二章《銀の悪魔と緋色の瞳》/8
黒々とした何かに包まれたと思ったら、僕は廃ビルに飛ばされていた。
どこか、奇妙さを感じさせる廃ビルだった。
目の前には、ズラリと天井まで積まれた本の山。
革張りのソファには、一冊の本が、読みかけのまま、置かれている。
「朔良は……?」
あの場にはいなかった。それならいったい何処に……
「ここにいますよ」
後ろから声が聞こえる。
暗くてよく見えないが、その声は、月影朔良本人のものだった。
本棚に囲まれた闇から、彼女の銀色の声音が聞こえる。
だが、違和感を感じる。
「私は、サクラ。朔良ではないの」
月明りが差し込む。
照らされた髪は、銀糸の様に艶やかに煌めいて。
瞳は燃えるような緋色。
口調はどこか妖艶で。
月影朔良は、悪魔――――――――。
僕は、彼女に山本と近しいものを感じていた。
色が抜けたような髪色。そして、何より口調が違っている。
思わず「彼」と呼んでしまいそうな口調は、とても美しいものに変わっている。
「どうして、こんなところまで来てしまったの?」
まとわりつくような声だった。姿形は彼女とは違うのに、彼女が月影朔良であるということがわかってしまう。
「――――朔良を、助けに来たんだ」
助けに来た。
其の筈なのに、僕は腰にさしたイーグルに手をかけてしまう。
震える手、荒い呼吸。
「――――助けにきたの? 誰を? どうやって? 貴方はそんなにも震えているのに。非力で、考えなしで、それでいて人間なのに―――――」
彼女は、可笑しいという風に嗤う。
箸が転んでも楽しい、そんな無邪気な笑い方だった。
「それでも、僕はお前を助けに来たんだよ――――たとえ、四肢が飛び散ろうが、肺がつぶれようが――――――」
喉が詰まる。
息が辛い。
口をついて出そうになった覚悟の二文字。
これはこんなにも重い言葉なのか。
口にしてしまえば、それは死を受け入れるということ。
その言葉が出てこない自分は――――。
「やっぱり、貴方って本当にお人よしなのね。まるで何も知らないで、特撮に憧れる正義の味方気取りみたい―――――軽蔑するわ」
彼女は僕の方に向かって歩き出す。
足音が階中に響き渡る。
「私ね、あとほんの少しで、自分のことが好きになれそうなんだ」
彼女は妖しく嗤う。
すると、彼女の中から何かが沸き上がってくるような気がした。
もちろん僕には魔力なんて大層なものはないから、第六感というあいまいな表現になってしまうのだが。
それは、例えるならば、春の嵐。
何もかも無慈悲に散らしてしまう。
そんな強大で濃密な死の気配を感じた僕は――――思わず、彼女に銃口を向けていた。
自分でもよくわからなかったが、震える手が、とっさに反応した。
「どうして……」
これはどちらの声だったろうか。
脚は震えている。
きっとこれは――――恐怖だ。
「悲しいなあ。私は貴方のことがこんなにも好きで好きでたまらないのに……。そんな物騒なモノを私に向けるなんて……」
彼女は歩みを止めない。
向けられた銃口をものともしないらしい。
「朔良は……絶対にそんなこと言うもんか……!」
いつだって不愛想で、だからこそ誤解されやすい彼女なのだ。こんなことを言うはずがない。
でも、だからこそ、彼女が、悪魔になってしまった。そのことが明らかになっていく。
「怜はさ、私のこと嫌いなのかな……?」
動けない。
その瞳に縛られているような感覚。視界を通して、全身が凍り付いていくようにも感じられる。
「……僕は……」
彼女は、その銃口に頭をつける。
「どうしたの……? 撃たないの?」
震える僕の手をそっと包み込むように、手を添える。
引き金を少しこちらに持ってくれば、鮮血と脳漿の火花が散るだろう。
――――僕は彼女を殺したいわけではない。
「打てるわけ……ないだろ……」
