処刑日前日に悪魔商人が来たので、時戻しの薬を買ってみた結果。
「どうして私が処刑なんてされなくてはならないのよ……!」
薄暗く湿った地下牢で、エラルダは忌々しげに呟いた。
歴史ある公爵家の令嬢を、それも第一王子の婚約者をこんな寂れた牢獄へ閉じ込めるだなんて、エラルダからすれば信じがたい暴挙である。
「大体おかしいでしょう、下級貴族の娘が王太子であるキーラン様に近づいているのよ!? それを咎めるのが婚約者たる私の役目というものではなくて!?」
「まあ、仰る通りですね」
その対面には、それなりに身なりの整った、平凡な顔立ちの男が座っていた。
地下牢にはあるはずもない立派な椅子に腰掛けて、地べたに座ったままの公爵令嬢を見下ろしている。
彼は悪魔である。今から五分ほど前、エラルダが怒りのあまり舌を噛み切って自害しようとしたところで現れて、『人生やり直し出来る薬があるんですがどうします? お安くできますよ』と投げかけてきた男だ。
エラルダは彼の身分について特に疑わなかった。
牢の外の見張りの動きは石像のように止まっていたし、男の目は確かに真紅の魔眼であったし、何より、彼は本当に何もない場所から突如として現れたのだ。
そんなこと、この国のどんな魔導士にだって出来はしない。それこそ、人の理を外れたものでない限り。
「貴方もそう思うでしょう? 身分というものを弁えていない人以下の畜生如きがこの私から婚約者を奪おうだなんて、無礼にも程がありましてよ!」
「一つ申し上げるとするなら、まあ、そういうところが理由だとは思いますよ」
「そういうところ? 指摘をするなら具体的に述べなさい、説明もまともに出来ないのかしら」
「その腐り切った性根のせいだと思いますよ。この世界でも近頃は身分格差への反発運動、大きいでしょう」
「それがなんだと言うの? 陛下は勿論、お父様だって下級貴族以下は畜生だと言っていたわよ」
「うん、まあ。それを何とかしよう、と立ち上がったのが王太子サマとその想い人サマでしてね。つまり貴方は彼らの主義主張の勝利を飾るには丁度いい戦利品な訳ですよ、お客様」
「納得いかないわ!」
エラルダは心の底から不平を露わに叫んだ。
だって、エラルダが幼い頃から学んできたことと何ひとつ噛み合ってはいないではないか。
エラルダは高貴なる身分なのだから、それ以下の人間は好きに扱ってもいいのだ。文句を言う方がおかしいのである。
もはや突然世界が作り変えられた程の衝撃と納得のいかなさだった。
「ま、気持ちは分からなくもないですがね。私にはこの世界そのものはどうにも出来ませんし、お出し出来るものはこの『時戻しの秘薬』のみです。寿命一括払い、三十六年分でお売りしますよ」
「三十六年分? 私は今十六歳だし、明日には死ぬのだけれど、どこから支払えと言うの?」
「多元世界を総括すると残高は六六六年分なんですよね。いやはや、しぶとい魂を持つ御方でいらっしゃる」
「ふうん……よく分からないけど、分かったわ。薬を寄越しなさい」
「話が早くて助かります」
悪魔商人は満面の笑みで薬を差し出した。一々説明を求める面倒な客は嫌いなのだ。
そういう訳で、エラルダは三十六年分の魂を対価に時戻しの秘薬を飲んだ。
時は戻り、新たな人生を歩み、そして────エラルダは再び地下牢に入った。
十六年ぶり、二度目のことである。
「上手くいかなかったわよ!?」
「お客様が男爵令嬢を虐めたからでは?」
「今度はバレないようにやりましたのに!」
「性根がひん曲がっていらっしゃる……」
「魂を払うわ! 薬を寄越しなさい!!」
「毎度あり」
エラルダは再度時戻しの薬を飲んだ。
時は戻り、新たな人生を歩み、そして。
エラルダは再び地下牢へ入った。
今度はなんと、十年ぶり三度目のことであった。
三度目ともなると慣れたもので、エラルダは商人が現れるなり、とりあえずふかふかの椅子を奪って座った。
