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『楢山へ続く道』

作者: 小川敦人

「なあ、村田、『楢山節考』って知ってるか?」

昼休み、社員食堂でカレーを口に運びながら、青山は唐突に言った。

村田はスプーンを止めて、怪訝そうな顔をした。

「なんだよ急に。あれだろ、昔の貧しい村で、年老いた親を山に捨てる話だよな」

「そうだ」

青山はカレーの皿を見つめたまま、低く笑った。

「俺もな、昨日、母親を捨てたよ」

村田はスプーンを置き、眉をひそめた。

「……どういうことだ?」

「施設に入れた。本人は嫌がったが、もうどうしようもなかった」

村田は黙って頷いた。それがどういう意味を持つのか、すぐに察した。

「母さん、九十三になるんだ。昔は元気だったけど、最近はボケも進んできてな。夜中に徘徊するし、さっき飯食ったばかりなのに『今日のご飯はまだか』って聞いてくる。何より、嫁と折り合いが悪かった。お互い、限界だったんだ」

青山は、手元のコップを軽く揺らしながら続けた。

「決めたとき、嫁は安堵してたよ。でも、俺はな……罪悪感でいっぱいだった。まるで俺が楢山へ母を背負って行くみたいな気分だった」

「……そんなことはないだろ。施設に入れるのは、親を見捨てることとは違う」

村田は気遣うように言った。だが、青山は首を振った。

「母さんが俺に言ったんだ。『私は楢山へ行くのかい』ってな」

 村田は絶句した。

「お前、どんな気持ちでそれを聞いた?」

「……言葉にならなかった。俺は『そんなことないよ』って言ったが、嘘だった。母さんがタクシーの中で窓の外を見つめていた姿が忘れられない。何を考えていたんだろうな……」

 青山は、食欲を失ったようにスプーンを置いた。

「施設の前で、母さんは振り返らなかった。ただ、まっすぐに歩いて入って行った。何も言わずにな」

村田はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「青山……それでも、お前は母親を見捨てたわけじゃない。お前なりにできる最善を選んだんだ。自分を責めるなよ」

