二章《銀の悪魔と緋色の瞳》/7
夜中の十一時頃だっただろうか。
純がいなくなったことに気づいたのは。
そんな気はしていた。
いつもはそんなことはしないのに、資料が整理されている。
いや、すべて処分されている。
彼の荷物は嘘みたいに無く、ここは伽藍洞になっている。
「帰ってこないつもりかよ……!」
彼は言った。『湘南で』と。
彼は言った。『手を切れ』と。
彼は言わなかった。『行ってくる』と。
僕は、お役御免なのだ。何もできない一般人は、俺らの世界に入ってこなくていい。そういうことだろう。
机には、封筒だけが置かれている。そこには、札束が入っている。これで当分は工面しろということだろうか。
「――――――くそくらえ」
札束を、ゴミ箱に捨てる。
代わりに、銀色の鉄の塊を手にして、僕は向かう。
僕は無性に苛立っていた。
きっと、お前の悲しむ顔が見たくないとか、俺がいなくなっても朔良がいれば大丈夫だとか、俺一人でカタをつけるとか、思っているんだろう。
「そんなわけあるかよ―――――――」
口には出さない。出せるわけがない。
お前がいなかったら、俺はどうやって生きていけばいい。
お前がいなかったら、誰に朔良の愚痴を言えばいい。
お前がいなかったら、どうやって強くなればいい。
お前がいなかったら――――――――――。
いなくなっていいはずなんてない。
「あんな思いは、二度と御免だ……」
瓦礫の中、つぶれた両親を思い出す。
自分の半身を失ったような喪失感。
今でもどこかにいるのではないかと探してしまう。
そして、理性で気づいたときの虚無感。
そして、あの美しくも儚い笑顔。
それを二度も………
「ふざけるな……」
銀銃を握る手には力が入る。
とても重い銃だと思う。
それは質量的な話ではない。
覚悟、信念、正義。
それらの重さが、心を、重くするのだ。
「――――――絶対に許さない」
***
暗いビルの上。
屋上に緋色の閃光が走ったのが見えた。
無骨な非常階段を駆け上がる。
息は当然上がる。
心臓の鼓動が警鐘のように鳴り響く。
そして、屋上。
そこには朱色の女と――――純。
辺りは紫紺の鳴動で満たされている。
その指先は鮮血の海に沈む純に向けられていて―――――。
夢中で銃を構える。
覚悟など、決めている暇などない。
ためらわず、刹那の葛藤もなく、引き金を引く。
引き金を引けば、銀色の弾丸が火花と共に夏の空気を引き裂く。
肩には強い衝撃。命中したのは奇跡と言っていいだろう。
二発。
三発。
腕が壊れてもいい。
硝煙の香りが潮を混ざる。
心が、体が震えていることがわかる。
それでも、やっぱり、お前(純)に死んで欲しくないんだ――――――。
***
時は、清水純が、崩壊事件現場に立ち寄ったときに遡る。
十三年前、彼が二十五歳の時だった。
師匠である霧島火織。彼女の住居付近で突発的な災害が起きた。
所狭しと立ち並んだビル群が、突如として崩壊した。
そこには強大な魔力反応が検知されたので、一級エクソシストである清水純が派遣されたというわけだ。もっとも彼は師匠の事となれば、任務でなくとも駆け付けたとは思うが。
彼女とはすぐに出会うことができた。
だが、いつものような軽口は叩いていられなかった。
何故なら彼女は瓦礫の中に埋もれていたのだから。
足はつぶれており、肺もつぶれていて、ほとんど話すこともできない状態であった。
「…………純か?」
かすれた、か細い声で彼女は言った。
銀色の髪は、血で真っ赤に染め上げられている。
おかしい。『稀代の魔女』と言われた彼女だ。このぐらいの瓦礫、魔術で全身を強化すればどうということはないはず――――――。
「火織……どうして…………」
彼女は聡明だったから、恐らく俺の言い分も理解できたのだろう。
「私も………人の親だったってことかなあ…………」
彼女は涙を流す。
俺の前では決して見せたことのなかった涙だ。
「娘が……きっと――――泣いてはいないだろうな。私は彼女に酷いことをしてきたから……それでも私は、彼女に人間として生きてほしい――――」
娘がいるということは、聞いていた。
あまり話したくないという風だった。
こちらの世界に関わらせたくないの。
彼女はしきりにそうこぼしていた。
「お前――――目が見えていないのか――――?」
焦点が合わないと思っていた。
その美しい緋色の瞳の色が薄くなっていくようだった。
「そうみたい。だからね、最後に視てあげる――――貴方の未来を」
きっと、最後になるから、と付け加える彼女に、俺は声を荒げてしまう。
「そんなものはどうだっていい! そんなことよりも……」
彼女に降りかかった瓦礫の山を壊していく。
