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34精霊屋敷5

 何事もなかったかのように数日が過ぎた。思い出しただけで頬が熱くなるリディアにとっては良いことだ。


 安心すると同時に、少し残念でもある。せっかく良い雰囲気になりかけていたのに、自分から終わらせてしまった。よりにもよって逃げるなんて最悪だ。


 あんなに優しい表情で触れてくるなんて思わなかったのだ。嬉しいと恥ずかしいが心の許容量を超えてしまって、あの場に留まるなんてできなかった。クラウスに気にした様子はなく、平然としているのがせめてもの救いだろう。


 もし逃げずに止まる場合、どうするのが正解なのか分からない。それとなくメイドたちに聞いてみると、ほとんど同じ答えが返ってきた。


「そんなもん、勢いに乗ってしまえばいいんですよ。相手が始めたことなんですから、嫌いじゃなければお任せしてみては?」


 勢いとは。リディアは思考が泥沼にはまりそうな気がして、考えるのをやめた。とりあえず相手(クラウス)に任せるのがいいらしい。何を任せるのかは知らないが、たぶんどうにかなるだろう。


 最適解ではないけれど、一定の結論に達したリディアのところに、宝飾店から外商がやってきた。夜会用に制作を依頼した店だ。デザインの図案を持ってきたそうなので、中へ通す。


 何枚かある図案を見比べていると、クラウスも途中で加わった。


「この案で進めたいと思います。いかがでしょう?」

「いいんじゃないか?」


 概ね予想通りの返答だった。女性が身につけている宝石に興味がないのは、ほとんどの男性に共通したことだ。リディアも品評を求めて尋ねたわけではなく、クラウスにとって不愉快ではないかの確認だったので問題ない。


 ――私だって、男性のシャツのボタンだとか、ベルトのバックルに使われている素材について聞かれても、似たようなことを答えるわ。お互い様よね。


 図案を片付けた外商は、小さな箱をクラウスに差し出した。


「調整が終わりました。お確かめください」


 中に入っていたのは指輪だった。そういえば店員が図案と一緒に持っていくと言っていた。


「せっかくですから、クラウス様が指にはめてくださいますか?」


 左手を差し出すと、クラウスは指輪を箱から出して薬指にはめてくれた。ためらいも何もない。これはこれで長年連れ添った夫婦のようで面白かった。


「ご存知ですか? 南の国では、愛を伝えるために夫から妻へ指輪を贈るそうですわ」

「……北の国では妻へ贈る指輪は金と決まっているそうだ。銀は愛人や妾に渡すらしい」


 ここが北の国ではなくて良かった。クラウスは外国の指輪に関する風習と、目の前のことを結びつけて考えていないようだ。単に知識を披露し合って、教養を身につける時間だと思っているのではないだろうか。


 勘違いして真面目に返してくるクラウスも非常に愛らしい。


「ねえ、クラウス様。この国で指輪を贈り物にする際に、気をつけることはあったかしら?」

「特にないな。強いて言うなら、収入に合ったものを選べということぐらいか」

「制約がないって素敵だわ」


 商品の代金を受け取った外商は、荷物をまとめて帰っていった。

 指輪はしばらく身につけておくことにした。暇な時は、ずっと眺めていたい。


「今日はルカを塔の周りで走らせてきます。クラウス様はどうなさいますか?」


 クラウスは今、予定をいくつか前倒しにして仕事をしている最中だ。王都へ行く用事ができたために、しばらく辺境を留守にする。不在間でも領地運営が滞りなく行われるようにしたいのだろう。


「最近のルカは、空を飛んでいる精霊にも届くほど脚の力が強くなりました」

「君は何を教えているんだ」

「ご安心を。危険なことはさせていません」

「危険なのはむしろルカじゃなくて、精霊のほうでは?」


 心配だから見に行くとクラウスは言った。

 理由はなんでもいい。リディアはクラウスと一緒にいられる。


 シェーラに預けていたルカは、リディアの顔を見るなり甘えるように鳴いた。力なく垂れていた尻尾が、ゆっくりと左右に振れる。元気がないルカを渡してきたシェーラは、虐待ではありませんとはっきり言う。


「トイレの場所を間違えそうになったのが一回。お嬢様の枕を振り回そうとしていたのが二回。部屋に入ってきただけの精霊を食べようとしたので躾けました。被害はありません」

