39温泉にて
箸休め的なお話
辺境から王都へ続く街道の近くに、国内でも有数の温泉地があった。街道の分岐から温泉地まで馬を休憩させずに到着できることから、旅の予定に入れる者もいるほどだ。
馬車から降りたリディアは、富裕層が利用する宿の支配人に出迎えられた。
「ようこそお越しくださいました。どうぞ中へ」
案内された部屋は日当たりが良い小さな別棟だった。他の客と会わずに滞在できるように、温泉を引いた風呂までついている。
「素敵な部屋ね」
「そうだな。悪くない」
リディアとクラウスがそれぞれ感想を述べると、支配人は安心したように笑顔を浮かべた。
王都へ向かう予定を変更してわざわざ温泉に来たのは、領主の息子が招待してくれたおかげだ。森の魔獣を討伐して、街道の封鎖を解除できるようになった礼だそうだ。
リディアたちの宿泊費を全て負担しても、街道封鎖による経済的損失や魔獣討伐の人的被害に比べれば安いと言っていた。せっかくの好意を無碍に断るのも悪い。ほぼ通り道ということもあり、立ち寄ることにした。
「ありがとうございます。ご用件がございましたら、いつでもお呼びください」
支配人が別棟を出ていくと、さっそくシェーラが湯を沸かしてお茶の用意をし始めた。護衛たちもそれぞれ別棟の中を見て回ったり、馬の世話をするために外へ出ていく。
クラウスも馬の様子を見に行ったが、気を利かせた護衛に連れ戻されていた。
「奥様が暇そうにしてますよ」
「こっちは俺たちがやっておきますから、観光でもしてきたらどうですか?」
実に頼もしい護衛たちだ。
「クラウス様。まずは休憩なさったらいかが?」
ちょうどシェーラがお茶のポットを持ってきてくれた。クラウスは納得がいかない顔でソファに座り、紅茶が入ったカップを受け取る。もちろんリディアも隣に座った。
「名前しか知らなかった温泉宿に泊まる日が来るとは思いませんでしたわ」
「俺もここは名前しか知らなかったな。だが立ち寄るには丁度いい距離だ。機会があれば、また利用するか」
初めての温泉に心躍らせているリディアとは対照的に、クラウスは冷静だった。
「王都からの旅行者もいるのでしょう? クラウス様も来たことがないのですか?」
「家族で利用している温泉は、別の場所だ。もし災害や魔獣被害が出たなら、来る機会もあっただろうな」
「個人的な旅行などは?」
「したことがない」
それを聞いて、リディアは胸の奥が熱くなった。元婚約者とは旅行をしていない。何をしてもリディアは二番目だろうと諦めていたのに、最初の人になれることがまだ残っていた。
「……嬉しそうだな」
「ええ。クラウス様の初体験に立ち会える機会ですから」
「その言い方はどうにかならないのか」
他に適切な言葉があるだろうか。
「この後はいかがなさいますか? 宿の者の話では、入浴以外にも観光できる場所があるそうですね」
なんでも高温の蒸気が定期的に噴き出す間欠泉があるらしい。
「そうだな……ゆっくり見て回ることにするか。君も来るか?」
「ええ。もちろん」
断る理由などない。ずっと馬車で移動していたぶん、体を動かしたい気分だ。喜んで同行することにした。
間欠泉までの道は急な山道だった。銀鉱山のように整地されておらず、傾斜もきつい。まだ日が高いので焦らず登ったが、目的地についたときには息が切れていた。
「山道って、こんなにきついのね」
「大丈夫か?」
疲れているのはリディアだけだ。護衛としてついてきたユルゲンはもちろん、クラウスも平気な顔をしている。
吹き上がる間欠泉を何度か見学し、飽きてきた頃にまた山道を下った。
「下りは滑りやすいから気をつけて」
「ええ」
踵が低い靴だから大丈夫だろう。ところが足を置いた場所が悪く、滑ってしまった。すかさずクラウスが支えてくれたので怪我はなかったものの、せっかくの忠告が無駄になってしまった。
「言ったそばから滑るんじゃない」
「ふふっ。油断してましたわ。ありがとうございます」
呆れながらも手を貸してくれるクラウスが好きだ。
クラウスは少し離れたところにいるユルゲンに言った。
「ユルゲン。わざと動かなかったな?」