だが、恐らく十トンは軽く超えるだろうその残骸を壊しきるには、俺の魔力量が足りないということは火を見るよりも明らかだった。
「――――ハア、ハア―――」
体が重い。意識だって朦朧とする。
だけど、そんなことはどうだっていい。
彼女が死なないならば―――。
だが、
「純!」
懇願するように、彼女は、俺の脚をつかむ。
ああ、きっとこれで最後なのだ。
魔力がほとんど尽きたからなのか、それとも俺が諦めたからなのか。
俺は倒れこむようにして、火織の前に座り込む。
彼女は俺の頬に手を添え、額を合わせるようにする。
その手は震えていて、それでいて嫋やかで。
朱色に染まった手すらも、美しく思える。
「―――――ありがとう。聞いてくれて」
まるで、本当に――――
「ああ。だって俺は昔から聞き分けが良かったからな」
「嘘。誰よりも自己中なくせに」
まあ、私はそんな貴方だから、弟子にしようと思ったのだけれどね。
自分を大切にすることができる貴方だから。
そうこぼす彼女の目からは一筋の涙がこぼれる。
「ああ……やっぱりね………」
彼女は今、未来を見ている。
確定していない可能性の一部を見る。
それは彼女の緋色の瞳に宿ったチカラ。
彼女は額を合わせたまま涙を流し続ける。
温かいそれは、俺の頬にも伝って。
「…………貴方はきっと、私と違って良い親になるんでしょうね………だってこんなにも……あの子が笑っているもの……」
彼女の柔らかな銀色の声音は、慈愛に満ちていた。
それは紛れもなく親の声。
魔法使いでも、師匠でも、『稀代の魔女』なんかでもなく、ただの、人の親の声だった。
「………私に似て、面倒な女に育つと思うけれど………」
その手は次第に冷たくなっていて。
「………娘を、よろしくね……」
きっと、彼女はずっと先の未来を見たのだろう。そして、最後に、と言って、彼女は俺の左目に手を当てる。
「……きっと、役に立つから」
と、彼女は左目から赤い涙を流す。
左の眼球から感じるのは、火織の魔力。
そして、彼女は最後に笑った。
ありがとう。
声にならない声を発して。
頬を伝って、だらりと手が下ろされる。
彼女の顔は、安らかで。
まるで眠っているみたいだとはよく言ったもので。
今にも起きそうな、柔らかな表情をしている。
その冷たさが、否が応でも、彼女の死を突きつける。
涙が出ればいいと思った。
俺は、その冷たい魔女を抱えながら、その冷たさを一心に感じるだけ。
俺が悪魔でなくてよかった。
もしそうだったならば、俺は――――――。
浮上する意識の中、未来の可能性の一部を見た気がした。
そこには俺と怜と、そして―――――月影朔良がいる。
ああ、そうか。
髪の色も、目の色も違うんでわからなかった。
『………娘を、よろしくね……』
だけど、よく見ればそっくりじゃないか。
あの後助けた小さな少女に。
そして、『稀代の魔女』霧島火織に。
「まだ、死ぬわけにはいかないな」
川を挟んだ目の前に言るのは、銀色の髪をした、緋色の瞳の魔女だ。
俺が立ち止まるのを、嬉しそうに見ている。
「じゃあな、師匠。最後に、あの時、言えなかったことは山程あるけど……一つだけ」
川の向こう側にいる彼女に向かって。
「愛してるぜ―――――火織」
***
混濁する意識の中、銃撃音が鳴り響いた。
銃声は三発。教えてもないのに、命中させるなんて大したものだ。
見なくともわかる。識っているから。
この夜、この場所に、君下怜が来るということを。
銀色の銃を、震えた手で支える、彼が来ることを俺は識っていた。
小さいころから、不器用な優しさが温かかった。
だけど、それと同時に、俺に似て、危なっかしいところがあった。
だから、絶対に自分の職業は明かせるはずはなかったし、今回のような失態は、自分を責めるには十分すぎた。
今の俺は、君下怜で成り立っている。
生きる意味なんて、大層なことは言えない。
俺はあいつの両親を守れなかったのだから。
だけど、俺にできることは、一つだけだから、せめて―――――――――。
「お前を……祓わなきゃならない……!」
動けるはずはない。心臓を貫かれているのだから。
出血の量だって、遥かに致死量だ。
だが、彼を支えるのは、師匠の言葉と、その不器用な優しさだった。
なんて因果だ。と思う。
「怜、そっちは任せたぞ……!」
きっと、俺では、変わってしまった彼女の心を動かすことはできないだろう。
悪魔になる、とはそういうことだからだ。
彼は、怜を、逃がすために、自分の中の闇に手を突っ込む。
彼が怜に手をかざすと、突如、彼は闇にどっぷりとつかるようにして、姿を消す。
「純……そんな状態で――――」
戦えるわけがない?