押し出された商人は、とりあえず先ほどまでエラルダが座っていた床へと腰を下ろした。
「うわあ、尻が冷たい」
「一体どういうこと……! 今度こそ完璧に、それこそあの下賎な女が男爵家に引き取られる以前に始末出来る筈でしたのに……!」
「そりゃまあ、孤児院から女児を攫って処分しようとしたら悪魔の子供呼ばわりされて当然じゃないですか」
「貴方の子供になった覚えはなくってよ」
「思想の話です、思想の」
商人は尻の冷たさがどうにもならなかったので、仕方なく立ったまま壁に寄りかかることにした。
時空間移動出来るアイテムには限りがあるのだ。商売特化のマジックボックスで全財産を使い果たしたものだから。
「あの邪魔な小娘さえいなければ私がこの国の王妃となることが出来るのよ。ならば始末するのが当然ではなくて?」
「お客様を王妃にしたくないからこそ、彼らは結託して国を変えようとしたんだと思いますがね……」
「洗脳魔法の薬は売っていないかしら?」
「性根が腐っていらっしゃる……洗脳魔法は永続効果ではありませんし月額で五十年払いなのでめちゃくちゃコスパ悪いですよ」
「私に分からない言葉を使わないでちょうだい、首を刎ねるわよ」
「明日刎ねられる人の斬首ジョークは効きますね」
「魂を払うから薬を寄越しなさい!! 今度こそ上手くやってみせるわ!」
「いってらっしゃいませ」
結論から言うと駄目だった。
全然上手くいかなかった。
全然。これっぽっちも。
本当に上手くいかなかった。
十六年ぶり、四度目の地下牢にて。
エラルダは珍しく気落ちした声音で弱々しく呟いた。
「一体何が駄目なのかしら……」
「男爵令嬢を虐めなければいいと思いますよ」
「人の婚約者に色目を使う女を許せとでも言うの!? まだ同盟者として共に国と戦うくらいならば許せるわ! けれどね、あの女はキーラン様に懸想しているのよ!」
「公妾にしてやればいいではありませんか」
「それで? お飾りの正妃として政務にだけ精を出せとでも言うつもり? 愛する夫には他に想い人がいるというのに? ふざけた話だわ! 私はね、この世で一番に愛されていたいのよ!!」
「だったら愛されるように振る舞わないと駄目じゃないですかねえ……」
「私ほどの素晴らしい乙女が、有りのままで愛されないだなんておかしな話だわ……!」
悪魔商人はとりあえず、黙って秘薬の瓶を渡した。
エラルダもまた黙って受け取ると、勢いよく飲み干した。
「────な、何がいけなかったというの……! あの小娘も虐めなかったし、お父様にも進言したし、キーラン様ともこの国の未来について話し合ったのよ……!」
五度目の人生。
終着点である地下牢にやってきたエラルダは、目を閉じたまま眉根を寄せて唸った。
ロッキングチェアに揺られながら出迎えた悪魔が、紅茶を飲みながらしみじみとした声音で呟く。
「お客様が王太子側に着くと、今度は公爵家の権力を懸念した陛下が家ごと取り潰そうとなさるんですねえ……」
「こ、この国は腐ってしまったわ……!」
「最初から腐ってますよ」
「神に選ばれたる私がなんとかしなければならないようね……」
「お、いいですね。使命感は素晴らしいものです、人間は大抵それで身を滅ぼします」
「私は滅ぼさない側の人間よ、精々楽しみにしていなさい」
「地下牢で言う台詞じゃないですね……」
エラルダは自信満々に薬を飲み干した。
再びの十六年後。
六度目を終えたエラルダは、地下牢の扉を勢いよく開けて言い放った。
「攻略計画を立てるわ!! 案を寄越しなさい、下僕!」
「遅すぎません? 今まで無計画だったんですか?」
「私ほどの明晰な頭脳があれば計画なんて必要がなかったのよ」
「では今回も要らないのでは」
「正論を吐かないでちょうだい、暴力に訴えるわよ」
