16
アナスタシアが衝動を抑えてルリアーナとルカリオを部屋に通した後、ルリアーナを案内してきたメイドが気を利かせて持ってきてくれた紅茶を飲みながらアナスタシアへの説得が始まった。
「まず先に言わせてほしいのだけど」
ルリアーナは何から言うべきか迷いつつ、先に大前提となることを言っておこうと頭を整理しながら口を開く。
「リーネちゃんを王妃にするのは無理よ」
話をアナスタシアとガイラスに絞って話すためにまず余計な可能性を排除させるため、リーネは当てにできないと断言しておく。
もちろんそれは『ガイラスがリーネを友人としか思っていないから』ということもあるし『アナスタシアのことを愛しているから』というのもあるのだが、
「ゲームエンドを迎えているはずのリーネちゃんが今日一緒に来たのがガイラス様ではなくフージャ君である意味、アナスタシアちゃんならわかるはずよね?」
リーネが選んだエンドが海賊エンドである可能性があるからだ。
本人に確認したわけではないからあくまで『可能性』としか言えないが、それでもそういうことだろうとは察せられる。
「え?……えっ!?あっ、ええええっ!?そ、そうなんですか!?」
だがその可能性を微塵も考えていなかったアナスタシアにとってそれは寝耳に水とも言うべき事実で、彼女は「え、そんなことある?え、だって、……えぇ?」と受け入れ難いようだ。
「例え違っていたとしても、ガイラス様が手元に置いていない時点でそのルートを選ばなかったことは確実よ」
しかしルリアーナはそこだけは譲らないと強く言う。
アナスタシアを説得するための材料としてここが一番大事だからだ。
「ガイラス様もリーネちゃんとは友人だとはっきり仰っていたしね」
さらにダメ押しとばかりにそう付け加えれば、アナスタシアは観念したように俯いた。
少なくともガイラスにその気はないと示されてしまえば、心情はどうあれ納得するしかない。
「そうですか…」
逃げられない。
この時アナスタシアの脳裏に浮かんだ言葉はそれだった。
何故そう思ったのかはわからないが、その言葉以外何も浮かばなかった。
「それにリーネちゃんも言っていたけれど、ガイラス様が妃にと望んでいる相手は貴女よ」
「…っ」
続くルリアーナの言葉がアナスタシアの肩に圧し掛かる。
重くて痛くて、アナスタシアは蹲ってしまいそうだった。
「でも、貴女が本当に、心の底から無理だと言うのなら…諦めるわ」
「…え?」
「だから貴女の正直な気持ちを聞かせてほしいの」
けれどルリアーナは圧を掛けるだけではなくて、ちゃんとその重りを降ろす場所を用意してくれた。
逃げたいなら逃げていいと言ってくれた。
だからだろうか。
アナスタシアは無意識に言葉を紡いでいた。
「諦めたくない」
言った後、すぐにハッとした。
自分の声で聞こえた言葉に驚いて、意味を理解して目を見開く。
そして気がついた。
逃げられないのは、自分の気持ちからだと。
「私を見てほしい、私に気づいてほしい、今度こそ、ちゃんと」
アナスタシアは自身で両腕を掻き抱く。
言葉を紡ぐたびに怯えて震える自分を守るように。
言いたいことを言うために心を支えるように。
「……私の記憶が戻ったのは15歳の時でした。その時すでに私とガイラス様は出会っていて、その時の私はアナスタシアの意識が強くて彼に興味がなかった。だから婚約を破棄したいと言われてもすぐに了承できました。でも、卒業と同時に領地に引っ込んでから、私の考えは変わりました」
アナスタシアは何かに耐えるようにぐっと指先に力を入れる。
「落ち着いた環境で色んなことを思い出して、前世と現世の記憶を整理して、『私』という人間の考えがまとまって、私は後悔しました」
はーっ、と深く息を吐く。
「……私、君となの世界だって気づいてはいなかったけど、この世界が乙女ゲームみたいだとは思っていて、リーネさんが現れた時はヒロインがやって来たと思ったんです。ガイラス様みたいな、いかにも攻略対象者っていう感じの人たちが生徒会に集まっていて、それが皆リーネさんと親しくなっていたから余計にそう思い込んでいて。この先私がどうしたところでガイラス様はリーネさんを好きになって婚約破棄をしてくるんじゃないかって、ならさっさと破棄してくれればいいのにと思ってさえいました。だから卒業式の日にそう言われた時は『やっとか』って思ったんです」
今度は大きく吸って、また吐き出す。
「私はすぐにそれを受け入れて、自由になったんだって、乙女ゲームのしがらみから抜け出せたんだって喜びました。でも、今になってみれば、多分それは強がりで、本当はすごく悲しくて、淋しかったんです。婚約者に顧みてもらえないことが、愛してもらえなかったことが」
アナスタシアはそこで言葉を切り、ぐっと唇を噛み締めると、
「だって、私は今まで誰にも愛してもらったことがないんです。前世でも、今世でも。だから、愛され方も愛し方もわからない」
そう言いながら顔を上げてぼろりと大粒の涙を零した。
今まで偽るために被っていた多くの仮面が、その涙と共に剥がれていく。
「私なんかを、本気で好きになってくれる人なんて、きっとこの世のどこにもいないの…」