確かにそうかもな。
「だがな―――――戦わなきゃならない時ってのが親にはあるんだよ」
君下怜は、闇に浸かるようにして、ここから消える。
「「――――死ぬなよ」」
それは互いを思う言葉。
そして重い言葉。
血が繋がっていないからなんだ。
それ以上に堅いモノで繋がっている―――
「全く、無理難題を言ってくれる……」
動けるはずはない。心臓を貫かれているのだから。
だが、俺の中に、何やら黒々とした魔力が渦巻いていることがわかる。
どこか懐かしいそれに身を委ねれば、こいつを―――――。
「お前……もしかして……」
ネアは、銃弾で吹き飛んだ顔面を抑えながら、睨みつけている。
「―――――俺はお前ら悪魔とは違う……本質の部分から、お前らみたいに汚れていないんだよ」
ネアの顔からは、とめどなく朱色が流れ出ている。
怜のやつ、俺があの銃を隠していたの、知ってやがった。後でこっぴどく叱っとかなきゃな。
あれは、師匠の唯一の形見だから。
まあ、あいつならいいか。
なんて、こんな状況だというのに、思わず笑みがこぼれてしまう。
「あいつも、成長してたんだな」
守られるだけではなくなっていた。彼は彼自身として、この地に足を踏み入れている。
淋しくもある。だけど、それを大きく上回る嬉しさを、ここに感じる。
―――――もう、俺の真似をするだけじゃなくなってたんだな。
俺なんかにどんな妄想を抱いているのかはわからない。
だけど、怜は、俺の中にある正義を疑うことはなかったし、それを頑なに信じていたと言っていいだろう。
「ああ、お前は、やっぱりこっち側の人間じゃないか。いや、人間と呼ぶのも可笑しいか」
ネアは、銃弾で打たれたところを抑えながら、嗤う。
「あの銃、銀色の弾丸か。どうりで再生してくれないわけだ」
とめどなく血は流れ出ている。
俺がさっき切りつけた傷の方はほとんど直っているらしかったが。
黒の外套を直す。
そして、胸に下がった十字架に手を添える。
瞳に感じる、緋色の鼓動を感じながら。
「最後に聞いておく―――――お前に残された道は二つだ。
一つは
――――――人間として生きるのか
もう一つは
――――――悪魔として俺に祓われるか」
日本刀を構える。
その朱色の悪魔は、心底下らないと吐き捨てるように、
「愚問だな」
と、其の杖を構える。
「承知した――――――では、実力行使とする」
刺し違えてでも、なんて格好いいことは言えない。
だけど、これが俺の全身全霊――――――。
眼帯を外す。
あれ以来、閉じていた目を開く。
瞳に、守りたかった女の意思を感じる。
緋色の瞳だ。目の前にいる悪魔よりはずっと濃い色。
彼女の視界で、仇をとらえる。
瞳は胎動し、今にも破裂しそうだ。
涙が流れる。彼女の最期のようで―――――
一歩先の未来を見る。
―――――道は確定した。
斬る(えがく)斬る(えがく)斬る(えがく)
この緋色の瞳は、魔力を多く使用する。
もちろん魔力量が絶大だった火織のものだから当然のことだ。
息が切れる。動悸が波打つ。きっと体が限界だと叫んでいるのだろう。
――――それがどうした。
それでも、あいつは俺の息子だ。
そして、彼女は火織の娘だ。
そして俺は─────火織の弟子だから。
あいつらのためなら、この眼、くれてやる────。
その時ふと、師匠の最期の顔を思い出していた。
ああ、俺はやっと、あの時のお前の気持ちが――――――――――。
ネアはその魔力を最大限使用し、紫紺の弾幕を錬成している。
彼女の背後には無数の紫水晶。
それが、後コンマ秒で襲ってくることを俺は識っている。
限界を超える。視界は血で染まる。
頭には鈍痛が走る。脳幹を直接殴られたような痛みだ。
今にも倒れこみたい。
そうできたならば、どんなに楽だろうと思う。
けれど、できない。してはいけない。
これは呪いの様なものだと思う。脅迫観念に似た―――――愛だ。
居合の状態で、俺は日本刀を構える。
後、「神速」が使えるのは一回だけだ。それ以上は魔力が足りない。
脚に力を籠める。
視える。視える。視える。
ネアの弾幕を抜けて、彼女に斬りかかる未来が。
緋色の道をなぞるように、蹴り出す。
「――――――――――――――――――ッッツァアア!!!!!!!」
右手以外には、感覚はいらない。
弾丸を受けても、痛みなんてとっくに感じない。
ただ、彼女の首元一閃。それだけがここで意味がある。
弾幕を抜け、その朱色の悪魔に―――――
「死にたくない」
彼女の声を聞いた気がした。
恐らく、ほとんど前世に近い記憶だろう。彼女が人間だった頃。
だけど、仕方がない。これは、俺のエゴなのだ。
ストンと、音もなく、ネアの頸を切り落とす。
紫の火花が散って。
緋色の道を描いて。
辺りには鮮血の雨。
「後は、お前次第だ────怜」
男は、自分の息子の未来を希う。