「どんな教育をしたら、犬がやつれた顔になるんだ……」


 クラウスが言うことも一理ある。だがルカは犬の形をした精霊だ。人間の常識を覚えてもらうには、やはり同じ精霊であるシェーラが適任だった。


「ありがとう。しばらく私が面倒を見るわ」


 シェーラから解放された途端に、ルカは元気になった。期待を込めた目でリディアとクラウスを見上げて、尻尾を振ってくる。崩れかけた塔に到着すると、元気よく走りだした。


 一見すると、いつもと変わらない光景だ。リディアは静かすぎる周囲を見回した。


「どうした?」

「精霊がいません。どんな日でも、一つか二つは必ず近くにいるのに」

「……自然の音しか聞こえないな」


 風が吹いている時は精霊の声が聞こえてくるのに、とクラウスが言う。


「偶然だと良いのですが……」


 異変があるようには見えない。無言で塔の周辺を歩いてみた。

 近づこうとしたリディアは、クラウスに止められた。


「塔の中から何か聞こえてこないか?」

「中ですか?」


 ざわざわとした声がするのに、姿が見えない。知らない外国語というよりも、楽器を使って人の話し声を真似している音に近い。


「塔の扉が無くなっていますね」


 朽ちかけた扉があったはずだ。扉は枠から外れて倒れたのではなく、枠ごと消失してしまっている。


「扉? 目の前にあるぞ」


 入り口が透明な幕を下ろしたように揺らいだ。


 ――これは、もしかして。


 リディアは近づこうとしたクラウスを止めた。


「本当に扉があるようにしか見えないのですね?」

「ああ」

「クラウス様に見えないなら、精霊が関係しているのでしょう」

「君には何が見えている?」

「カーテンのようなものが。入り口が別の場所へ通じているのかもしれませんわ」

「別の場所?」


「おそらく精霊の世界に。人里離れた山の中や、廃墟から異界へ行ってしまった人の話を聞いたことがありませんか? この塔周辺はあまり人が来ませんし、精霊たちがよく遊んでいます。精霊が多く集まる場所には、彼らの力が残りやすい。蓄積され続ければ、世界を繋げるほどの力になるのです」

「条件が重なってしまったと。立ち入り禁止にしているから、使用人たちが迷いこむことはなさそうだが……あちらから精霊が出てくることもあるんだよな?」


 そうクラウスが言ったとき、塔の入り口からメンダコ似の精霊がふわっと出てきた。精霊はクラウスを発見するなり、嬉しそうにヒレを動かす。


「あいつ、ここから出てきたのか。今すぐ閉じよう」


 よほど苦手な外見なのだろう。クラウスはリディアに提案してきた。


「行方不明者が出てからじゃ遅い。領民が安全に暮らせるようにするのも、領主の役目だ。協力してくれ」

「あれを見たくないから入り口を潰してほしい、ということですね。お任せください。道具を取りに行きましょう」

「だから、俺の本音を代弁しようとするんじゃない」


 腕組みをしたクラウスが仏頂面で言った。


 素直に「そうだ」と認めたくない態度は、実にリディアの好みだ。できる範囲で精一杯反抗しているのだから微笑ましい。


「……何を楽しそうにしているんだ」


 睨まれても全然怖くない。最近のクラウスは、照れると耳や目尻に赤みが差すからわかりやすいのだ。


「ええ。楽しいですわ。クラウス様の嫌いなものを知ることができましたから。まるで警戒している猫のようでとても可愛らしく――きゃっ」


 急に体を持ち上げられたリディアは、驚いてクラウスの肩に捕まった。強引に横抱きにしてきたクラウスは、もう羞恥心を克服している。リディアの悲鳴なんて聞いていない様子で、屋敷へ向かって歩きだした。


「あ、あの、クラウス様? お姫様だっこというものは、もっと情緒に満ち溢れた甘美な雰囲気の中で行われるものではなくて? まるで芋の袋を運んでいるかのように無言なのは、どうしてかしら?」

「入り口を潰すための道具を取りに行くんだろう? 手伝ってやろう。君は放置すると、あちらの世界を探索してくるとか言いそうだからな」


「まあ。そんな子供のような行動は、デビュタントと同時に卒業しましたわ。自分でここまで歩いてきたのですから、屋敷まで自分で歩けます」

「ルカ、帰るぞ」


 声をかけられたルカは、嬉しそうに走り寄ってきた。すっかりクラウスに懐いている。


「私の言葉を聞いてくださらないのね。もしかして照れ隠しで、私に喋らせないようにしたの? 子供っぽいのはどなたかしら……って、どうして走るんですの!?」

「犬と一緒に走るのが夢だったんだ。君はついてこられないんだから、大人しくしていなさい」

「クラウス様のいじわる!」


 結局、クラウスは屋敷まで降ろしてくれなかった。ご機嫌なのは走っていた一人と一匹だけ。一緒にいたのに、疎外感がひどい。


 この礼はいずれ返す。どうせなら倍返しだ。リディアは心の中でそう誓った。

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