痛いのは嫌なので、とりあえず悪魔は素直にフローチャートを作成する用意をした。
悪魔から見るに、この世界の基本構成は自然生成されたものである。
世界改竄には要所を押さえれば特に問題はない。
他所では多元世界のゲームを基盤にした複雑な世界が存在したりするのだが、複雑すぎて頭が痛くなるので、悪魔は基本的にそっち方向へ商売には赴かないことにしている。
最初に商売した相手が次に会った時には分岐世界の住人で話が通じなかったりして、割と面倒なのだ。
「とりあえずあの小娘と結託するのは必須条件になってしまったわね、なんとも忌々しい……」
「王太子との婚約を結ばない方向は?」
「無理よ、私の意思一つで跳ね除けられるものではないもの。それにキーラン様より素敵な男性がいるとも思えないわ」
「まあ、圧政を敷く暗君の元に生まれた優秀にして善良な王太子ですからね。それに顔も良いと来ている」
「あの小娘が懸想するのも無理はない程に素敵な方よ。凛々しさの中にも可愛らしさがあって、健気で美しい人だわ! 私の誕生パーティの時にも素敵な贈り物をしてくださって、その上付き合ってくださったダンスも優美で洗練された──」
「あ、もう良いです。結構です」
「何よ、つまらない男ね。あの小娘なら三時間は付き合ってくれるし何なら平民出身の視点でしか見れない貴重なお姿まで話してくれるのに」
「なんだかんだ仲良くやってんですね」
エラルダは照れ隠しなのか、答えることなく目標設定を始めた。
黙々と手を動かし、やるべきことを整理していく。
悪魔は正直支払いさえ滞らなければどうだって良かったのだが、近頃めっきり暇なのもあって、割と乗り気で手伝った。
六度目にもなって未だに地下牢に来るエラルダが、若干可哀想になったのもある。
「お客様の性根さえまともならそろそろ解決してる筈なんですがねえ」
「私はいつでも清廉潔白な素晴らしき淑女だけれど?」
「淑女は恋敵にも理性ある態度で向き合うものですけどね」
エラルダは、今度は明確に聞こえなかった振りをした。
「とりあえず、これで良いわね! 行ってくるわ!」
「いってらっしゃいませ」
エラルダは意気揚々と出発した。
そして十六年後に戻ってきた。
地下牢に。
「男爵家を立てれば御父様が妙な思惑にかられ、公爵家を立てれば王家に目をつけられ、ならばと悪徳貴族のまま上手く行く末を変えようとすれば誤った義憤に燃えた下級貴族が事態も見ぬまま当家を滅ぼす……!! 一体どうしろってんですの!?!?」
「燃えてましたねえ、お屋敷……」
「全く、私はたまたま出先に居たからいいものの……! お父様も、重要書類も財産も、し、使用人まで……!」
「泣かないでくださいよ、お客様。お菓子でも食べます? 寿命三十秒で良いですよ」
「この私を菓子如きで慰めようとした挙句、代金まで取るとはね……」
「タダで持ってこようとすると回路から余計な魔力が漏れて火傷するんでね、契約した方が早いんです」
エラルダが三十秒を支払ったので、悪魔は在庫の中で一番美味しい菓子を出した。紅茶付きである。
フィナンシェに似た焼き菓子だ。エラルダはそっと、生家の料理人の味を思って泣いた。
「そもそも、あのままではあの小娘が旗頭にされているではないの!! どうせ上手くいかなければ一番に身柄を拘束されて差し出されるに決まっているわ……!」
「おや、男爵令嬢が心配ですか」
「はあ!? 心配な訳がないでしょう!! ただあの小娘はいつも呑気にへらへらしている無礼者だからどうせ貴族たちの神経を逆撫でして下手な拷問で遊ばれるに決まっているしそしたらキーラン様がどれ程傷つくかなんて容易に想像がつくのだから今すぐあの腐れ上級貴族たちをぶっ殺しあそばさねばと思ってるだけよ!! ところでお前、殺戮兵器の類は持ってないのかしら!?」
「軍属じゃないので取り扱い不可ですかねえ……」
