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「じゃあ王太子殿下の件もこのくらいにして、最後ね」
握り拳を収めて返書に視線を戻したルリアーナの話題と空気を変えるその声に、イザベルの心臓がドクンと大きな音を立てる。
残るは公爵家からの返答のみ。
それには何と書かれているのだろうかとイザベルの顔いっぱいに不安が広がっていた。
「えーと、『確かに我が家にはそのような娘がおり、この3ヶ月間ずっと探しているがいまだ見つかってはいない。もし本当にそれがイザベルなのだとしたら家に帰したいので、どうか直接確認させてほしい』だそうよ」
「……っ」
その言葉を聞いたイザベルは息を呑むばかりで言葉は何も言えなかった。
ルリアーナが読み上げた言葉を聞いた後からどんどん零れてくる涙が彼女の言葉を奪っていた。
「よかったですね、イザベル様。お父様はちゃんとイザベル様を心配して探していらっしゃったんですよ」
そう言ってアデルが優しく抱きしめると、彼女の涙はますます酷くなった。
信じられないと思ったのだ。
公爵である父が家名に泥を塗ったにも等しい自分を心配して探してくれていただなんて。
「どうやら公爵様は貴女が国境の町から王都まで移動しているとは思っていなかったらしいわ。ここはどちらかといえばクローヴィア寄りだから、探し出せなかったのも無理もないわね」
ルリアーナは返書を捲ってそう付け加えた。
イザベルは『そういえばまだお金があった頃に思い切って馬車に乗って王都に来たから、私がお金を持っていないと知っていた父はこんなに離れたところまで移動する手段があると思っていなかったのかもしれない』と思い至る。
だから今まで公爵家に関係のある人と出会わなかっただけなのだと思えば、父の言葉を疑う必要はない。
そう思うだけで、心の中でずっと「探してもらえなかったんだ」と悲しんでいたイザベルが溶けて消えた。
「ふふ、実はこの手紙ね、貴女のお父様が持ってきてくださったのよ」
「……ぅえ?」
イザベルが言葉の意味を掴みあぐねてアデルの胸から顔を上げると、ルリアーナは楽しそうに笑っていた。
ふりふりと紙の束を振る彼女の言葉を自分はまだ理解していない。
その手紙を、父がここへ持ってきた?
つまり今、父はここにいるということなのだろうか?
徐々に理解し始めた言葉は、先ほど以上に信じられないものだった。
「というわけでご登場いただきましょう。バートランド公爵でーす」
ルリアーナはにんまり笑ってそう言うと、バンッと大きな音を立てて部屋の扉を開けた。
「え、えええ!?」
イザベルは状況を理解できないままあまりにも突然のことに驚いて思わず奇声を上げる。
同時に『もしルリアーナ様の仰った通り本当にここに父がいれば「公爵令嬢にあるまじき」と叱られていたかもしれない』と考えてしまい、自分が彼女の言葉を信じたいのだと痛感した。
しかし今回の言葉は冗談だったのだろう。
扉の向こうには誰一人立っていなかった。
「……あれ?」
イザベルが「びっくりした…」と胸を撫で下ろしながらも内心で酷く落胆していると、ルリアーナがきょろきょろと扉の外を見回す。
そして誰かを見つけたらしく、大きく手を上げた。
「ヴァルト様~、ここにハーティアの公爵様がいらっしゃったと思うのですけれど、知りませんか~?」
そう言いながらルリアーナは途中で廊下へ出て行き、声がどんどん遠くなる。
その言葉はまるで先ほどの言葉が冗談ではなく本当だったというようなもので、イザベルはまた混乱した。
冗談ではなかったとすれば、本当に父は今ここにいる…?