引き金にかかった指を外す。
彼女は、僕の手から、その銀色の銃を奪い取る。そして、ビルの暗闇の中に放り投げた。
この静かな夜に、無骨な音が反響する。
僕の頸筋をそっとなぞり、頸に両手を回す。
「打てるわけ……ないんだ」
こんなにも近くにいる彼女。だけども、それは僕の知っている彼女ではありえなくて。
それでも、彼女は月影朔良であることには変わりない。
口調だって、髪色だって違うのに、こんなにも彼女に焦がれている自分に嫌気がさす。
「私ね……ネアさんが言ってたんだけど、不完全なんだって。心のブレーキとか、善性の根源ってのが邪魔をしているから」
完全には悪魔になりきれていないの。彼女は自嘲気味に笑う。
「笑っちゃうよね。魔法使いにも成れないのに、悪魔にもなり切れないなんて……。ここだけは、人間の私と同意見かな―――――私は私が嫌いだ―――ってところ」
僕は抱きしめられている。
彼女の息遣いや、心臓の鼓動までもが感じられる。
本当なら温かいそれは、異様に、奇妙に――――――――冷たく感じられた。
「だからね、完全になるためには、その邪魔をしているものを、殺せばいいんだって。ううん。比喩じゃないよ。だって――――――ここにいるもの」
心臓の部分を、とん、とつつかれる。
全身が粟立つ感覚。
「私は、貴方、怜を殺して、完全になる―――――――――そしたら、私は私を嫌いじゃなくなる。そんな気がするの……」
彼女は、あの夏の屋上で山本に向けたように、指先を僕に向ける。
その指先には、青白い月光が集まってくるようで。
「私は、この世界が、とても生きにくい。だって、常にまとわりつく自分自身が、これ以上ないくらいに嫌いなんだもの。こんなにも醜くて、こんなにも奇麗であろうとするなんて、そんなの欺瞞だわ」
だからね、これが私の最期のお願い―――――
「死んで」
刹那の月光が、暗闇を引き裂く―――。
***
魔力が集まっていく。
撃たれる直前、時間が幾千にも引き延ばされたような感覚に襲われる。
もうこれから、死ぬことになるということを、体が理解しているのだろうか、時間がより濃密に感じられた。
死んでしまいたい。そんな気持ちだった。
僕の覚悟なんて、直面してしまえば、こんなものだったのかもしれない。
僕に、妖艶な声色で迫ってくる彼女は、どこか、寂しそうで、辛そうだった。
それならば、僕が死んで、完全になってしまえば、彼女はその苦しみから解放される。そんな気がした。
僕の考えすぎかもしれない。
だけど、実感として、現実として―――――――彼女の心は凍っていた。
だけど、言葉が、心が、表情が、それを拒んだ。
『―――――それじゃあ、君が救われていないじゃないか。優先順位は、まず、自分。そうでなくちゃだめだ。そうでないなら、――――――それは嘘だ。』
小さかった僕の肩をしっかりとつかんで、目を見て、彼は言った。
あの時はわからなかった。
どんな本を読んでも、他人を尊ぶのが、正義だったから。
だけど、今なら、それがわかる。
自分が死ぬことが解決になるなんて、嘘だ。
そんな現実逃避は、許されないのだ。
両親の代わりに生き残った僕には。
自分が死んでしまえば、彼女を守ってやることも、助けてやることも――――抱きしめてやることもできない。
僕が彼女を大切に思うのと同時に、彼もきっと僕のことを大切に思っているのだ。
なんとも傲慢な考えだろうか。
でも―――――――きっと、これでいい。
***
青白い閃光を、とっさに避けた。
音速を超える速さ。当然完全に避けられるはずもなく、鎖骨のあたりが打ち抜かれる。
「……く」
脳幹を打ち抜かれたかのように、痛覚が全身を駆け巡る。
血は止まらない。だがその温かさが、生きているということ。
「避けるんだよね。怜は。」
彼女はわかっていた。とでもいうように、次弾を装填する。
