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52 精霊2

 ベッドの上で座って目を閉じているリディアは、人形のように生気がなかった。背中を枕に預け、下半身は布団に隠れている。クラウスが近づいても動かない。胸元がゆっくり上下しているのを見て、ようやく生きている確信が得られたぐらいだ。


「リディア」


 名前を呼びかけると、ようやくリディアが目を開けた。


 眠っていたのかもしれない。迷惑だっただろうかと不安がよぎったクラウスに、リディアはいつもと変わらない微笑みを向けてきた。


「まあ。いつお帰りになったの? 交渉にはもう少し時間がかかると思ったのに」

「ヘンドリックに任せてきた。あいつなら俺よりも上手くやってくれる」


 リディアの頬に触れると、微熱があった。


「医者と医薬品が砦に届いた。君が手配をしてくれたそうだな」

「あのお医者様、王城で勤務なさっている方よ。快く協力してくださったわ」

「ああ。見慣れた顔が馬車から降りてくるから驚いたよ」


 クラウスはベッドに腰掛けてリディアを抱き寄せた。


「君の家族も来たぞ」

「お役に立てました?」

「砦の魔術師が自信を無くした。教えを乞いに行っても、ひたすら練習しろとしか言ってくれないそうだ」

「お父様らしいわ。きっと教えるのが面倒なのね」


 腕の中のリディアは楽しそうに笑っているが、やはり弱々しく感じた。


「調子はどうだ?」

「良くありませんが、最悪でもありません」

「つまり良くないんだな」

「信じてくださらないの?」

「呪いのことを俺に教えてくれなかった前科を忘れたか?」

「根にもつ性格でしたのね」

「そうだよ。知らなかったのか」


 リディアの左腕には包帯の他に、神官が持ってきた浄化の護符が巻いてあった。呪いに侵食されているのか、端が黒く染まっている。サイドテーブルには同じものが束になって置かれていた。効力が無くなる前に交換しているのだろう。


「クラウス様? あの……本物のクラウス様ですよね?」

「急にどうした」


 リディアはクラウスの上着を掴んだ。


「だって。今までこんな風に触れ合うことなんて、なかったから」

「あ……これは、その……」


 夫婦として再出発したいと考えていることは、まだリディアに伝えていない。クラウスの気持ちに変化があったと知らないリディアには、クラウスが急に距離を詰めてきたとしか思えないのだ。


 国境の問題を片付けてからにしようと思っていたら、呪いに順番を狂わされてしまった。


「ねえ、クラウス様」

「な、なんだ?」


 触らないでという要求だったらどうしようかと、クラウスは弱気になった。


 今さらリディアに優しくしたところで、妻ではなく同居人のように扱っていた事実は変わらない。いつまでも変わらない恋心なんてものはないのだ。相手をしてくれないクラウスに愛想を尽かす可能性は、十分にある。


「最悪の事態には備えておいてくださいね」

「……え?」

「私がいなくても屋敷内は問題なく維持できるようにしています。呪いに負ける気はありませんけれど、未来は分かりません。私と交流がある方々の連絡先は、机の引き出しにあります」

「リディア」


 クラウスはリディアの頬の摘んだ。


「弱気なことを言うんじゃない。君が呪いに負ける? 何の冗談だ。疲れているから余計なことを考えているだけだろう」


 リディアをベッドに寝かせ、彼女の髪を撫でてから立ち上がった。


 もっと優しい言葉をかけるべきだった。後悔しても遅い。自分の中にある悲しみや虚しさが、リディアに会ったとたんに処理しきれなくなった。


「また来る」


 寝室を出ると、シェーラが待っていた。空気を読んで外で待機していたようだ。


「後で話がある」

「かしこまりました。護符を交換してまいります」


 用事を終わらせて戻ってきたシェーラは、銀製のポットを持っていた。この中に使用済みの護符を入れているらしい。


「呪いを吸い取った護符は危険です。近くにいる人間へ取り憑くか、お嬢様のところへ戻ろうとします。神官に浄化をしてもらうまでは、こうして保管するしかありません」

「今から行くのか? 俺も同行しよう。聞きたいことがある」


 王都から派遣してもらった神官は、客室で護符の製作と浄化をしているとシェーラが言った。屋敷へ戻ってきたとき、執事から同じことを聞いた気がする。リディアのことが心配で、あまり覚えていない。


 客室には年配の神官と若い神官が二人いた。年配の神官だけが女性だ。三人はクラウスが入ってくると作業をしていたテーブルから顔を上げた。年配の神官は王都にいた頃、何度か会ったことがある。呪いや悪魔憑きについて王族に教育をしているドロテアだ。


「詳しいことを聞きに来たが、作業を優先してくれ」


 リディアの治療が遅れるのは望ましくない。ドロテアはクラウスの意図を察して頷いた。


「まず浄化を済ませます」


 シェーラが作業台にポットを置く。ドロテアはポットに手をかざし、聖典の一節を唱えた。淡く光ったポットが元通り沈黙すると、蓋を開けて中を確認する。呪いを吸い取った護符は、完全に消失していた。