もう何を信じていいのかわからなくなり、イザベルは目を回しそうだ。
するとその混乱に答えを齎す声が徐々に近づいてくる。
「今あちらでライカと話しているよ。オスカーの身に何が起きたのか、実体験で語り中」
それは穏やかながらもはきはきとした聞き心地のよい声で、何度か聞いたことがあるルリアーナの夫であるこの国の王太子ヴァルトのものだった。
ちなみに現在この城には王太子が2人いるため、アデルはもちろんイザベルも区別をつけるために名前で呼ぶ許可をもらっている。
「そうでしたの。せっかくいいタイミングでドアを開けたのに誰もいらっしゃらないから、私ハズしてしまいましたわ」
ルリアーナはそういうことなら仕方ないと納得しつつも自分の演出が上手くいかなかったことが少し不満なようで、廊下からポカポカと何かを、恐らくはヴァルトの胸を叩く音が聞こえる。
いくら奥様と言えどそれは拙いのでは、とイザベルが思っていれば、
「ごめんね。でも、そんなリアも可愛いよ」
というヴァルトの声と「きゃっ」というルリアーナの小さな声が聞こえ、叩く音が聞こえなくなった。
その瞬間何かが通じ合ったアデルと目が合うが、『何があったのかは詮索しないでおこう』と頷き合うにとどめた。
下手に邪魔をしてヴァルトに睨まれたくはない。
「…君たち、こんなところでいちゃついてる場合じゃないでしょう」
ややして、そこにまた別の誰かの呆れ混じりの声が加わった。
それは耳触りのいい落ち着いた優しい声で、イザベルはすぐにあの日瀕死の自分を助け出してくれた人の声だとわかった。
「ライカ様の声だわ」
隣にいるアデルの嬉しそうな言葉がイザベルの直感を肯定する。
ヴァルトとルリアーナに劣らず、こちらもまた仲がいい。
この2組は本当に相思相愛で、イザベルは見かける度に自分とオスカーの関係が如何に希薄であったかを思い知らされる。
これではシャーリーに奪われてしまっていなくても、いずれどこかで破綻していたかもしれない。
だからきっと、これでよかったのだ。
何故か今になってそれがすとんと胸に落ちた。
「お客様も来ているんだし、早く会わせてあげないと」
すっきりした気持ちでいると、気遣いを見せるライカがそう言いながらこちらに近づいてくる。
先ほどヴァルトが公爵はライカと共にいると言っていたのだから、彼がここにいるということはつまり、公爵もここにいるということだ。
一度収まったイザベルの動悸がまた復活する。
ドクドクと激しくなっていくそれに、『待ってほしい』と『早くしてほしい』という相反する言葉が脳裏を巡る。
けれどそんなイザベルの心の葛藤など誰にも伝わらず、とうとう部屋の中にいるイザベルからライカの姿が見えた。
「バートランド嬢、お待たせしてごめんね。お父上が迎えに来てくださったよ」
少しも悪くないのに謝罪を述べるライカは、困ったようにも見える笑顔でイザベルに優しく声を掛ける。
その気遣いに「いえ」と答えようとしたイザベルは、その後ろに見えた3ヶ月ぶりに見るやつれた父の姿を見て声を失った。
「…イザベル?」
一方の彼はソファに腰かけていたみすぼらしく痩せた女性が誰か一瞬わからなかったのだろう。
娘を語る詐欺ではと疑うように恐る恐る娘の名前を呼んだ。
「…お父様」
しかしイザベルが立ち上がり、小さな声で父を呼んだ瞬間、
「!!間違いない、この子は我が娘のイザベルです!!」
そう言ってライカの後ろから出てきて、かつての面影もないほど痩せてしまった彼女を力いっぱい抱きしめた。
「イザベル、よかった、無事だったのか」
ぎゅうっと回された父の腕は小さく震えており、最後に抱きしめられた時よりも細くなって胸も少し薄くなったようだとイザベルは感じた。
「…お父様、随分お痩せになられましたね……」
それほどまでに自分を案じてくれていたのだと思うと、申し訳なさと嬉しさが込み上げてくる。
この人は家名に泥を塗ったこんな不出来な自分を見捨てないでいてくれた。
それが何よりも救いとなり、父を少しでも労わりたいとイザベルからも抱きしめ返せば、
「…なに、お前ほどではないよ」
父の安堵と疲労に満ちた頼りない声が彼女の耳に届いた。
イザベルは誇り高く厳格な父のそんな声を初めて聞いた。
読了ありがとうございました。