12 悪意に壊されたもの
母親の病気が悪化してきたころ、王城で第一王子の婚約成立を記念して夜会が行われた。リディアは母親の側にいたかったが、他ならぬ母親の希望で出席することになった。
国内の貴族が集まる華やかな夜会を、娘に体験させたかったのだろう。当時は一人だけいたメイドと一緒に、リディアにドレスを着せ、髪を結う母親は楽しそうだった。リディアは母親のために夜会へ行ったようなものだ。
父親と一緒に王城へ入ったリディアは、すぐに壁際で友人達と過ごすことに決めた。ダンスはまだ未熟で人前で踊る勇気が出ない。人目を避けているリディアに声がかかるわけもなく、ただ豪華な空間を眺めて時間を潰している。それでも、家へ帰ったら母親に見たものを教えてあげようと思っていた。
やがて友人達がダンスに誘われ、一人また一人と離れていく。リディアは会場の熱気にのぼせそうになり、庭へと出た。
できることなら、すぐに帰りたかった。母親は日を追うごとにやつれていく。家の中が少しずつ暗くなっていくのに、世間は全く変わらない。リディアの心とは真逆の賑やかさと、喜ぶ人々の表情なんて見たくなかった。
誰が誰と結婚したとしても、リディアには関係ない。きっと母親が亡くなったとしても、世間にとっては瑣末なことだ。
自然とため息が出た。
――私って嫌な子ね。
皆が祝福している中、帰りたいと思って静かに泣いているのだから。
会場から聞こえてくる音楽が途切れたころ、リディアの後ろから土を踏む音がした。
「……すまない。人がいるとは思わなくて」
知らない男性の声だ。少年のものよりは低いが、成人しているとも思えない。
リディアはとっさに、肩にかけているレースのショールを頭から被った。今は泣き顔を見られたくない。
会場から漏れ出た明かりで、リディアには相手の姿が見えた。月の光のような銀色の髪と、一目で高貴な身分と分かる服装だ。リディアはすぐに彼が第一王子のクラウスだと分かった。夜会の最初に、婚約者と一緒に紹介されるのを見ていたから間違いない。
クラウスはショールを被っているリディアに戸惑っているようだ。
「会場の熱気を冷ましていただけです。すぐに戻りますので、お気遣いなく」
リディアの声は少し涙声になっていた。クラウスも気がついたようで、こちらを気遣うように見てくる。
涙の理由を聞かれたくなくて、リディアはこちらから話しかけた。
「王子はなぜここに? 今日の主役ではありませんか」
「無理やり主役にされただけだ」
喋った後で、普通に王族と会話をしてしまったのは過ちだと思い出した。だがクラウスは不敬だと指摘してこない。
「結婚は乗り気ではありませんか?」
「できることなら、全て白紙にしてしまいたい」
彼の返事は、リディアにとって意外だった。この国で一番偉い一族なのだから、結婚したくないと言えば、望みが叶う。そんなわがままが言える立場だと思っていた。
「王子にもできませんか」
「無理だな。国のために個を殺さなければいけないことが多い。自分の意見を通したければ、力をつけないと。今はその時期じゃない」
「今は?」
クラウスは答えなかった。
「君は、なぜ一人でここに?」
リディアは迷った。クラウスは自分のことを話したのだから、リディアも自分のことを話すべきではないだろうか。
「……自分では、どうにもできないことを考えていたのです」
「そうか。俺と同じだな」
目の前を精霊が横切った。クラウスへ近寄って、髪を揺らして遊んでいる。
リディアの心を曇らせているものは、もう一つあった。精霊と交流できることは隠しておけと父親に言われている。目の前に精霊がいるのに、他人のそばでは無視しないといけないのが、リディアには苦痛だった。
リディアにとって精霊は、見えて当たり前のものだ。それを異常だと決めつけられると、リディア自身を否定されていることと同じに感じる。
「もし王子に、他人には言えない能力があったら、それを隠し続けますか?」
「唐突だな」
クラウスは面白そうに微笑んだ。
「普段は隠しているだろうが、誰かの役に立つ機会があれば、使ってしまうだろうな」
「家族に否定されても、ですか?」
「誰が否定しても、その能力を使うと決めるのは自分自身だ。責任も背負うことになるが、使わない理由を他人のせいにするよりは健全だと思う」
