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カロンが攻略対象者たち6人を侍らせるようになってからそろそろ1年半が経とうという頃。
つまり、あと半年で卒業という頃。
とうとうカロンがルートエンドに向けて本格的に動き始めたらしい。
「なんだと!?しらばっくれる気か!!」
ある日の放課後、3年生の教室が並ぶ廊下の端で男性の怒号が上がった。
なにやら怒り心頭、怒髪天を衝くといった雰囲気を醸している。
「しらばっくれてなどおりませんわ!本当に知らないのです!!」
それに負けじと言い返す女性の声もまた廊下に高く響いた。
通行人は貴族の学園に似つかわしくない2人の大声に驚きつつ「なんだなんだ」と立ち止まっては様子を窺い出したため、狭くない廊下の一角にあっという間に小さな人だかりができる。
そこへ偶然通りかかったルリアーナは、聞き覚えのありすぎる両者の声に眩暈を起こしそうになった。
「嘘を吐くな!カロンはお前を見たと言っていたぞ!?」
そう言って女性に詰め寄ったのは、つい1年前まで女誑しと言われながらも婚約者に対しては誠実な姿を見せていたアシュレイ。
「嘘吐きですって…!」
彼の言葉に眦を吊り上げて扇を握り潰さんばかりに手に持って肩を怒らせているのは、その婚約者であるサーシャだった。
彼女は大きく息を吸うと扇をびしっとアシュレイにつきつけ、
「よくもそんなことが言えたものですわ!!生涯なにがあろうと私だけを愛するなどと嘯きながら、今では平然と別の女性に愛を囁くような男性が!!」
と、観衆にも聞こえるような大きな声で彼を糾弾した。
当然ながら集まっていた人たちはそれが何を指してのことか理解していたので、辺りにはサーシャへ肩入れするような空気が流れる。
それを敏感に感じ取ったアシュレイは流石にたじろいで「それは…」と口ごもったが、彼女はその隙に「失礼しますわ!」と言って返事も待たずに踵を返した。
その場を立ち去るサーシャの去り際は、楚々とした歩みながら何故かズンズンという効果音がつきそうなものに見える。
一方のアシュレイは気まずげであり、いつもの堂々とした色男が鳴りを潜めていた。
ルリアーナはそこまで見届けて、どうやら無事に問題は片付いたようだと息を吐き、その場を離れようとする。
アシュレイを強く糾弾していたものの、サーシャが激昂しながらも概ね自分が伝えた通りの対応をしてくれていたことに胸を撫で下ろしながら。
ゲームの終盤というここでなにか問題を起こされてしまうのではとハラハラしたが、耐えてくれたサーシャには感謝したい。
そんなサーシャが詰られるのは確か、昼休み中にカロンの筆箱がなくなり、放課後攻略対象者たちと探すと中庭の噴水の中に捨てられているのが見つかる、というイベントでのことだったはずだ。
筆箱を見つけるのはその時好感度が最も高いキャラクターであり、そのまま行けばそのキャラクターとエンドルートを迎えるとされているが、このゲームは意図的に下げない限り黙っていても好感度が上がり続けるヌルゲー(難易度が生温くて簡単すぎるゲームのこと)なので、どのキャラになるかはほぼランダムと言っていい。
先ほどアシュレイがサーシャに詰め寄っていたということは、アシュレイが筆箱を見つけた、つまり最も好感度が高いキャラクターということだろうか。
ただこのイベントでは誰が筆箱を見つけても「そういえば、昼休みにここにサーシャ様がいたのを見ました」というカロンの証言で犯人は『ルリアーナに指示されたサーシャだ』ということになる。
ルリアーナに転生した今となってはその流れに「なんでやねん」とツッコミを入れたいが、これまた言っても仕方のないことであるので、不満をぐっと飲み込んだ。
騒ぎの中心の1人だったサーシャがいなくなったために散り始めた観衆に倣って、ルリアーナも考え事のために止めていた足を一歩進める。
今回自身は全く関係ないとはいえ、今思い返していたゲームの設定を考えればここに長居するのは得策ではないだろうと感じたからだ。
「待て」
しかしすでに遅かったようで、聞き覚えのある声がルリアーナの背後から聞こえてきた。
人を呼び止めるようなその声に一瞬ルリアーナは足を止めようとしたが、果たして今「待て」と言われたのは自分だったのだろうかと考え、自分の名前も呼ばれていないのにそう思うのは自意識過剰だなと結論を出したためにそのまま歩を進めることにした。
考えた時間は1秒にも満たなかったので、結果としてルリアーナは声を無視して素通りした形になる。
第一、例え無視していたとしても公爵令嬢たるルリアーナには咎められる謂れなどない。
「待てと言っている。聞こえているだろう」
相手が声の主である第一王子でなければ、だが。
ルリアーナはまたも名前を呼ばれていなかったので、それを言い訳に先ほどと同じようにしようかとも考えたが、それはそれで面倒だと思い、諦めて声の方へ振り向いた。
「これは殿下。ご機嫌麗しく」
そして何事もなかったかのようににっこりと笑って見せる。
その他大勢であればそれで全て片が付くのだが、王子はそれで誤魔化されてはくれなかった。
「ふん。無視しようとしていたくせに、白々しい」
不機嫌に鼻を鳴らし、王子は腕を組んでルリアーナを見下ろす。
カロンに誑かされて以来すっかり頭が弱くなったと評判だったが、小馬鹿にされていたことは伝わっていたようだ。
「あら、私「待て」と言われて、それが自分に掛けられた言葉だと思うほど自意識過剰ではございませんわ?」
