29坑道の魔獣4
喉の渇きを感じて、クラウスは目が覚めた。酒の余韻が、まだ体に残っている気がする。サイドテーブルに置いてあった水差しに、浄化の魔術をかけてからコップに入れて飲んだ。幾分か潤った程度で、水分は足りていない。
辺りはうっすらと明るい。夜明けが近いようだ。
クラウスはベッドの端に座って、眠気を覚まそうと努めた。
嫌な夢を見た。思い出したくないけれど、覚えていないといけない過去が再現されていた。
幼い頃、クラウスは南の辺境にいる王弟殿下――叔父のところへ遊びに行ったことがある。母親と二人だった。弟はまだ幼く、長旅ができない。仕事の都合で王都を離れられない父親と、見送ってくれたのを覚えている。
南の辺境へいく理由を、母親は立ち上げたばかりの淡水真珠の産業を支援するためだと言っていた。大人の仕事についていけないクラウスは、叔父と辺境各地を見て回ることになった。
当時のクラウスは、政治について勉強し始めたばかりだ。王都にはないものばかりを見て、旅行気分になっていた。国境には本物の要塞がある。詰めている騎士は練度が高く、物語の一場面を見ているようだ。いずれ自分が関わっていく世界を垣間見たけれど、実感よりもかっこいいと思う感情のほうが強かった。
滞在最終日。隣の国が侵攻してきたことで、夢を見ている時間は終わった。
大人に守られて王都へ逃げる間に、たくさんのものを見た。
判断一つで平和など簡単に崩れる。こちらが戦いを忌避しようとしても、聞く耳を持たない相手には通用しない。力がなければ潰される。それが将来、自分を待っている世界だと。
もう一つ、知りたくなかったことも知ってしまった。
やけに親密な母親と叔父の姿に、子供ながら違和感を感じていた。当時は独身だった叔父は、やたらと自分を気にかけてくれる。もし叔父に子供がいたら、同じ事をしていたであろう。
父親は気がついていない。父親と叔父は異母兄弟だが、双子だと思われるほどよく似ていた。瞳の色もほとんど同じ紫。父親のほうが青みが強いぐらいだ。
誰にも言わず、ずっと心の奥に沈めている。思い出さないようにしているのに、なぜか浮上してくるから憎い。
――酒のせいか?
懐かしい人にも会った気がする。現実だろうと夢の中だろうと、出てくるのは苦い感情だけだ。
全て忘れてしまえば楽だろうなと考えた後に、実現不可能なことを考えるなと心の中で叱責した。
どんなに願っても叶わない事を望むのは時間の無駄だ。
ベッドの上には、綺麗に畳まれた上着が置いてあった。自分でやった覚えはない。護衛の誰かかと思ったが、彼らは最初の安全確認以外で部屋に入っていないはずだ。
――……リディアローゼ?
そういえば同じ部屋だった。窓側のベッドには、静かに眠っているリディアがいる。
水をもらったことを、うっすら思い出した。二言三言、会話をした気がする。
リディアは上掛けを体にかけていた。薄い生地に包まれた体の線がはっきりと見える。クラウスのほうを向いて寝ているので、顔がこちらを向いていた。
彼女が髪を解いた姿を見るのは初めてだ。シーツに広がった髪は艶やかで、手触りが良さそうだった。
血色がいい唇は柔らかそうだ。白く滑らかな肌をしているせいだろうか。口角の近くにあるほくろが目立つ。ペン先をそっと下ろしたような黒い点は、リディアの顔立ちをより魅力的に見せていた。
クラウスは剣と上着を掴んで部屋を出た。リディアの寝顔を見ていると、胸の奥がざわついて仕方ない。
部屋の外には護衛が立っていた。クラウスと目が合うと、軽く会釈をしてくる。まだ早朝だったので、周囲に気を遣っているようだ。
「外に出てくる」
「お気をつけて」
小声で会話を交わしたクラウスは、足音に気をつけながら階段を降りた。
一階では宿の主人が朝食用のパンを焼いているところだった。肉体労働者に好まれる、重くずっしりとした雑穀入りのパンだろう。食べ慣れているものとは違うが、味は悪くない。
――リディアローゼの口に合うか?
