3章
俺がタクシーを部屋の近くの煙草屋の前で降りると、彼もまた降りてきた。俺の後から降りてきた彼に訊くと、ここから家が近いんだと云った。
流石にそんな偶然はないだろうと思って訝しむ眼で見ると、彼もまた困ったように笑った。なんかそういう新手の強盗紛いじゃないかって俺が彼を疑ってるのをわかってる顔だった。
苦笑しながら彼はごそごそとパンツのケツポケの辺りをまさぐって、白々した蛍光灯に下に何かを差し出した。薄っぺらな白い小さな四角なそれには、「私立茄子ヶ丘学園中等部 校内管理技術者 笹井陽人」と、規則正しい字面で書かれていた。
差し出されたそれを恐る恐る手に取ると、儚い重さと彼の体温がほのかにあった。
「さ、俺の持ち手はこれで全部だよ。他に質問は?」
子供に言い聞かせるような口調が小馬鹿にされてるような気がしたけれど、ここでムキになると余計に大人気ないのは明らかだったから、「あるよ、質問。」と、こちらも応えるように子供のように軽く手を挙げた。
「どうぞ。」
「俺を送ってくつもり?」
「うん、一応。」
「別に女じゃないし、ここからなら5分ぐらいだし……」
「心配じゃなくって、タクシー代。俺さっき全部払ってたの、見てなかった?」
「あ……そっちか……」
我が身の保全ばっかり考えてるから、かかなくていい恥をかく羽目になる。昔からそうだ。用心深そうに見えて、実は抜けてるって言う。
真面目そうなのに、ぼんやりしてて掴みどころがない。何を考えてるのかわからなくて、群れるのが苦手で、孤立しがち。俺を形容する言葉を並べると大筋こんなもんだ。
ポツリと白い紙の上に垂らされた薄墨のような所在なさをいつも抱えてるからだろうか、なんなのか、ひとりいつもみんなから置いていかれている気分がするんだ。誰からも構われず、振り向かれない、寂しい、とは違う、ポツリとした気分。誰か他人といる時程それは強く感じた。だからなんとなく気付けばひとりだった。
その日だって、誘われて行った筈なのに、気付けば俺はひとり会場の隅にいた。もうそういう風になるのは慣れてしまっていたから、全然構わなかった。ああ、またかっていう感じだった。ひとり具合悪くなってひとり不愉快になって帰るだけだ、って。
なのに、この日は俺は知りあったばかりの男と連れ立って部屋にいた。
鍵を開けて、暗く闇に沈んでた空間に明かりをつけると、しんと冷えていた。
しかも、家を出る直前まで仕事をしていたせいで仕事部屋にしてる6畳の部屋のドアは開け放たれたままで、部屋のごみ溜めのような状態を曝している最悪な状況だった。
とても客なんて通せないんだけど、タクシー代を払わなきゃだから止むなく家にあげるしかなかった。だって、ただ金渡して、ハイ、さよならってワケにはいかないでしょ。一応、介抱もしてくれたんだしさ。お茶ぐらい出すのが礼儀かなって思ったんだ。
でも、内心彼が断るだろうって思ったのに………上がり込まれた。招いてしまったのは俺なんだから、今更拒むわけにもいかなかった。
仕方なしにダイニングの食卓にしてるテーブルの椅子に彼を座らせて、俺はお茶の支度に取りかかる。お湯が沸くまでの間の沈黙が、妙に密な気がした。さっきタクシーで感じた時よりもずっと近い、って。
椅子に子供のようにちょこんと座った彼は、物珍しそうに部屋を見渡していた。特に、開けっぱにしている仕事部屋へ通じるドアとその向こうには興味津津な様子だった。
「……きったない部屋だなーって思ってんでしょ?」
「や、俺んとこも似たようなもんだよー ねえ、あのさ、訊いてもいい?」
「なにを?」
「仕事、何してんの?」
「え…………えーっと……一応、物書き……」
「へー!……名前、訊いてもいい?ペンネームって言うのかな。」
俺はそういうこじゃれたものはなかったから、本名をそのまま告げた。