そうして零された言葉に、それが彼女の自己評価が低い理由なのだとルリアーナは理解した。
誰にも愛されないというのは、必要ないと言われているのと同義で。
どんなに頑張っても『駒』以上にはなれないのだと、幼い日のアナスタシアは聡明な頭脳で悟ってしまった。
その結果、『ならば自分も愛さない』と考えてしまったのは自己防衛だったのだろう。
そしてその意識は記憶が戻った後も彼女に残り続けた。
それが『アナスタシア』の思いの中で一番強いものだったから。
「それに、理由はどうあれ私は前世で人を殺した人間なんです。そんな人間が生まれ変わったからって、何もなかったみたいに誰かに愛してもらおうなんて、虫が良すぎる…」
全てを諦めたように笑おうとして失敗した苦すぎる歪な笑みで、涙に濡れるその目は息もできないほど苦しい中で助けを求めている人のもののように見えて、ルリアーナは咄嗟に彼女を抱きしめる。
宣言通り『泣くなら自分の胸で』などと考える間もなく、身体が勝手に動いていたのだ。
ルリアーナは幼い心を傷つけられてボロボロに疲弊しきってしまった『アナスタシア』を愛してあげたいと思ったし、前世の罪を引き摺っている『柳井美紀子』を許してあげたいと思った。
「なあ」
しばらくアナスタシアの泣き声だけが聞こえていた部屋で、それまで黙って話を聞いていたルカリオが口を開く。
「人を殺すのって、そんなにダメなことなのか?」
「……は」
思いもかけない、当たり前すぎるその言葉にアナスタシアは涙どころか呼吸すら止めてルカリオを見た。
言葉は何も出てこなかったが、自分の意見は表情を見ればわかるだろうと思っていた通り、ルカリオは彼女の顔を見て彼女が言いたいことがわかったようだ。
「そっか。なら俺は、これから幸せになることはないんだな」
だがそれに対しルカリオが言った言葉で、それが『ルカリオ』に対してどういう意味を持つのかに気がつく。
今はルリアーナの護衛をしているが、彼の正体が『金影』と呼ばれる暗殺者であると聞いたのはついさっきだ。
そんな印象的過ぎるプロフィールを忘れるには早すぎるが、自分の心が追い付いておらず失念していたのだ。
「俺は今まで数えきれないくらいの人間を殺した。って言っても暗殺を始めたのは13の時だから、どんなに多くても200人は超えないくらいだと思うけど」
ルカリオはそれが悪いことだとも思っていないように淡々と事実としてそれを語る。
視線は窓の外にあるが、きっと見ているのは今まで自分が殺した人間の顔だろう。
「でも俺は生きるための、恩返しをするための方法をそれしか知らなかったから、それが間違っているとも思ってないし、悪いことだとも思ってなかった。殺される奴には殺されるなりの理由があったし、俺が殺した奴に善人は1人もいなかったしさ」
視線を室内に戻し、ルカリオはアナスタシアを見る。
「アンタが殺した人間も碌な奴じゃなかったんだろ?しかもアンタが殺ったのはその1人だけだ。なのにそのアンタがそれだけで幸せになれないって言うなら、俺はどうなる?」
彼の目はどこまでも静かで、アナスタシアを責める色も怒りの色もない。
むしろ透き通って透明で、何も知らない赤子のように澄んでいた。
「俺はこの先、一生幸せになんかなれないのか?」
「それ…、は……」
アナスタシアはルカリオの言葉に答えられない。
何故彼が暗殺者をしているのか知らないし、幸せになる資格がないかどうかもわからないからだ。
彼と自分の差異がわからなかった、というのもあるかもしれない。
どちらにしろ彼も自分も、『人殺し』という括りでは一緒なのだから。
「でも、俺は幸せになるよ」
けれどアナスタシアの逡巡を吹き飛ばすようにルカリオは笑った。
心から嬉しそうに、幸せそうに。
「だって俺は姫さんを見つけたから」
「え?」
ルカリオは視線をルリアーナに移す。
つられて目の前にある麗人の顔を見れば、件の人物は「え?私?」ときょとんとした顔をしていた。
「俺はこれから姫さんのためだけに生きる。それが今の俺の一番の望みだし、姫さんは俺がどういう人間かを知りながら俺を受け入れてくれた。だから幸せになるって言うか、もうそれだけで幸せなんだ」
ルカリオはわかっていないという顔をしているルリアーナを見てさらに笑い、彼女の髪を一房掬う。
「人の考え方はそれぞれだし、人の幸せもそれぞれだと思う。俺は悪人を殺すことを悪いことだとは思っていないし、この幸せを手放す気もない。……アンタもさ、もうちょい気楽に考えてみれば?」
髪の一本ですら愛おしいと言うようにそれを眺めながらルカリオが言った言葉は、アナスタシアにとっては都合が良くて無責任に聞こえて。
でも、そうしていいのだと誰かに言ってほしかった言葉だった。
「何かしたから幸せになっちゃいけないなんて、誰が決めたんだ?」
そんなの、自分が勝手に決めた足枷だろ?
ルカリオのその言葉はアナスタシアの、『柳井美紀子』の心を最後まで縛っていた鎖を粉々に破壊した。
読了ありがとうございました。
ようやくアナスタシアと美紀子に少しだけ救いをあげられました。
この物語で一番辛いのは美波だと思いますが、それと同じくらいこの子たちも辛い思いをしてきているので、今後幸せにしてあげたいなぁと思うのです。