決めるのは自分自身という言葉は、リディアの中へ素直に入ってきた。精霊が好んで寄ってくるクラウスなら、リディアのことを知っても頭から否定しない予感がする。
「いい気分転換になったよ。ありがとう」
クラウスはリディアの返事を待たずに、会場へ戻っていく。
淡い期待を抱きかけたリディアは、現実に戻された。
――私も戻らないと。
ショールを元通りに肩にかけ、リディアは父親を探しに会場へ戻った。父親はすぐに見つかった。親戚と話しているようだったが、リディアに気がつくと、帰ろうかと声をかけてくる。
「道が混む前に帰ろう。それとも、まだ残るか?」
「いいえ。疲れました」
帰りの馬車の中で、父親はリディアの結婚にも言及してきた。
「そろそろお前にも婚約者を見つけないと……」
「婚約者ですか」
「友人達の中には、婚約が成立した者もいるんじゃないか?」
「ええ。一人だけ」
父親は首元のスカーフを緩めて言った。
「いいか、リディアローゼ。夫になる男には、精霊のことは絶対に言うなよ。お前は知らないだろうが、世間一般では精霊が見えると主張する奴は、危険だと思われるんだ」
リディアは素直に頷いておいた。
もし婚約するなら、クラウスのように受け入れてくれそうな人がいい。
――でも、無理でしょうね。
もう一度、クラウスに会って確かめてみたい。だがもう彼に会うのは無理だ。子爵令嬢と王子では、身分に差がありすぎる。気軽に会えない上に、彼には婚約者がいる。
リディアは自分の気持ちを自覚して、心の奥底に封印しておくことにした。
***
懐かしいことを思い出したリディアは、目を開いて枕をつかんだ。ベッドの中で思いっきりのびをしても、まだ夢を見ている感覚がしている。
母親のドレスを見た後から、母親との思い出が次々と頭の中を巡っていた。クラウスのことを思い出したのは、おまけのようなものだ。
彼はリディアと会ったことを覚えているだろうか。リディアはショールで顔を隠していた。もし覚えていたとしても、リディアとは結びつかないに違いない。
――今ごろになって、初恋が戻ってくるとは思わなかったわ。
喜ぶべきなのだろう。絶対に届かない人と結婚することになったのだから。だがリディアは行動する気持ちが湧かなかった。
閉めきったカーテンの隙間から、朝日が差しこんでいる。いつもなら朝食作りの手伝いをしに、一階へ降りている時間だ。
リディアから気力を奪った出来事から、もう三日経った。そろそろ何かをしなければいけない焦りが生まれている。
家のことはカミルやシェーラがやってくれているのだろう。食事を運んできてくれるのはシェーラだ。あまり食欲がなく、ほとんど手をつけないまま下げてもらっているのは、申し訳なく感じていた。
リディアは無理やり体を起こした。着替えて髪を整えてみたものの、それだけで疲れてしまう。一つの行動をするだけで、半日分の労力が消費されているようだ。
イスに座ってぼんやりとしていると、控えめに扉を叩く音がした。シェーラとは違う。カミルはもっと力が強い。返事をすると、父親が入ってきた。
「リディア。調子はどうだ」
「良くはないわ」
「すまなかった。お前に家のことを任せきりで、あの二人のことも放置してしまった」
継母は父親の前では機嫌が良かった。生活のために、そう振る舞っていたのかもしれない。あまり家にいなかった父親が気づかなくても仕方がなかったのだろう。
「謝罪は受け入れます。ですが、他人に流されてあの人と再婚したことは許しません」
「そうだな。全て俺のせいだ」
「お父様も魔術を使えたのね」
「ああ」
「カミルにも聞かれたでしょう?」
「ああ。詳しくは聞いてくれるな。娘に聞かせたくない話なんだ」
「そう。お父様が従軍したことと、関係があるのかしら」
「お前は本当に賢い子だな。その通りだよ」
父親が戦争へ行っていたことは、うっすらと覚えている。リディアが三歳ぐらいの頃だ。世間の空気が暗く澱んでいた。ところが、ある時から皆の笑顔が増えていったのが不思議だった。
歴史を学んで戦争のことを知った時、もしかしたらと思うことはあったが、父親に確認したことはない。