逃げ惑う僕に、彼女は情けなどかけない。
僕は、闇の中、きらりと輝く銀色の拳銃を目指す。
弾幕のような魔弾が体中を掠めていく。
闇に隠れるように、柱を縫って走る。
積み上げられた本をばらまいて、攪乱する。
そして、銀色の拳銃に手を伸ばし―――――
「狙うに決まってるじゃない」
右の手の甲を、狙い撃ちにされる。
「―――――――ッ!」
声は出せない。場所がわかってしまう。
だが、何とかして柱の影に入る。
息を潜める。
左手で拳銃を構える。
――――――今度は震えていなかった。
月光に照らされた、彼女は、先ほどまでよりも大きな魔力を指先に集めていた。
「隠れても、無駄。柱ごと吹き飛ばすことにしたから」
彼女はきっと僕の位置がわかっている。
「でも、どうしてそこまで……ボロボロになってまで、生きようと思うの? 辛いことだって、嫌なことだって、痛いことだって、全部なくなるのに」
確かに、彼女の言い分は正しいように思える。
死んでしまえば、きっと、何も感じなくて済むのだろう。
両親が死んだときの悲しみだって。
ボロボロになった純を見たときの心配だって。
そして、あの病室で、彼女に吐いた言葉の後悔だって。
だが、いつだって正論が人を動かすとは限らないのだ。
そんな清濁を飲み干して。それでも前に進むのだ。
奇麗じゃなくていい。
汚くたっていいじゃないか。
生きていれば――――
「僕は―――――それでも生きたい。死にたくないんじゃなくて、僕は生きたいんだ。きっと、これは僕のエゴだ。わがままだ。でも―――――」
瞼を閉じれば、そこにいる。
「僕を悲しんでくれる人がいる限り――――――僕は生きるよ―――」
銀色の弾丸。
月光の雷鳴。
どちらの弾丸がたどり着くのが先か。
柱は崩れる。とっさに避けるが、破片が足を掠めていく。
銀色の弾丸は彼女に到着したらしく、彼女の脚からは、血が出ている。
「ああ、痛い、痛いイタイ、イタイイタイイタイイタイ……!」
柱が崩れたことで、建物自体が倒壊しそうになる。
いや、もしくは、あの時と同じように、『崩壊』が起ころうとしているのかもしれなかった。
銀色の弾丸。確かあの朱色の悪魔は言っていた。
それは、悪魔のみを抹消する弾丸。
きっと彼女は、人間と悪魔の狭間で揺れている。苦しんでいる。
今にも崩れ落ちそうな天井なんてお構いなしに、僕は彼女のもとに駆け出していた。
足を抑え、蹲る彼女。
崩壊する中、僕は彼女の手を取る。
このままでは瓦礫の中に下敷きになってしまうだろうから。
「どうして……」
彼女は手を振りほどこうとする。だけど、僕は絶対に離さない。絶対にだ。
その声は、月影朔良のものだったのか、それともサクラという悪魔のものだったのかはわからない。
だけど、そんなことに注意していられないほどに。僕は夢中だった。
彼女を抱えるようにして、僕は走る。
脚からは血が出ているだろう。
腕だって限界だ。
肺も心臓も破裂しそうなほど。
でも、彼女のためなら、どこへだっていける気がしていた。
下敷きになるよりは、壊れた窓から飛び降りた方がいいだろう――――――。
「しっかり掴まっておけよ――――――!」
強引に彼女を心中に連れていく。
ふわりと、宙に浮かぶ感覚。
手は離さない。
例え、そこから悪魔に犯されようとしていようとも。
「――――――ずっと後悔してた。あの時、夕日に染まった病室で、朔良に言ったことを」
僕らは夏の夜、互いに抱き合うようにして、落下していく。
きっと、僕が、かけるべきだった言葉は――――
「月影朔良は――悪魔なんかじゃない。普通で、平凡で、少し口が悪いだけの――僕の友人だ!」
月がきれいな夜だった。
最後に記憶に残ったのは、浮遊感と、空に輝く、満ちた月。
そして、胸に微かに感じた、温かい心、だった。




