一章《薄群青と藍の鳴動》/1
「君下って、本当にもの好きっていうか……」
昼休み、すっかりと僕らのたまり場となっている地学室で、昼食を二人でとっているときだった。彼がこんなことを口走ったのは。
「変な奴って、ひどいな。そういう斎藤だって……」
と彼の変なところを列挙しようとしたけれど……あまり思いつかなかった。購買で一番人気のないサラダサンドを好んで食べている、ということくらいだろうか。
「俺は変な奴、とは言ってないよ。もの好きだって言ったんだよ。別に、俺だって月影のことは綺麗だなとか、思うことはあるけど、お前みたいに、一緒に居れるかって言ったらなあ。」
月影朔良。この学校ではちょっとした有名人だ。
学業とか、運動とか顔が広いとかではなく、その容姿というただ一点だけで。
この狭い学校ではそれだけで十分ということかもしれなかったが。
「別に朔良は怖い人ではないよ―――――ちょっとその眼つきとか、言動とかで損してるところはあるかもしれないけれど……」
「そんなこと言ってもなあ……俺はあの視線に出くわしたら、ちびる自信があるけれどな……」
ひーこわ。なんて言いながら、斎藤はサラダサンドをほおばる。野球部らしい短髪の彼が、こんなに健康志向な食べものを好んでいるというのは、やはり変な気もする。
僕は男子高校生らしく、カツサンドをほおばる。
「まあ、そんなところも君下怜って感じだけどな」
と最後の一口を放り込む斎藤。
この地学室がある特別棟は、ほとんど人が来ない。別に喧騒が嫌いなわけではないけれど、好きというわけではない僕たちは、よくこの地学室を使わせてもらっているわけだ。もちろん許可はとっていない。まあ、大丈夫だろう。
昼休みも終わりに近づき、続々と食堂から出てくる大勢の生徒を尻目に、俺と斎藤は教室に帰ろうとする。
その雑踏の中、自販機の前に立ち尽くす、女性。
うん。やはり女性と表現することが正しいと思う。
流麗な黒髪。胸の高さあたりで奇麗に切りそろえられたそれは、やはり雅と表現するのが正しいように思う。
じっと自販機を睨みつけているその双眸は、薄群青に輝いていて、目つきはこれ以上ないくらいに鋭い。
隣の斎藤は、居なくなっていた。今頃トイレで下着の確認をしているのだろう。
「お、いいところに君下。……ちょっと小銭貸してくれよ」
気を抜けば、「彼」と人称をつけてしまいそうになるこの口調。
「朔良。僕は人に金は貸さない主義なんだって言ってるだろ?」
彼女は、明らかに不機嫌そうだ。
「なんだよ。君下って、案外ケチなんだな」
たかが数百円くらいでなんて言いながら財布を漁っている。
「それは心外だな―――――で、いくら?」
僕も自販機に向き直る。
彼女の背は、僕よりも頭一つ分低い。
「人に金は貸さないんじゃなかったのか?」
朔良はあざけるように笑う。
「友人、なら人じゃない―――だろ。」
と、百円玉を要求する月影。彼女は相変わらず、カルピスをご所望のようだ。
次の授業が始まる五分前の予鈴が鳴る。
ほとんど人は教室に行ってしまったらしい。いつの間にか僕と朔良の二人になっていた。
「君下はなんだかんだ言って、何でもやってくれるところがいいよな」
なんて、この傍若無人の権化のような女は言う。
自分の美しさに気づいているのかいないのか。
彼女は、そのとびきり鋭い目元を、くしゃりとくずして、「ありがとう」と快活に僕に笑いかけるのだった。
恙なく、一日の授業が終わり、教室には僕ら二人だけだった。
「……それで、話って?」
彼女はヨ―グルメットをちうちうと吸いながら、僕の話を聞いていた。話半分なんだろうけれど。
「だから、一組のいじめの件。あれ、傷害事件にまで発展したらしいよ。なんでもいじめられていた側が、いじめていた側を、タコ殴りにしたんだとか。」
今年度が始まってすぐくらいから問題になっていたこの一件。こんな形で決着がつくというのはいささか気持ちが悪い気がする。
「だから…今朝学校にパトカーが来ていたのか」
ズコズコと最後の一滴まで無駄にしない徹底ぶりは、彼女らしい。
「五組の僕らとしても、あまり、現実味のない話じゃないと思うんだよね――――実際僕らのクラスにも起こっているわけだし」
そう、この二年五組の教室では、「いじめ」が起きている。
もう教師たちは何の役に立たないことは証明済みだ。だけども、彼らを責めないでほしい。彼らにも生活が懸かっているし、上司と良心の間で揺れ動いているのだ。事実、僕らの担任はこれで三人目だ。
「山本と鈴木の事だろ? 大丈夫だよ。鈴木にも山本にもそんな度胸ないって」
「そんなこと、わからないだろ。今回の事件だって、みんなそう思っていたけど、実際に起こってしまったんだから。僕らのクラスでも起こらないって保証はない」
つい、語気が強まってしまった。朔良がそんな甘いことを言うもんだから。
「でも、起きるっている保証もないじゃんか。何をそんなに焦ってるんだよ―――――次期生徒会長を狙っているからか?」
朔良は、痛いところをついてくる。
僕自身、意識をしたことはないけれど、潜在的にはそんな打算があるのかもしれない。
「――――ちが……くないかもな。実際、自分のクラスで問題が起これば、なりにくいのは確かだし。考えてなかったって言うならそれは嘘になる。」
「ふーん」
朔良はつまらなそうに窓を向く。
もうそろそろ日は落ちそうで、この教室は橙色に染められている。
それから、僕は『作戦』を彼女に話した。
やはり彼女はつまらなそうに聞いていたが。
話し終えると、彼女は渋々口を開く。
「まあ、話は分かったよ。つまり私は、人が倒されたり、もみ合いになったら、職員室にチクりに行けばいいんだよな? 証拠写真と一緒に。」
本来は、僕がどちらもやるべきなんだろうけれど、いかんせん彼女は女の子だ。暴力沙汰に巻き込むわけにはいかないだろう。
僕だって殴られるのは嫌だけれど、彼女が殴られる方がもっと嫌だった。
「明日の朝、しっかりと頼むよ、朔良」
返事はない。朔良はただ夏に染められた風を全身で浴びていた。
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放課後、あの橙色の教室で、君下に、『作戦』とやらを聞かされた。
何でも、彼にとって、隣人の危機は自分の危機ということらしかった。
私は、生徒会長が…という風な悪態をつき、彼はそれを否定しなかったが、きっと彼はそんな打算など考えていなかったのだろう。そういうやつなのだ、彼は。
君下怜。数少ない私の友人の一人。いや、カッコつけるのはよそう。彼は唯一の友人だ。
彼には、私にはない強さがある。それは魔法などではなく、単純な、人間の強さだ。
私にはそれが、眩しすぎて、目を合わせることができなかった。