「全く、使えませんわね」
「あっ、そういうこと言います? 良いですよ、もう秘薬売りませんよ、知りませんからね」
「五十年出すわ」
「毎度あり〜」
エラルダは、覚悟を決めた顔で薬を飲んだ。
悪魔は溶け消える世界の切れ端をのんびりと見送って、それから在庫の尽きた時渡りの秘薬を再度補充しておいた。
とりあえず、十本ほど。
「お客様? 顔色が悪いですよ」
「………………」
「お客様?」
「…………ジェシカが死んでしまったわ」
「ジェシカ……ああ、男爵令嬢ですね」
「私のせいよ」
地下牢の中。エラルダは真っ青な顔で、いつまで経っても俯いていた。
散々抵抗したのか、両手の爪が歪に欠けてしまっている。蹲った彼女の足元には透明な雫が幾つも落ちていて、今も尚、止まらない様子だった。
「私が無謀な計画を立てたから、そのせいで、ジェシカが死んでしまったわ。キ、キーラン様は、わたしのせいじゃないって、いうけれど、そんなことない、私がもっとちゃんと考えていれば、まさか陛下があんなことをするだなんて、信じられない……」
エラルダは頭を掻きむしると、そのまま身を伏せて嗚咽をこぼした。
時折、唸り声さえ漏れ聞こえてくる。
悪魔はそっと、困ったように宙を見やってから、空間の裂け目に手を突っ込んだ。
ギギ、ッ、ビビッ、ゴシャ、と妙に軋んだ音が響く中、なんとか裂け目からボトルの水を取り出す。
「お客様、とりあえずお水でも飲みましょう。脱水症状でろくに頭も働かなくなってしまいますよ」
「…………」
「自分を責めたってどうにもならないでしょう。大丈夫ですよ、やり直すチャンスはまだあります」
「…………でも、……」
「とりあえずこれ飲んで。あとは、そうだ。お菓子をあげましょう。ね、前に美味しいと言っていたじゃありませんか」
悪魔はもう一度裂け目に手を突っ込むと、一番上等な菓子の包みを取り出した。
ようやく顔を上げたエラルダが、差し出された水の瓶をそっと受け取る。
「……ありがとう、代金はおいくら?」
「あー、契約前に出しちゃったので、そのまま食べて良いですよ」
「でも」
「良いんですよ。ほら、何処が悪かったか考えて、今度こそ上手いことやってやりましょうよ」
エラルダと悪魔は、それから幾度も議論を重ねた。
前回までの目標は『エラルダが何の憂いもなく王妃になる』ことだったが、そこに『キーランの幸せ』と『ジェシカの生存』が加わった。
攻略は困難を極めた。
ジェシカを幸せにしない限り、キーランは決して幸せになれない。
エラルダはどう足掻いても真なる善良な乙女になれないものだから、キーランとは友情を育み盟友となる辺りが限界のようだった。
しかし下手にジェシカを貴族社会から遠ざけようとすれば市井の暴漢に襲われてしまう。
かといって早いうちから貴族に引き取らせても虐待じみた事件が起こる。
深く関わらせれば責任感の強さから旗頭となって犠牲となるし、過度に守ろうとすれば『キーランの弱み』として良いように扱われてしまう。
行き着く先はいつも絶望だった。いっそ笑えるほどである。
「や、や、やってらんねえですわ……!!!!」
繰り返しは十一度目まで来た。
エラルダは半泣きになりながら、悪魔と一緒に地下牢でお酒とつまみを嗜んでいた。やけ酒だ。
テーブルと追加の椅子も持ち込み可能になったので、二人並んでグラスを傾けている。
「私とジェシーが幸せになろうとすればキーラン様が! キーラン様とジェシーが幸せになろうとすれば私が!! わたくしとキーラン様が幸せになろうとすればジェシーが死んでしまいますわ!! どういうことですの!?」
「いやー……私もここまで酷い世界は初めて見ましたね……」
「なんとかなりませんの!? なりませんわね!? もう十一回目ですものね!!」
寿命の残高は既に底をつきかけている。平均して十六年分の人生が十一回と、秘薬の支払いが十一回分だ。
