は変わらない。
「行くか。立ち止まっていても仕方ない」
ルカは空気の匂いを嗅いで、赤茶けた荒野を歩き始めた。
精霊の世界が変わっているのは、生き物だけではなかった。遠くに見えていたはずの岩山が、数歩進むだけで近くに現れる。かと思えば緑豊かな丘になっている。心を正常に保ちたいなら、そういうものだとありのままを受け入れるしかない。
移動をしている最中も、正気を疑うような生き物が現れては視界から消えていく。
――リディアが見ていたのは、こんな世界だったのか。
誰にも言えないことを、長い間抱えていたのだ。多少のことでは動じない性格に育ったのも納得できる。クラウスが精霊の存在を疑うどころか経験として知っていると分かったとき、リディアはどう感じていたのだろう。
ルカが湖の近くで止まった。
湖の中で泳いでいる魚は、クラウスが普段見かけるものと大差ない。水も常識的な色で揺れている。散々、普通ではないものを見てきた。この湖もどこかがおかしいに違いない。
「まさか、この中に?」
低い声でルカが吠えた。
いきなり中へ入るのは危険だ。ルカにつけていたロープの端を水面に垂らしてみた。ロープを引き上げてみたが、全く濡れていない。素手で触ってみても、濡れた感触はなかった。
水を確認し終えると、見計らったようにルカが中へ入っていく。
「……行くしかないか」
クラウスは湖の中へ足を踏み入れた。ぬかるんだ湖底の泥が舞い上がる。だがやはり靴が濡れることはなかった。中へ入っていくにつれ、体が動かしにくい。水の抵抗を感じる。
頭まで完全に湖の中に沈むと、視界が淡い虹色に埋め尽くされた。見えていたはずの魚がいない。精霊の囁きは周囲から聞こえてくるが、声の主がどこにいるのか全く分からなかった。
「ルカ。帰りも頼むぞ。この世界で生きていける気がしない」
真っ白な毛並みを撫でながら言うと、ルカは愛くるしい顔で首を傾げた。頼りにされて嬉しいのか、尻尾を振ってクラウスの頬を舐めてくる。ベルンシュタインの助言に従って良かったと、クラウスは心から思った。
泳ぐように移動した先に、古い神殿の柱が倒れていた。円を描くように等間隔で立っていたものらしく、同じ装飾の柱がいくつか見える。ルカは円の中心まで来ると、指輪の姿になってクラウスの指に巻きついた。
――何かいる。
見られている気配があった。獣のような息遣いが正面から聞こえてきた。
「お前も誰かに呪いをかけたいのか? 人間の欲には際限がないな」
声は若いが、老成した響きがあった。これが探していた精霊だろう。姿は見えなくても、威圧感が体にのしかかってくる。
「遠慮するな。お前たちが私に願い事をするたびに、私の力が増す。お互いに悪いことじゃないだろう?」
精霊は笑っていたが、蔑みが混ざった不快な笑い声だ。
――また、ということは俺以外にも人間と交渉したことがあるのか。
クラウスは声が聞こえる方向を向いた。
「呪いをかけたいんじゃない。解呪してほしい」
「お前に呪いはかかっていないようだが?」
「俺じゃなくて、俺の妻だ」
獣の息遣いが近くなった。クラウスの周囲を歩き回り、匂いを嗅いでいるらしい。
「他人のための解呪は高いぞ。何を差し出せる? そうだ、お前の命をもらおう」
「無理だな」
精霊は鼻で笑った。
「無償で得られるものなどないぞ。自己犠牲で呪いを解く。最も確実に呪いを解く方法ではないか。私が手伝ってやろうとしているのに」
「俺が死んだら、どうやって解呪が成功したと確認するんだ? 君が俺の命だけ取って、解呪をしないかもしれないだろう」
息遣いが止まった。今度は低い唸り声だ。
きっと精霊は怒っているのだろう。だが相手を恐れて引くわけにはいかなかった。交渉では引いた分だけ相手が踏み込んでくる。譲歩できる余地があると思われてはいけない。
「お前は私が嘘をつくとでも?」
「口ではなんとでも言えるからな。俺は精霊のことをよく知らないんだ。君がこれまで全ての約束を守ってきたかどうか、確かめようもない。だから命と引き換えにするのは、お互いのためにならないと思う」
近くにいた精霊が少し離れた。別の精霊が喋っている声がする。二人はしばらく短い言葉で会話を交わしていた。
「……お前の妻は我らと交流があるようだな。それなのに、我らのことを知らない?」
「結婚したのはつい最近だ」
「つまらん。夫婦になったというのも、人間同士の契約でしかない。契りがないなど、ほぼ他人ではないか。家族であれば、お前が支払う代償を重くしてやったものを」
精霊が求める代償は気分で決まるわけではないらしい。一定の基準があり、過剰な代償は取れないようだ。
「何がお前の負担になる? 腕か? それとも足? 臓物を鳥に食わせるか?」
「人間の弱さを知らないのか。内臓を取られたら死ぬぞ」