リディアが食事に不満を言っているのは聞いたことがなかった。朝食も問題なく食べられるかもしれない。
もしリディアが食べられないなら、可哀想だが屋敷まで我慢してもらうかと考えたクラウスは、軽く頭を振った。気がつけばリディアのことばかり考えている。
――いや、心配するのは悪いことじゃないだろう。
リディアは結婚するまで王都から出た経験がないと言っていた。宿に泊まったのも王都から辺境へ移動した時が初めてだろう。ましてやクラウスのように視察で各地を巡回したり、騎士と一緒に床で雑魚寝をしたことなどない。食事も子爵家なら、粗末なものは出されていないはずだ。
――少し前は王都で暮らしていた令嬢なんだぞ。たった一晩で慣れるわけがない。空腹と睡眠不足のせいで落馬する可能性も……って、なんで自分に言い訳しているんだ俺は。
どうにも頭の調子が悪いようだ。これも飲酒の影響だろうか。
クラウスは宿の外へ出た。朝の冷たい空気に包まれると、気持ちが落ち着いてくる。まずは体をほぐすために散歩から始めようと、誰もいない通りを歩き始めた。
***
翌朝、リディアが起きたときにクラウスの姿はなかった。身支度を終えて廊下に出ると、部屋を守ってくれていた護衛と目が合う。クラウスは先に起きて、一階へ降りたらしい。
「昨日はだいぶ飲んでいたように見えましたが、二日酔いはしていない様子でしたよ。いつも通り、手が空いている者を誘って朝の鍛錬をなさっていました。今頃は坑夫たちと交流しているんじゃないかと」
「残念ね。見逃してしまったわ」
出立の準備を終えたリディアが宿を出ると、馬の前でクラウスとヘルゲが話しているところだった。
クラウスは出てきたリディアに、いつも通りの態度だ。目を合わせて喋るけれど、特別な感情は出ていない。手を繋いでいた昨夜が嘘のようだった。
「おはようございます。お待たせしてしまいましたか?」
「おはよう。安心しろ。待たされた覚えはない。出発できそうか?」
「はい。いつでも」
坑夫や町の者に見送られ、朝靄が残る山道を馬に乗って進んだ。護衛たちは前後に分かれ、少し離れたところにいる。小さな声なら、護衛には聞こえないだろう。
屋敷から最も近い町が見えてきたころ、クラウスが昨夜のことを聞いてきた。
「水をもらったあたりから、記憶が定かではないのだが」
「すぐに就寝されましたよ」
「本当に?」
「信じてくださらないの?」
「……君に何かを話した気がするが、思い出せないんだ。やはり夢だったか」
何かを話した記憶はあるようだ。あそこで本音を吐露したのは、きっとクラウスにとって本意ではない。リディアはまだクラウスの特別な存在ではないのだ。
正直に教えるのは癪だ。昨日のことは、リディアだけが知っていればいい。
「そうね。きっと夢です」
「楽しそうだな」
馬の後ろに乗っているリディアは、クラウスから見えないはずだ。それなのに笑ってしまったことに気がついたようだ。
「だって、クラウス様の寝顔をじっくり観察できたのよ。役得だわ――ねえ、クラウス様。どうして馬の速度を上げるのかしら?」
リディアは嫌な予感がした。前を向いているクラウスの、耳のあたりが赤い。酔い潰れた上に、寝顔を見られたのが恥ずかしかったようだ。
「暇そうだから早駆けで帰ろうか。少し揺れるぞ」
「まあ。お気遣いなく。ゆっくりでも平気ですわ。全然、暇じゃありません。ねえ、クラウス様。聞いていらっしゃる? これ以上揺れたら、落ちますわ!」
「すまん。よく聞こえない」
「クラウス様!」
行きよりも緩やかな速度だが、喋ると舌を噛みそうだ。速度を上げたクラウスに、護衛たちも涼しい顔でついてくる。乗馬に慣れていないのはリディアだけだ。
――私も一人で馬に乗ってみたいわ。
クラウスにしがみついて揺れに耐えるより、ずっといい経験になるだろう。馬車よりも身軽に移動できそうだ。帰ったら乗馬の練習をさせてほしいと、クラウスにお願いしてみようか。きっと危険だからと言って、反対するだろう。
リディアは屋敷に到着するまでの間、クラウスを説得するための言葉を考えていた。
護衛1「なんでクラウス様は途中で速度を上げたんだろう」
護衛2「彼女と二人乗りしたことないのかよ。ああやると、思いっきり抱きついてくれるだろ?」
護衛1「あー。察したわ。真似しよ」
勘違い二度目