だがルリアーナは王子の視線にも態度にも何の痛痒も感じないまま先ほど考えていた、丁度今のような場合に使えそうな言い訳を「ほほほ」という控えめな笑いと共に吐き出す。
しかし予め用意されていたとしか思えないその台詞に、言われた方の王子は手玉に取られたように思えてきてさらに不機嫌になった。
「…まあいい」
けれどこのままではまんまとルリアーナのペースに嵌められてしまう。
そう感じた王子は気を紛らわすように一度頭を振ってから本題に入った。
「先ほどカロンの筆箱が中庭の噴水から見つかった」
誰が発見したかを言わなかった役立たず王子は、そう言うとギロリとルリアーナを睨みつけ、
「お前の指示か?」
と馬鹿正直に真っ向から問いかけてきた。
もしそうだったとしても、そう言われて「はい、そうです」なんて答える人間はいないだろうに。
「意味がわかりませんわ」
だからルリアーナも大半の人間と同じく肯定を返さなかった。
ただし、大半の人間と同じように「いいえ」とも返さなかったが。
「フラウ様の筆箱が噴水に落ちていたことと私が、一体どう繋がるというのでしょうか?」
ルリアーナは全く道筋の立てられていない脈絡のない質問に対して答えなど持っていない。
口には出さなかったがそんな思いを忍ばせながら王子に質問の意味を問い返した。
「…今日の昼休み、カロンが筆箱がなくなっていたから筆記用具を貸してほしいと言いに来てな。そのままでは不便だろうと放課後みんなで探していたんだ。そして中庭の噴水を通りかかった時、カロンが昼休みにウィスタ嬢がここに立っているのを見たと言って、もしかしたらと噴水を覗いてみたら筆箱が沈んでいたから、お前が嫌がらせのために彼女にカロンの筆箱を盗んで噴水に捨てるように指示したのではないか、と」
王子はルリアーナの言いたかったことを理解したのか、それとも自分の理路整然とした説明を聞けばルリアーナが罪を認めるとでも思ったのか、先ほどルリアーナが思い出したイベントの内容をそのまま語った。
「ご説明感謝いたしますわ」
ルリアーナは不要過ぎるほど懇切丁寧な説明をした王子に謝意を述べる。
その際「予想はしていましたけど」という言葉はお辞儀と共に胸の内に隠した。
「ですがやはり意味がわかりませんわ。何故そこで私が出てくるのでしょう?サーシャさんがフラウ様の筆箱を持っている姿を見たわけでもなさそうですし、百万歩ほど譲ってサーシャさんが筆箱を噴水に捨てたのだとしても、何故私がそんな指示を出したと?」
ルリアーナは言い争っているようには見えないよう注意をしながら言葉を紡ぐ。
自分たちは円満に婚約破棄をしたのだから争う理由などないと周囲に知らしめるように。
全く笑いたくなどなかったが、その顔には絵に描いたような美しい微笑が刷かれていた。
「私には彼女に嫌がらせをする理由などありませんわ」
ルリアーナはそのことを強調するように殊更にっこり笑うと、そう言って王子の問いへの答えとした。
しかしここで「そうか」と納得して終わるなら、端からこの王子は声など掛けない。
「そうは思えないがな」
言葉通り疑惑を多分に含んだ目でルリアーナを見ながら、彼は再び「ふん」と鼻を鳴らして目を眇める。
それは確信を持っている人間の目だった。
「王太子妃の座はお前の悲願だっただろう?」
そして絶対の自信を滲ませてその言葉を発した。
図星だろう、言い訳できないだろう、と。
それが墓穴とも知らずに。
「…王太子妃の座になど、興味ありませんでしたわ」
ルリアーナは懐から扇を取り出し、パシリと手に打ちつけるとにっこり笑ったまま首を傾げる。
「陛下に望まれたからその座にあろうとしただけで、面倒でしかないその地位には何の魅力も感じておりません。それに、もしその件で復讐するとしたらフラウ様にではなく、お心を変えられた殿下にこそいたしますわ」
手に打ちつけられた扇が握り込まれ、みしりと音を立てる。
奇しくも先ほどのサーシャと同じ体勢だ。
「また、例えその矛先をフラウ様に向けたとして、筆箱を噴水に投げ込むだけなんて子供じみた程度の低い嫌がらせなどいたしません。私が指示をしたのなら、見せしめのように文具類を彼女の机に突き刺すか、一度奪って後ほどそっと机に戻し、勘違いして騒ぎ立てた愚か者として嘲笑うかのどちらかにいたします」
ルリアーナは言いながら深すぎるほどに笑みを深め、しかし全く笑っていない目で王子を見つめた。
瞳孔が開き切っているかのように、美しいはずの翡翠の瞳は黒一色に塗り潰されている。
「というわけで、今回の件に私は無関係です。おわかりいただけました?」
みしみしみし、という扇が軋む音が王子の耳にも届き始めた。
王子は音と共に背にたらりと冷や汗が流れるのを感じる。
「あ、ああ…」
今はこれ以上ルリアーナを刺激してはいけない。
墓穴を掘りながらも本能でそれを感じ取った王子は、今回は潔く負けを認めることにした。
彼は辛くも命を繋いだのだ。
「それはようございました。では、御前失礼いたします」
ルリアーナはようやく己の過ちを認めた王子に今度はちゃんとした笑みを向け、一礼するとその場を立ち去るために再び歩き始めた。
「……それにしても」
好感度が最も高い攻略対象者が見つけるはずの筆箱をカロンが見つけたという事実が、ルリアーナの歩みを重くさせる。
「……まさか、…いえ、そんな…」
ルリアーナはそのことにある可能性を感じたが、そんなことはあるわけがないとその可能性を振り払う。
カロンも転生者であるなど、そんなことがあるわけがない、と。
読了ありがとうございました。