間章《囁きと朱の悪魔》
山本新司は比較的裕福な家で育った。
父は外資系企業の時期会長。母はアパレルブランドを経営している。
そんな裕福な家庭で、子供は彼一人。多忙を極める両親だったこともあったのだろうか、両親は彼に対して、咎めるようなことは一切しなかったし、欲しいものはどんなものでも与えられた。端的に言えば、甘やかされた、と言っていいだろう。
だから彼は、世界が自分中心に回っているという妄想を、言葉では否定できても、心の奥底の潜在意識の部分ではいまだに信じていた。
ありていに言えばそれは、世の中をなめていた。ということに他ならない。
自分の想い、行動、信じているモノ。それらすべてに対して、誰も「間違っている」とは言えなかったのだ。この資本主義社会、金銭的に余裕のある彼が正しいというのは一種の真実なのかもしれなかったが。
もちろんそのずれた感性は、学校という社会では浮き出てくるものだ。当然、出る杭は打たれる。の言葉通りに、いじめられることが多かった。嫌がらせ、無視、仲間外れなどは日常的に行われていた。
そして、中学校から高校へ。それも県をまたいで通うことにした山本は、心機一転、これまでとは違った生活ができると意気込んでいたに違いない。
だが、わかるものにはわかってしまう。
それらを経験したものというのには、独特の雰囲気がある。それは良くも悪くも。
その点を、鈴木という男は、より敏感に感じ取ったのだろう。誰よりも、心が貧しかった彼は。
だが、山本のそれは、あくまで潜在的なものだ。彼自身は、鈴木に本心で怯えていたし、怖かった。
いつ終わるのだろう。
いじめではない。今日という日が。
夏休みに入ったら終わるだろうか。
終わるわけはないとわかっていた。だけども、そんな甘美な妄想に耽ってしまうのは、彼自身の癖のようなものだった。
そんな時、山本は、女性に遇う。いや、遭ってしまった。
放課後、どうしても家に帰ることができず、うろうろとわけもなく歩いているときのことだった。
「あら、貴方、どうしたの?」
美しい女性だと思った。髪は燃えるような朱色。瞳は紫紺に輝く。彼女は、何処か儚げで、幻のようだった。
「いえ……別に……」
僕が遠慮気味に、通り過ぎようとすると、腕を引かれる。
「顔色が悪いし、すこし休んだらどうだ?」
確かに、今朝から体調が悪かった気もする。僕はこの女性の言葉に甘えて、少し休むことにした。
そこは、河川敷のちょっとしたベンチだった。
温かい印象の明かりが、僕とその赤い女を照らしている。
「どっちにする?」
彼女はブラックコーヒーと、お茶を買ってきた。僕はお茶をもらうことにする。
病は気からとはよく言ったもので、彼女に指摘されてから、のどが渇いて仕方がなかった。もらったお茶を恥ずかしげもなくぐいぐいと飲む。
「気を付けろよ。そんなに勢いよく飲んだら、気管にはいるぞ」
僕は「そんな年寄りじゃないです」なんて返答しようとしたのだけれど、案の定むせてしまった。ゲホゲホと咳き込む僕のことを、赤い彼女は、「ほら」という顔で見つめている。
口調は、その容姿と反するように鋭かったが、背中をさする彼女の手はとても暖かいように感じた。
彼女は終始気遣ってくれていた。ここに来るまでも、ずっと。
僕は野暮なことかもしれなかったけれど聞くことにした。
両親は優しかった。だけど、それだけだった。そしてそれは、彼女の優しさとは全くの別物だった。言うなれば、両親の愛情は、とても無機質で冷たかった。だけど、彼女の優しさは――――。
「……どうして、そんなに良くしてくれるんですか?」
思わず出そうになった涙をこらえながら、聞いた。
彼女は、
「私は、人の心が読めるんだ。だから、お前さんがどういったことで悩んでいるのか、そして、どうしたいのか。それらがわかってしまう。――――――――私は善良な人間だからね。君みたいな人間を見ていると放っておけない性質なんだよ。」
僕ははじめ、驚いたが、彼女の容姿を見て、妙に納得した。
なんとなく、想像通りという感じがした。何処か空想めいた美しさに説明がついたという感じ。
だから、驚きはしなかった。
「すごいですね……でもなんだかちょっぴり恥ずかしいな」
つまり、彼女は僕がいじめられているということも、そして僕には力がないから彼からは逃れられないということも、わかってしまったのだろう。そして―――僕が彼のことを――――――。
「――――――そんなことはない――――とても綺麗だよ」
彼女は恍惚な表情を浮かべる。薄暗くてよく見えないが、頬が染められている、そんな気がする。
彼女は、僕の方に向き直り、まっすぐに僕の目を見つめる。
その赤い瞳に、吸い込まれてしまいそうだった。
「――――力を、貸してやろう」
僕の手を握る。
僕はその行動に、不覚にもドキリとしてしまう。
動悸が体全体を包んでいるようだった。
手にはじっとりと汗をかいてしまっている。
声を出せないくらいに、鼓動は波打っていて、どうしようもない。
「――――――目、瞑っててくれ――――――。」
彼女のたおやかな指先が、僕の手に触れる。
そして、手の甲に、甘美な感触が――――――
――――――そこで、山本の意識は途切れた。
次に目覚めたときは自室のベッド。
夢なのか、現実なのかは全く分からなかった。
ただ、心の中のわだかまりが、意味を得た。それだけがわかった。