 ドロテアは若い神官に作業を続けるよう命じてから、客室の一角にクラウスを案内した。


「治療は思わしくありません」


 会話を聞かれないために、ドロテアは小声で言った。


「全力を尽くしています。治療が進まないのは、呪いが変質してしまったせいです」

「変質?」

「強い恨みによって生まれた呪いは、長く対象者の体を蝕もうと変化をします。浄化を試みても一部が体内に残り、増殖してしまう。奥様の場合は、魔力を糧にされてしまった様子で……」


 浄化の護符は、増えていく分を抑えている状態だそうだ。


 教会が保有している解呪方法では、呪いの力を削るのがやっとだ。


「ここまでしつこいのは初めてです。どんな呪いであれ、時間が経過すればわずかなりと衰えてくるのに」

「呪いをかけている本人に、止めさせることはできないのか?」

「呪術師なら制御できますが、彼女は素人。下手に手を出せば取り返しがつかないことになるでしょう」


 現段階でシビルを処刑すると、リディアが危ないことは理解した。


「糧にしている魔力が無くなると、どうなる?」

「命を削ってくるでしょう。あの呪いは、奥様が死ぬことを望んでおります」

「呪った本人そっくりだな……」


 よほどリディアのことが気に入らなかったらしい。


「わずかではありますが、呪いの力は弱まっています。ですが奥様の体力が保つかどうか……」


 神官たちには引き続き治療を頼み、クラウスは客室を出た。

 新しい護符を運ぶシェーラに、一つだけ尋ねてみた。


「リディアはこのことを知っているのか?」

「はい。ご存知だからこそ、落ち着いておられるのです」

「……そうだよな」


 リディアが取り乱している姿なんて想像できない。仕方ないと言って、ありのままを受け入れているのが、クラウスが知っているリディアだ。


 使用人たちは詳しい症状を知らされていない。だが神官が三人も来たことや、リディアが寝室から出てこないことで、ある程度は察している。


 クラウスが帰ってきたとき、使用人たちは期待を滲ませた目で事態を見守っていた。この国の王子なら、権力と財力はある。神殿との繋がりもあり、治せない呪いなんてないと期待していたに違いない。ところが数日経過しても、リディアの様子は変わらないことで、彼らの間に暗い空気が流れ始めた。


 事態は着実に悪い方向へ転がっている。リディアは起きていられる時間が少なくなり、一日の大半を眠って過ごすようになった。


 屋敷へ戻ってきて五日目の朝。リディアのところへ行くと、抜き身の短剣を持ったシェーラと会った。


「ちょうど良いところにいらっしゃいました。これから妖精狩りをしてきますので、お嬢様をよろしくお願いします」


 シェーラの表情はほとんど変わらないが、苛立っている様子だった。


「ああ。それは構わないが、妖精狩り?」

「はい。死の妖精が気配を察して寄ってきたのです。誰がお嬢様の魂をもらうか、体の分配はどうするか相談をしているようですね。鬱陶しいので駆逐してきます」


 窓から見下ろせる範囲にいるそうだが、クラウスには何も見えない。だが鬱陶しいのは同意なのでシェーラに任せた。


 リディアはまだ眠っているようだった。護符は新しいものに交換したばかりだ。


 日に日に弱っていくのが、クラウスにも分かる。触れて体温を感じなければ、生きているのかすら見分けがつかない。


「リディア?」


 呼んでも起きない。この屋敷へ来たときは、名前を呼ばなくてもクラウスの近くにいたのに。


 ――死ぬ? リディアが?


 早すぎるだろうと呟いて、クラウスは寝室を出た。扉を開けたまま隣室のソファに座ると、疲れが肩にのしかかってくる。


 リディアの判断は正しかった。何も手につかない。国境の防衛中に聞かされていたら、多少なりとも指揮が鈍っていただろう。


 思えばリディアはいつもクラウスのことを考えてくれている。狙われているクラウスを守るために、令嬢とは思えない行動力を見せた。何をしでかすのか読めなくて、目が離せない。


 充実した生活が戻ってくるはずだった。クラウス自身が抱えていた問題が片付いて、結婚生活を前向きに考えられるようになったのに。今度は肝心のリディアが去ろうとしている。


 自分では呪いを解くことができない。神官にやり方を教わっても、使い物になるまで時間がかかる。ただ待つことしかできなかった。


 項垂れているクラウスの耳に、扉が開く音が届いた。


 開け放している寝室ではない。廊下に繋がっている扉は方向が違う。


 顔を上げると、衣服を収納している小部屋だった。レースを頭から被った人物が、こちらを見ている。


「君は確か……レースの精霊?」


 頷いた精霊は、ゆっくりとクラウスに近づいてきた。


「呪い、消えない。人間は、無理」

「無理だからこのまま見捨てろと? いや待て。人間は?」


 引っかかった言葉を聞き返すと、精霊は無言でレースに手をかけた。

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