仮に生き残ったとして、十年二十年で死んだら意味もない。
試せたとしてもあと一、二回。
そろそろ限界だろうな、というのが二人の総意だった。
「……マグベル、貴方に一つやってもらいたいことがあるのだけれど」
「はあ、内容によりますね。出来ないことは一切出来ないので」
「私が悪役として死んだ後の世界で、キーラン様とジェシーがちゃんと幸せになるのか、確かめる方法はあるかしら?」
悪魔は一度、エラルダの顔色を確かめた。
もしかして、酔っているんじゃないかと思ったので。
酔っ払ったせいでこんなことを言い出したのだと思ったので。
エラルダは至って正気だった。加えて言えば、かなり真剣だった。
真摯な瞳が、真っ直ぐに悪魔を見つめている。
彼は少し迷ってから、困ったような顔で時空の裂け目に手を突っ込んだ。ギギギババババチバチバチ、と喧しい音がして、裂け目から鏡が取り出される。
焦げた手のひらを興味なさげに振った悪魔は、鏡の中身をしばらく眺めると、静かに片眉を上げた。
「大層お幸せに暮らしているようですよ。それはそれは、物語のお姫様と王子様のように」
「そう。だったら、私のやることは決まっているようね」
「と、言いますと?」
「あらゆる全てを我が物とする悪女として君臨して、めでたく処刑されるのよ。さあ、秘薬を頂戴! 今度こそ、全て上手くやってみせるわ」
勢いよく、それはもう勢いよく差し出された手のひらに、悪魔は微かに呆れたような笑みを浮かべた。
裂け目に手鏡を放り込んで、軽く肩を竦める。
「構いませんが、お先に未来視の代金を頂いても?」
「……ちょっと、そのくらいサービスしたらどうなの」
「申し訳ありませんね、何分商売で来てるものでして。得られるものがなければお客様とお付き合いする義理はないのです」
「ふん! その割には随分と付き合いが良かったようだけれど……まあ良いわ! 私は気前がいいから、言い値を払ってあげる」
「それは有難い。ではこちらにサインをください」
羊皮紙には、エラルダの知らない言語で何やら書かれていた。
何が書かれているかも分からない契約書に確かめもせずにサインするだなんて、きっと馬鹿のすることだと笑われるだろう。
けれども、エラルダは特に迷わなかった。
この男がエラルダを騙して全てを奪う気ならもっと昔にそうしただろうし、何より、彼が優しくて素敵な男だということくらい、もうエラルダには充分過ぎるほど分かっていたからだ。
「では、行ってくるわね!」
「……いってらっしゃいませ」
エラルダは、何もかもに吹っ切れた顔で秘薬を飲んだ。
悪魔は溶け消える世界の一端に留まりながら、やはり少しばかり呆れたように、口元を笑みの形に歪めた。
「……全く、大したお人です」
落とされた呟きには、確かに寂しさが混じっている。
悪魔は今度は自身への呆れを含めて笑みを浮かべると、再び、世界の行く末を追った。
かくして、エラルダは再び地下牢へと舞い戻った。
もはやすっかり慣れたもので、一番居心地のマシな位置に座っている。
月明かりすら届かない薄暗い室内で、エラルダは現れた男の見慣れた姿に目を瞬かせた。
「あら、前回で最後になるかと思ったのに」
「上手くやったようで何よりですよ。いやはや、素晴らしい悪辣ぶりでしたね」
「見ていたの? なんだか恥ずかしいわね」
唇を尖らせながら目を逸らすエラルダに、悪魔は小さく笑った。
子供のいたずらを窘めるような笑みに、やがて苦いものが混じる。
エラルダの対面へと腰を下ろした彼は、少し強張った声で口にした。
「本当にこれで宜しいんですか。貴方の素敵な王子様も、貴方の素敵なお友達も、貴方を憎み蔑んだままですが」
「勿論、構わないわ。だって私の記憶の中には、素敵な二人との思い出が沢山あるもの」
「明日になったら処刑されるんですよ」
「そうね」