「もうあの二人がリディアローゼに関わることはない。我が家はカミルに爵位を譲る。ゼンケル伯爵が手助けをしてくれるそうだ。だから、お前は自分の幸せを優先してくれ。ただし、精霊の力を借りられることは、今まで通り慎重に。悪意を持って利用してくる人間は、本当に厄介なんだ」
父親は扉に手をかけたが、思い出したように振り返った。
「カミルと、あの精霊のメイドが、お前のために何かをしていた。そろそろ明かしてくれる頃だろう」
婚約おめでとうと言って、父親は部屋を出て行った。
父親と入れ替わるように、シェーラが白い箱を持ってきた。
「お嬢様。ドレスの試着を」
「ドレス?」
「結婚式のドレスです。普段着では出席できませんので」
シェーラは箱の蓋を開き、純白のドレスを出した。
「どうして……? 待って。それ、本物?」
母親のドレスだ。継母に切り刻まれたはずのドレスが、ほぼ元通りの姿で目の前にある。
「カミル様と精霊達が修復いたしました。切れた糸を繋ぎ、欠けた部分には新しくレースを付け足しております」
「糸を繋ぐ? 刃物で切ったのに、繋ぐことなんて……」
「お嬢様。それは人間の常識です。我々精霊には、切れた糸を繋ぐことも可能なののです。やる必要性を感じないだけで」
「レースも……これを作ったのはベルンシュタインね?」
「はい。今はお嬢様のベールを編んでいるようですが……」
シェーラの視線が隣の小部屋へ向いた。リディアが振り返ると、ベルンシュタインが扉の影からこちらをみている。
「とても綺麗よ。ありがとう」
ベルンシュタインが被っているレースが揺れた。言葉もなく隣室へ消えていったのは、照れているらしい。
シェーラはドレスをベッドの上に広げ、全体が見えるようにしてくれた。形はほとんど変わっていない。切られた跡はほとんど見えず、足されたレースで華やかさが増していた。古いドレスにありがちな、流行遅れだと感じさせる要素は全て消えている。
鏡の前でドレスを体にあててみると、リディアの顔立ちに似合っていた。自分は父親似だと思っていたが、母親に似ているところも多いと気付かされる。肖像画の母親が帰ってきたようだった。
ドレスを着て細かい調整を終えたころ、カミルが様子をうかがいに来た。
「姉さん。大丈夫?」
「ええ。あなた達のおかげで、元気になれそうよ。カミルが精霊に頼んでくれたんですって?」
「うん。ドレスを元通りにできたらいいなって。強制はしてないよ。ちゃんと依頼して、賛成してくれた精霊しか関わってないから」
カミルの背後でシェーラがうなずいている。カミルの力なら拒否している精霊にも言うことを聞かせられるが、報酬として支払う魔力の消費も多くなる。二人が嘘をついていないのは、カミルの顔色で分かった。
「あとね、母さんからの手紙。余計なインクを抜いたから、読めるようになったよ」
継母が汚した部分は、うっすらとシミが残っている程度だ。これも精霊に手伝ってもらったのだろうか。
「姉さん。結婚相手のこと、父さんから教えてもらったよ。もし結婚相手が噂通りのろくでもない男だったら、離縁状を叩きつけて帰ってきてもいいからね」
「あら。まだ結婚してないわよ」
「もしもの話だよ」
カミルはひときわ真面目な声で言った。
「今ね、珍しく父さんが家にいるんだ。僕に教えなきゃいけないこと、聞き出してくるよ。じゃあね」
カミルが部屋を出て、静かに扉を閉める。きちんとマナーを守っているのねと思った後に、弟と義妹を同一視してしまったことを恥じた。
グロリアとは本当の姉妹のようになれたらいいと考えていた。少しは自分の言葉が届いただろうか。どこへ行ったのか確かめようもないが、真っ当に生きてくれたら、それでいい。
継母のことはまだ心の整理がついていなかった。きっと死ぬまで結論が出ないだろう。
リディアは脱いだばかりのドレスに触れた。
「……こんなに素敵な贈り物をいただいたんですもの。いつまでも泣いている場合じゃないわね」
「はい。お嬢様の幸せを願っている者は、お嬢様が想像しているよりも多いのですよ」
リディアは過去を見つめ直す時間を終わりにした。不安材料が全て消えたとは言えないが、結婚式でクラウスに暗い顔を見せたくない。
――そうよ。好きな相手と結婚するのよ。相手にも結婚して良かったと思ってもらいたいわ。




