4 婚約は唐突に
午前中いっぱいで書類を終わらせたリディアは、提出先ごとにまとめて金庫の中へ入れた。ついでに扉にかけている泥棒避けの魔術を点検しておく。魔術は前回の点検から一度も発動した形跡がなかった。
昼からは外出している継母達の部屋へ入り、掃除をすることにした。キースリング家の財政は厳しい。使用人を何人も雇う余裕などなく、リディアが足りないところを補っていた。
リディアが地味な色の服を着ている理由も、ここにある。上質のドレスは家事に向かない。ヒラヒラとした袖をどこかに引っ掛けたら、簡単に破れてしまうだろう。客人が来たら着替えるつもりでいるが、この家に客が来ることは滅多になかった。
「みんな。今日もお願いね」
リディアは持ち込んだ掃除道具に、人型に切った紙を貼り付けた。表には黒い特殊なインクで呪文が書いてある。紙に必要な魔力を与えると、掃除道具はふわりと床から浮かび上がった。
箒がひとりでに動き、風もないのに雑巾が窓へ飛んでいく。乱れたベッドや散らかった服は整えられ、室内は秩序を取り戻した。
どこを見ても荒れているところはない。
「ありがとう。おかげで綺麗になったわ」
掃除道具の動きが止まり、静かに床へ落ちた。
リディアが使ったのは、弱い精霊を道具へ宿して使役する魔術だ。ある程度は命令通りに動いてくれるが、一時的なものでしかない。用事が終われば出ていってしまうが、一人で何役もこなさないといけないリディアには、労働力を確保できる最良の手段だった。
掃除道具と一緒に持ってきていたバスケットを開け、リディアは小さな包みを取り出した。中身が見えるように包みを開き、空中へ向かって話しかける。
「今日のお礼よ」
リディアが用意したのは、協力してくれた精霊へ渡すクッキーだ。お礼に自分の魔力を報酬にしてもいいが、まだ仕事が残っている。まだ魔力は温存しておきたかった。
「次は庭ね。お父様達が帰ってくる前に終わらせておかないと」
父親はリディアが魔術を使ったり、精霊と交流することを快く思っていない。精霊が見えない父親には、娘が空中や物に向かって話しかけているようにしか見えない。世間に知られたら家ごと迫害されると考えているようだ。ことあるごとに能力を使うことを禁じてくる。
父親が望んでいるのは、普通の生活だ。見えない存在と会話をする娘は、普通ではない。
リディアの能力は父親の生き方とは真逆だ。だが能力を使わなければ、生活を維持できない。だからリディアは誰もいない時に、屋敷の掃除や洗濯をしていた。
継母とグロリアが家事を手伝ってくれたことは、一度もない。侍女がいない、今すぐ雇えと言うことはある。もちろん、キースリング家の懐事情では無理だと突っぱねていた。
――私が家を出るのは、まだ先になりそうね。
リディアは結婚適齢期の真っ只中だが、婚約者はいない。父親は一応、娘の結婚相手を見つけようという気はあるらしい。月に一通程度、結婚適齢期の男性がいる家へ手紙を送っている。他人からすれば、呑気な頻度だ。もちろん色良い返事は得られていない。
積極性に欠ける家の娘でも、資産があれば縁談が舞い込んできただろう。
キースリング家は子爵の位を持っているだけの、これといって特徴がない家だ。資産が多いわけでもなく、広大な領地も持っていない。父親は王城の行政区画で勤務しているが、出世からは遠く離れた部署にいた。キースリング家と縁を結んでも旨みがないと判断され、婚約者探しは難航していた。
社交的だった実母が生きていれば、また違っていたかもしれない。
リディア自身は、結婚相手が貴族でなくても構わなかった。読み書きはできるし家計はリディアが管理しているから、帳簿を見せられても理解できる。どこかの商家へ嫁がされても、上手くやっていけるだろう。ところが父親は貴族同士の結婚にこだわっているため、爵位を持たない家は最初から選択肢に入れてもらえなかった。
「私自身も探してはいるけれど……」
友人達の伝手で独身の男性がいる家は、いくつか知っている。だが有能な男性には、とっくに婚約者がいた。それに優れた子供を持つ親が、何の取り柄もない家の娘を選ぶわけがない。残っているのは、性格や年齢に問題がある男性ばかりだった。
結婚するなら、ずっと心の奥底で燻っている気持ちを、全て吹き飛ばしてくれる相手がいい。
リディアは理想の相手を思い浮かべて、すぐに諦めた。どんなに素敵な相手を思い描いたとしても、現実が全てを壊してしまう。落胆するのがわかりきっているのだから、最初から期待しないほうが正解なのだ。