「黙れ。人間ごときが余計な口を挟むな」
首に獣の牙が当たった。威嚇なのは分かっている。クラウスは動かなかった。
「お前は面白くない。特にその目が気に入らない。見えないくせに先を見ようとする。目だ。呪いを消してやる代わりに、お前の右目をよこせ」
「俺から取った右目は何かに使うのか?」
「うん?」
一瞬だが、威圧感が薄れた。
「単に食料として食うのか、それとも魔術の媒介に使うのか。俺の右目が人間への攻撃に使われるなら、渡すわけにはいかない」
「お前、面倒な性格をしているな」
「性格の問題じゃない。交渉の段階で細かいところまで決めておかないと。後から話が違うと言っても遅いんだぞ」
交渉が得意な弟なら、解呪の対価はもっと軽いものになっていたかもしれない。
あからさまにやる気がなくなった精霊に詳細を決めさせ、ようやくリディアにかけられた呪いを解く算段がついた。
「解呪は対価の右目を受け取った時点から、一日以内。もちろん人間の世界の一日だ。もし解呪を確認できなかった場合。呪いにかけられる前の状態に戻っていなかったときは、契約違反とみなして右目を返してもらう」
「お前、嫌い」
ふわりと体が浮いた。
「お前の目は解呪の力にするから返せない。解呪できてない時は呼べ。名は――」
精霊が名前を告げたとき、右目に激しい痛みが走った。反射的に手で覆ったが、痛みは激しくなる一方だ。
浮いた体が落下していく。硬い床に叩きつけられたクラウスは、本気で精霊を恨んだ。
残った左目で最初に見たのは、王家に伝わる精霊の剣だった。壁にかかっている剣の周囲には、勝手に持ち出せないよう封印が施されたままだ。
「クラウス? 領地にいるはずでは……」
国王の声がする。精霊の剣を安置しているのは王の居室だ。
――確か、あの剣は出口のようだと言っていたな。
リディアが感じたことは正しかったようだ。精霊の世界からこちら側へ帰るときの出口になっていた。あの精霊は出口があるところへ、クラウスを捨てたのだろう。
「その目はどうした? 誰か、医者を」
顔の右側を触ると、手にべったりと血がついた。眼球がある膨らみは確認できるが、右側の視界は完全に失われている。強い痛みのせいか、吐き気までしてきた。
「クラウス。何があったのだ」
「精霊に会ってきました」
クラウスは医者が到着するまでの間、これまでの出来事を正直に話した。精霊の存在を疑っていた国王は、辺境にいるはずのクラウスが突然現れたことで、信じる気になった様子だった。
「お前は本当に大胆な奴だ。今朝になって、お前が行方不明だと知らせが届いた。心配していた矢先に、急に現れるから驚いたぞ」
医者が到着した。診察してもらう際に鏡で確認してみると、右の眼球は存在していた。紫色だった瞳は限りなく淡く変色し、銀の粉を散らしたような斑点が増えている。解呪の対価に視力を奪われたのか、眼球を交換されたのかは精霊にしか分からない。
「父上。馬を貸していただけませんか」
「まさか、今から辺境へ行くつもりか?」
「リディアの呪いが消えたのか、確認しなければ」
「しかし、その体で?」
「問題ありません」
何を言ってもクラウスが自分の意見を変えないと理解した国王は、使用人に馬を用意するよう命じた。さらに帰るまでに必要な金を渡してきた。
「落ち着いたら経緯を知らせてくれないか」
「はい。必ず」
続いている痛みは処方された鎮痛剤で少し和らいだ。目立つ右目を隠すために眼帯を付けてみたら、今度は長い髪が気になった。
「……切るか」
この先、ずっと眼帯が手放せない生活になる。髪が長いと装着するときに面倒だ。
急いで辺境に戻ってきたクラウスは、屋敷の玄関通り過ぎたところで使用人に出くわした。
「クラウス様? 今までどちらにいらしたのですか? それに」
「話は後だ。リディアは?」
「ご自身の部屋です。病気が回復してきたと聞いたのですが……」
そこまで聞けば十分だ。
リディアの部屋へ行くと、カルラが扉を開けた。
「えっ? クラウス様? 奥様! クラウス様が帰ってきましたよ!」
驚いているカルラのそばを通り過ぎ、寝室へ向かう。リディアは起き上がってベッドに腰掛けているところだった。
「クラウス様? 良かった。どこにもいらっしゃらないと聞いて、心配しておりました。無事に帰ってきてくださったんですね」
微笑んだリディアが立ち上がった。眠り続けていた影響か、動作がぎこちない。すかさずリディアを支えたのはシェーラだ。無表情の中に不機嫌さが現れている。
クラウスが近づくと、リディアは手を伸ばした。腕に触れようとした手を、クラウスは軽く払う。
「クラウス様?」
驚いて目を見開いたリディアに、クラウスは率直に尋ねた。
「お前は誰だ」