「殿下なら間に合うと判断いたしました。それに、殿下が奥様にいいところを見せる絶好の機会でしたので。俺が手柄を横取りするなんて、無粋なことはいたしません」
「あのなぁ……リディアローゼも笑うんじゃない」
クラウスと護衛たちの関係は、ただの雇用主と労働者とは違っている。みな仕事だからクラウスについてきたのではなく、クラウスだから従っているようだった。
礼儀を失わない範囲で、気安いところが微笑ましい。
宿に戻ってからは軽く食事をとり、温泉を楽しむことにした。
「部屋のすぐ隣まで温泉を引いているなんて、贅沢ね」
「君はこの部屋の風呂を使うといい」
「あら。一緒に入ってくださらないの?」
「からかうんじゃない」
クラウスは素っ気なく言って部屋を出ていく。だが外にいた護衛の声が、意外な本音を教えてきた。
「おや殿下。顔が赤いですが、どうしたんです?」
「なんでもない。こら、人の顔をのぞこうとするな」
どうやら意識はしてくれているらしい。
精神的に満たされたリディアは、満足して温泉へ向かった。
***
クラウスが部屋に戻ってくると、リディアは一人で炭酸入りの果実酒を飲んでいた。ソファにゆったりと座ってくつろいでいる姿は、なかなか様になる。
「宿の支配人が持ってきてくれました。クラウス様も飲みますか?」
「いや、いい。甘いのは苦手なんだ」
ほぼジュースに近い酒なのでクラウスは飲まないが、女性には人気があるらしい。
「温泉というのは凄いですね。お湯に入るだけで肌が潤って、なかなか湯冷めしないなんて。香りは独特ですけれど」
「怪我や持病の治療にも効くらしい」
「ひっきりなしに客が来る理由がよく分かるわ。辺境にもあるといいのに」
「一応あるが……あそこは炭酸泉だからな。飲用として売るしかない」
テーブルに置かれたバスケットに、数本の瓶が入っている。そのうちの一本は冷たい飲用水だ。
瓶の蓋を開けてリディアの隣に座った。他の席は離れすぎている。そちらへ座ってしまうと、会話を無理やり断ち切ってしまうようで気になった。
人間一人分の間を開けて座ったのに、リディアが距離を詰めてくる。不快感はない。触れたところから体温が伝わってくるのは、意外と悪くなかった。
リディアが手を重ねてくる。主導権を握られそうになってから、ようやくクラウスからリディアに触れた。
リディアの頬をそっと指で撫でると、彼女はくすぐったそうに目を細めて微笑む。こんなことで幸せだと感じてくれる。急に、彼女のそんな一面を知っているのは自分だけだと思いたくなった。
「そんなに強い酒じゃなかったと思うが、酔ったのか?」
「さあ、どうでしょうか。酔っているような、あまり変わらないような」
「明日も馬車移動だぞ。飲み過ぎないように」
「まだ一杯しか飲んでません。二日酔いで乗りたくないわ」
「早めに休んだほうがいい。寝不足で揺れる馬車に乗りたくないだろう?」
「そうですね。クラウス様」
リディアがクラウスの肩に寄りかかってきた。
「ベッドまで運んでくださいな」
本気ではないのだろう。楽しそうに笑っている。
いたずらをしてやりたい気持ちになったクラウスは、リディアを抱き上げた。笑い声が引っ込んで静かになったリディアを寝室まで運び、ベッドの上にそっと下ろす。
きっとリディアは物足りなく思っているだろう。彼女の指先に口付けると、目尻が赤く染まったのが見えた。
「外出してくる。おやすみ」
「……おやすみなさいませ」
拗ねてしまったのか、返事は小さい。
気にせず部屋を出たクラウスは、別室に集まっていた護衛たちに声をかけた。
「明日からの予定について確認するぞ。祝いの最中に敵が動くことはないと思うが、気を抜かないように」
***
宿の裏側で短剣の手入れをしていたシェーラは、人間の気配を感じて顔を上げた。
護衛のイザークが剣を片手に歩いてくる。散歩にしては表情が硬い。まるで眠っている魔獣を前にしているかのようだ。剣の鞘を利き手に持っているので、今すぐ抜くことはないだろう。それでも油断はできない。
「シェーラさん。あなたは何者なんですか?」