「この世界の文明レベルでの斬首刑って結構痛いんですよ。本当に宜しいんですか」
「何よ、脅かしに来たの? 酷い悪魔だわ」
拗ねた声音で呟いたエラルダに、マグベルは珍しく目を逸らしたまま呟いた。
「あのですね、これは単なる商売の話ですが」
「何? もう私に支払えるものなんて殆どないわよ」
「いえね、えー……近頃太客が出来まして、もう偉い勢いで支払ってくださるものだから懐が潤いに潤ってしまいまして、魔界に店舗を建てましてね」
「あらそう、おめでとう。その太客様には感謝しないとならないわね」
「ええ、そうです、感謝してますよ、まあね。それで、です」
悪魔は、舌の回る彼にしては珍しく、なんだか歯切れ悪く呟いた。
「つまりね、私は最近商売繁盛で、店番を一人雇うくらいは訳ないんですよ」
「あら、そうなの。良かったわね」
「やりませんか? 店番」
エラルダは一瞬、それが誰に向けられた言葉か分からずに、軽く目を瞬かせた。
壁を振り返って、誰もいないことを確かめてから、再び悪魔へと向き直る。
「私?」
「ええそうです、貴方以外に誰がいますか」
「でも、」
「この世界のことならばご心配なく。魔界には魂を持って行くので、身体はこの場に残ります。貴方は投獄のショックで突然死したことになる訳です。まあ、世界の結末としては有り得る範囲でしょうね。
それから寿命に関してですが、前回の契約書では貴方の魂の扱いを保留にしていましたから、残高の全てが残留寿命になります。一般的な人間程度には生きられるかと。短いですけどね、私から見れば。
業務内容は、そうですね、まあ、掃除と、接客と、あとなんです、在庫の整理でもしてください。貴族令嬢だとしてもそのくらいは出来るでしょう、っていうか、貴方ならもはや何だって出来るでしょう。
それで? どうします? 契約します? 別に、私はどうしようと構いませんが」
口を挟む暇もない程の早口だった。
エラルダは若干間の抜けた顔で、気圧されたように動きを止めたあと、声を立てて笑った。
返事なんて決まりきっている。
エラルダはなんだか赤い顔で呟いているマグベルに抱きつくと、感謝を込めて────というより感極まって、その頬へと唇を押し当てた。
* * *
「見て、マグベル! キーラン様とジェシーの間に赤ちゃんが産まれてるわ……! なんて可愛いのかしら……」
「ちょっと、覗き見するなら休憩時間にやってくださいよ」
「別に良いじゃない、お客なんて一人も来ないわ。このままだと潰れるのではなくて?」
「出張でやってるんでね、ご心配なく。業績は順調です」
「あらそう。だったらこのお店は何のためにあるのかしら」
可愛らしい白い造りの店舗には、いつも色取り取りの花が飾られている。
魔界のある都市の郊外に位置するこの店は、名目上は行商人マグベルの魔道具屋だ。
だが、看板もない上に所在を明らかにしてないので誰一人客が来ない。
一体何の意味があるのかしら、とエラルダは始めの一週間ほどは首を傾げていた。
そのあとはずっと、マグベルを揶揄うことにしている。彼が一向に本当のことを言わないものだから。
「良いじゃないですか、何の為でも。なんだったら貴方様が何かお店でも開けばよろしい」
わざとらしい咳払いを響かせたマグベルに、エラルダは唇の端を深く持ち上げた。
「じゃあ、パン屋でもやろうかしら」
「朝が早いですよ、パン屋は。起きれないから無理でしょう」
「なら貴方が起こしてくれればいいわ」
「起きないじゃないですか」
「あら、目覚めのキスでもくれれば一発よ。試してみれば?」
軽い調子で紡がれた言葉に、店の奥から何かをひっくり返す音と、ああ!という小さな悲鳴が聞こえた。
さて。彼は明日、口付けで起こしてくれるだろうか。
ちょっとした楽しみを胸に、エラルダは鏡の中で幸せそうに寄り添い合う三人を眺めながら、小さく微笑んだ。