そう珍しくもない名前な筈なのに、口にした瞬間、彼の、アキくんの眼が大きく見開かれたんだ。思い掛けない何かとんでもなく素晴らしいものに遭遇したような、すごくキラキラした顔をして、そんでこう言ったんだ。
「あ、あのさ……もしかして、“青星ライナー“っての書いたヒト?」
「え、あ、うん……一応、そう、だけど……」
“青星ライナー”ってのは、俺の唯一の肩書みたいになってる新人賞を貰った作品名だ。
内容は片田舎の高校生の、まぁ、よくある恋愛小説のようなもんで、ただその想い人が同性って言う話。半分が実話で、半分が作り話なそれを、書き上げた当時大学4年の終わりだった俺は、一世一代の賭け事として投稿したんだ。これでダメならフツーに就活するしかないなぁって。
なのに、奇跡的に賞なんか頂いちゃって…………それで調子に乗ったんだってのも言える。これで食ってこうって思っちゃったんだから。
昔からぼんやりでぽつんとしていたから、一番のしあわせはひとり黙々と何かを書き綴っている時だった。
はじめはそれこそ大学ノートの端に、それがやがて父親のお古のパソコンになって。紙でも画面上でも、自分が築き上げた世界の中に没頭している瞬間はすごくすごく楽しかった。時間も食事も疲れも忘れるほどに。
好きで好きで仕方なかった事を仕事にできるのはしあわせなことだってよく言われる。本当にそう思ったし、思ってる。そんなところに立てる自分を誇らしくさえ思った。賞をもらえてそれは一層強く思った。
でも、思うだけでは何もならないことも、すぐに思い知ったんだけどね。
「俺、それ、すっごい好き!何回も読んだ!すっごい読んだ!」
その時も今みたくスランプ中で、アキくんの言葉はリアルにもらったかなり久々の生の声だった。賞をもらったばかりはそれこそ形だけの上辺のそういう言葉はいっぱいもらってたんだけどね。そういうのってなかなか触れることなんてないもんだから。俺みたく日陰に入ってしまうとなおさら。
唯一持ってる雑誌の連載小説の感想が何通か来る以外に読者からのリアクションなんて皆無な俺に、アキくんの言葉は、声は、表情は、神経や脳みそを直に触られたぐらいに大きなショックだった。まるで、俺のすべてを認めてくれたような、気がして。
それをきっかけにして、家も歳も近いってこともあって、アキくんは俺の家にしょっちゅう来るようになった。
お目当ては俺が作るご飯。初めてウチに遊びに来た時、ライブの時に介抱して付き添ってくれたお礼にって、ちょっと作って出してあげたらすっごい気に入ったらしくって、じゃあ……って、来るたびになんか作ってあげてたらそれが当たり前のようになってたんだ。
俺は物語を書いてくのともう一つ、子供のころから親が共働きだったのもあって、台所に立って手伝いをしたりするのが苦じゃなかったから、簡単な料理ぐらいは一応一通り作れるんだ。小説書くのに煮詰まった時にいい気分転換になるしね、案外。それにやっぱ料理って誰かと食べるのがおいしいし。
メシ代の代わりにって言って、アキくんは来るたびに酒とかお菓子とかを買ってきてくれた。時々、作業着のままで来て、風呂を借りてくことだってあった。そうなると風呂も洗っておくことになる。
俺はいつの間にか、アキくんの時間に合わせて一日を刻むようになっていた。買い出し行って、掃除して、ご飯作って、っていう。まるで健気な新妻みたいな生活サイクル。
傍から見るとちょっとおかしな日常。小説は進まないし、買いだしはチャリだから面倒で疲れはするのは事実でもあるんだけど…………だけど、あんまり嫌ではなかった。
なんで嫌じゃないのか、その理由はうすぼんやり解っているようでわからなくて、はっきりさせたいようなそうしてしまうのは怖いような、なんとも曖昧な気分を抱えたまま、今日も俺はアキくんの帰りを待つように家の中を整える。