お互いの距離は五歩ほど離れている。シェーラならイザークが悲鳴を上げる前に仕留められるだろう。
――否。人間は侮れない。
魔獣がいる森からリディアだけ離脱するさい、護衛を命じられた実力者だ。単身で魔獣に対峙する胆力もある。そう簡単に倒れてくれないだろう。
「辺境伯夫人の侍女です」
「ただの侍女が戦えるわけないでしょう。それにあの時、あなたは短剣から出てきたように見えた」
ほら、侮れない――シェーラは相手の実力を見誤っていなかったことに満足した。
イザークは随分と目が良いようだ。きっとシェーラが短剣で襲いかかる兆候を見逃したりはしない。剣こそ抜いていないが、いつでも戦闘に移れるように、わずかに腰を落として立っている。
「目の錯覚ということはありませんか」
「もう一つある。あなたから脈拍が感じられなかった」
「なるほど。二人で馬に乗ったときに気がついたのですね」
シェーラは迷っていた。
ここでイザークを始末しようか。自分が人間ではないと気がついている者を放置するのは、後々で面倒なことになるかもしれない。だが、ここで護衛の一人が行方不明になれば、もっと面倒なことが待っている。イザークはクラウスが信用している護衛だ。絶対に犯人を見つけようとするだろう。
それに、戦力が減ることはシェーラにとっても好ましくない。自分一人でリディアを守るのは限度がある。侍女と護衛では、リディアと共にいられる場所に差がある。夜会の会場にシェーラは入れない。
「私のことを知って、あなたはどうするのですか?」
今度はシェーラから質問してみた。
「私のことを他の者に明かしますか。それとも殺しますか?」
「……あなたは奥様に忠実なように見えます。だから、悪い存在ではないのでしょう。でも俺はクラウス様の護衛ですから、得体が知れないものを放置しておくのは、良くありません」
「つまり純粋な好奇心で私のところへ来たと」
やはり殺すのが目的ではないのかとシェーラは納得した。ここへ来たのはイザークだけだ。話の内容によっては、秘密にしてくれるだろう。
シェーラは手入れをしていた短剣を見せた。
「私の本体はこれです」
短剣を壊してもシェーラは死なないのだが、人間にはそう説明したほうが理解されやすい。
「これが?」
「短剣に蓄積された記憶と同化したのが私です。この短剣は貴族女性が己の尊厳を守るために、常に持っている物。そんな役割があります。幸いにも未使用品でしたよ。短剣と同化した私は、短剣が作られた目的も引き継ぎました。だから私はお嬢様を守るのです。納得していただけましたか?」
短剣とシェーラを交互に見たイザークは、混乱している様子だった。
「……シェーラさんは妖精なんですか?」
「精霊です。あんな虫ケラと一緒にしないでください。その首を切り落としますよ」
「す、すいません……」
シェーラにも我慢できない一線はある。妖精などという、存在自体が悪な生き物と一緒にしてほしくない。リディアが幼かった頃は、幾度となく寄ってくる妖精に悩まされたのだ。シェーラがいなければ、リディアはチェンジリングとかいう迷惑な悪戯の被害者になっていただろう
シェーラの剣幕に驚いたイザークは、大きな体を縮めるようにして謝ってきた。その様子が怒られている最中のルカにそっくりだ。不思議なことに怒りが消えてきた。
「いいですか。私は精霊です。お嬢様の安全以外に興味はありません。あなたの主人はお嬢様が健やかに生活するために欠かせないから、ついでに守っているだけです」
「ついで、ですか。いや、それでも良いんです。クラウス様に害がなければ」
納得したイザークから緊張感が消える。
素直な人間だとシェーラは思った。一人で会いに来たということは、誰にもシェーラのことを話していないのだろう。
「ところで精霊と妖精ってどう違うんでしょうか。子供の頃に読んだ絵本でしか知らなくて」
「まず比較するのをやめてもらえませんか。同列に扱われているようで不快です。次に同じことをしたら殴りますよ」
シェーラはイザークの評価を「どうでもいい人間」から「面倒くさい人間」に変えた。




