一章《薄群青と藍の鳴動》/3
朝日が差し込んでくる。
そんな憎たらしい光に小言を言いながら、布団をさらに被る。
そしたら、布団の中にいたチェリーが顔を舐めてくる。
「おはよう、チェリー」
その短く揃った黒い頭を撫でる。
チェリーは「にゃあ」と返事のようなものを返してくれる。
「朔良ちゃーん。朝ご飯できたから、食べちゃいなさい~」
階下から、詩織さんの元気な声が聞こえてくる。
頼れる親戚もおらず、四歳とか五歳のころだったから、何もわからなくて、身寄りもなくて。やっとのことで着いたのが、ここだった。
「今行きます」
本当によくしてもらっている。衣食住が確保されているというだけでありがたいものだ。
保健所とか、市役所とか、そういった手続きはしなくてよかった。
母親の友人だという詩織さん。母親は「私に何かあったら、娘をよろしく」と言っていたらしい。なんとも用意周到なことだ。
母親はいつだって「好きにしなさい」が口癖だったことをよく覚えている。
まあ、いい。私はここで生きていくことにしたのだ。
古臭い体を脱ぎ捨てて、新しくなった私で、―――生きていくのだ。
その日の朝食はいつもよりも豪勢だった。
「近所の清水さんが良い鮭くれたから、焼いてみちゃった。どう?」
ここは神社の家だから、こういった差し入れが多かったりする。私の様な半ば孤児のような存在がいるとわかってから、そういったことも多くなったらしい。清水さんには小さいころよく釣りに連れてってもらった。
「おいしいです。今度お礼言っときます。」
ただ塩で焼いただけだ。だからこそおいしい鮭だということが良くわかる。
「そう?よかったわ。きっと清水さんも喜ぶわよ。あの人、本当に朔良ちゃんの事好きだからさ。孫ができたみたいでうれしいんだろうね。」
私からもお礼の手紙出しとこうかしら。なんて言っているのはここの神主の奥さん、詩織さんだ。
私の世話は基本的に詩織さんがやってくれる。
申し訳ないので、自分でやると何度も言っているのだが、「どうせ一緒にやった方が速いでしょ。あ、もちろん男どもとは洗濯変えるわよ?」なんていって、ほとんど全部やってくれている。
「食器は私が片付けるので、そこに置いたままでいいですよ。」
「本当に?ありがとう。じゃあ私は洗濯物を――」
といって洗面所に行こうとした詩織さんは私の顔を見て、立ち止まった。
「朔良ちゃん今日も顔色すぐれないね。大丈夫?」
起きてくるのも早かったし。と詩織さん。
「今日も、ですか。昨日も指摘されたんですけどね」
ほいよ、と手鏡を渡してくるので手に取って確かめると、
「……」
クマもすごいし、顔だって青ざめていた。今朝のあの夢のせいだろうか。
「無理しないで、やっぱり今日は学校休んだら?私から学校には連絡しておくし。」
確かに心なしか体もだるい気がする。でも、
「すぐそこなんで、とりあえず行って、何かあったら帰ってきます」
詩織さんは心配そうに、
「そう……。ほんとになにかあったら帰ってくるのよ」
と、詩織さんは洗面所に向かう途中で立ち止まって
「ところで……朔良ちゃんの顔色指摘したのって、君下君?」
詩織さんはとてもにこやかだ。いつだってにこやかだが、こういう時の彼女はいじらしい。
「……はい」
詩織さんは「やっぱり~」と、満足げだ。
「……なんですか」
「いや? べっつに~?」
一度、君下と買い物をしているところを見られたことがある。
それから彼女は何かを勘違いしているらしい。
「……………調子狂うなあ」
うち、と言ってもいいのかはいまだにわからない。
詩織さんや夫の健司さんは「我が家だと思って」と言ってくれるが、私はどうにも気恥ずかしい気持ちがしてならない。
まあ、この私が住まわせてもらっているこの家は、学校の真隣に聳え立つ神社だ。
この辺の人間のほとんどがここに初詣に来るくらいには大きい神社なので、私がここに住んでいることも有名だったりする。
なまじ学校の隣だから、遅刻ギリギリでも大丈夫だという余裕があって、つい寝すぎてしまう。
だけど今日は、あの夢のせいもあってか、早く起きてしまった。することもないので、早めに学校に行くことにした。
「行ってきます」
奥からは、詩織さんの声。
チェリーもどこか心配そうに私のことを見つめる。
「チェリーも。行ってくるな」
撫でてやると、彼は嬉しそうに鳴く。
玄関を出れば、夏の香りがした。
石造りの鳥居を抜けて、石畳の道を歩く。
私の通学路はこれがほとんどだ。
奇麗に整えられた石畳には、木漏れ日が揺らめいている。
通学路とも言えないような短い道を終え、学校につく。
朝練の生徒がちらほらといる程度で、人はほとんどいない。
人がいないというだけで、どこか暑さが和らぐようだ。
***
誰もいない廊下というのは、それだけでひんやりとしている気がする。梅雨もそろそろ明けるという頃だから、実際はとても暑いのだが。
自販機の横を抜け、教室につく。
誰もいないと思っていたのだが、一人、見慣れた人物がいた。
教室の隅の席。
彼は一人本を読んでいた。
その見慣れた佇まいは、どこか違和感を感じるものだった。なんだか妙に、凛々しく感じた。いつものような、なよなよした印象は受けなかった。
「珍しいね、月影さん。こんな早くからくるなんて……って僕も似たようなものか」
山本新司は本を閉じて、話しかける。
本当に、珍しい。
彼の方から話しかけてくるなんて。
「そうだな……それ、カフカ?」
彼が読んでいるのは、フランツ・カフカ『変身』のようだった。私も読んだことがあるが、よくわからなかった記憶がある。
「そうだね。僕、この本がとても好きなんだ」
表紙をすうっと撫でる。これ以上ないくらいに丁寧に、そして愛をこめて。
彼は恍惚な表情を浮かべている。
「私はあまり好きになれなかったよ。もの好きだな」
「そうかもね……僕は、こんな風に変わりたくって、しょうがなかったんだ。でも―――――今は何でもできる気がするよ」
彼の様子はいつもとは明らかに違っていた。
いや、彼が、こういった良い方向に変わってくれるのはいいことだ。言い方は悪くなるが、良くも悪くも、「いじめられる」という感じがにじみ出ていた。おどおどとしている彼を見るのは、私としてももどかしい気持ちがあったから。
彼らを空気のように扱う教室とか。
それでも私は、彼にどこか違和感を感じずにはいられなかった。