青山は、ふっと微笑んだ。

「そう思えれば、楽なんだけどな……」

その言葉は、自嘲とも、安堵ともつかない響きを持っていた。


青山は、母を施設に入れてから一度も訪問していなかった。

一ヶ月が経つ。

行かなかった理由は単純だ。母に会うのが辛いのだ。

施設へ向かおうとするたびに、あの日の別れ際の母の顔が蘇る。

振り返ることなく、奥へと歩いていった背中。寂しさを押し隠していたのが痛いほど分かった。

きっと、母は帰りたいのだろう。でも、口には出さない。

「私が我慢すれば、みんなが楽になる」

母のそんな声が、頭の中で響いていた。

結局、青山は「少し落ち着いたら行こう」「まだ慣れていないだろうから」と自分に言い訳をして、先延ばしにしてきた。

だが、実際はただ怖かったのだ。母に会ってしまえば、もう二度と離れられなくなる気がしていた。


昼休み、社員食堂で村田が言った。

「青山、お前、そろそろ行ってやれよ」

カレーを口に運ぼうとした手が止まる。

「……なんで、そう思う?」

「そりゃ、お前の顔を見てりゃ分かるさ。ずっと何かを引きずってるだろ」

青山は苦笑した。

「……行ったら、どうなると思う?」

「母親は喜ぶだろ。お前が会いに来るのを待ってるさ」

青山は村田の顔を見つめ、それから、窓の外へ視線を移した。

曇天の空は、低く垂れ込めている。雪が降りそうな気配だった。


――楢山まいりのときに雪が降るのは、縁起がいいとされている。

物語の中で、母を置いて山を降りた息子は、降り始めた雪を見て、思わず駆け戻る。

母は帰れと手を振るが、息子は「おっかあ、ふんとに雪が降ったなア」と叫び、涙をこらえて山を駆け降りる。

青山は思った。もし今日、雪が降ったら、俺は母に会いに行けるのだろうか。

それとも、また見て見ぬふりをするのか。――

青山は、冷えたカレーの皿を見つめていた。


雪は降らなかった。

それでも、青山は次の週の非番の日に施設へ向かった。

決心するのに時間がかかったが、このままではいけないと思った。

母に会わなければ、自分が自分でいられなくなる気がした。

施設の玄関で、受付の職員に名前を告げる。

「お母さま、お待ちでしたよ」

その言葉が、胸に刺さる。

案内された個室のドアを開けたとき、青山は息を呑んだ。

そこには、たった一ヶ月でげっそりと衰えた母がいた。

頬はこけ、目の下には深い影が落ちていた。手足は細くなり、毛布の上に投げ出された指は、枯れ枝のように頼りなかった。

「……母さん」

母はゆっくりと青山を見た。

だが、その瞳にはかつての温かさはなく、遠くを見つめるような虚ろな光が漂っていた。

「こんにちは……どちらさまですか?」

青山の心臓が凍りついた。

「母さん、俺だよ、秀行だよ」

母は眉をひそめ、困ったように微笑んだ。

「すみませんねぇ、私はもう……よく分からなくて」

青山の喉が詰まった。

「……なんだよ、それ」

椅子に腰を下ろし、震える手で母の手を握る。冷たく、細い指が、自分のものとは別の世界にあるように感じた。

「母さん、俺のこと、本当に分からないのか?」

母はしばらく黙っていたが、やがてふっと微笑んだ。

「息子がね……いたんですよ。優しくて、いい子でね。どこに行ったんでしょうねぇ」

青山は耐えられなくなり、俯いた。

涙がこぼれた。

「ここにいるよ……母さん……」

母は、そんな青山を見つめながら、ぼんやりと笑った。

「あなた、どこかで会ったことありましたかねぇ」

窓の外は曇っていた。雪は降らなかった。

けれど、青山の心の中には、ずっと降り積もっていた。あの日、母を置いてきた時から、ずっと。


青山は悩んだ。

この一ヶ月で、母はここまで衰えてしまった。痩せ細った体、虚ろな目、そして――自分を忘れた母。

施設の環境が悪かったのか? それとも、施設に預けたこと自体が母を弱らせたのか?

何か言うべきなのか?

「母がこんな状態になったのは、どうしてですか?」

そう尋ねたら、職員はどう答えるだろう。


「高齢の方は環境の変化で一気に認知症が進むことがあります」

「食が細くなられたのは、元々の体調によるものでしょう」

「職員はできる限りのケアをしています」


そんな答えが返ってくるに違いない。

でも、本当にそうなのか?

家にいたら、母はここまで変わらなかったのではないか?

俺が母を捨てたから、こんな風になってしまったのではないか?

考えれば考えるほど、頭の中がぐちゃぐちゃになった。

「……何か、ご不満がございますか?」

付き添っていた職員が、申し訳なさそうに尋ねる。

青山は、喉の奥にこみ上げるものをぐっと飲み込んだ。

「いや……なんでもないです」

今ここで不満を言ったら、施設側との関係が悪くなるかもしれない。

もし母がここを出されてしまったら――もう自分には母を引き取る余裕はない。

母は、また遠くを見るようにぼんやりと微笑んでいた。

「ここは、いいところですよ。ご飯もちゃんと出るし……それに……」

何かを言いかけた母の声が、かすれて途切れた。

青山は、目の奥が熱くなった。

「また来るよ、母さん」

その言葉が、どれほど虚しいものか、自分でも分かっていた。

結局、青山は何もできなかった。何も言えなかった。

ただ、沈黙のまま、母の部屋を後にした。

施設を出ると、冷たい風が頬を打った。

空を見上げる。今日も曇天だった。

――雪は降らない。――

それが、今の自分の心のように思えた。


施設を出た後も、青山はしばらく駐車場の片隅に立ち尽くしていた。

目の前の建物の窓には、カーテンが引かれ、母の姿はもう見えなかった。

ここで生きていくしかない人たち。

誰かに見守られながらも、どこか孤独な人たち。

これが、日本の介護施設の現実なのだ。

テレビでは、高齢化社会が問題視されるたびに「介護の充実」「施設の質の向上」といった言葉が並ぶ。

だが、現実はどうだろう。

母は、たった一ヶ月で別人のようになってしまった。

職員が悪いわけではない。彼らは限られた時間と人手の中で、最大限の努力をしている。

それでも、足りないものがある。

それは、家族の時間だった。

家族の温もりだった。

施設に入れた瞬間から、親と子の関係は変わる。

家で「待っている人」だった母は、「会いに行く人」になり、次第に「記憶の中の人」になっていく。

そして、いつか――「いない人」になる。


青山は、深く息をついた。

「俺は、この道を進むしかないのか……」 多くの人が、この道を通る。

誰もが、親を介護しきれず、施設に頼る。

そして、後悔と葛藤を抱えながら、少しずつ受け入れていく。

これが、日本の介護の現実だ。

空を見上げた。

やはり、雪は降らなかった。


――それでも、いつかは降るのだろうか。――

楢山の物語のように、すべてを包み込むような雪が。

青山は、車に乗り込み、静かにエンジンをかけた。

帰る場所はある。でも、そこに母はいない。

それが、今の日本で生きるということだった


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