魔王の名前
本編が終わったばかりですが番外編です。
カナンが生まれてから1ヶ月。
ようやく子育てに専念できるようになったルリアーナはこの日、突然の無茶ぶりに言葉を失いかけた。
「……名前がほしい?」
「うん」
すくすくと成長する赤子の頬をぷにぷにと突きながらそう言ったのは、この世界で魔王となるべく誕生した少年で、彼はカナンが眠るベビーベッドの柵に肘と頭を乗せてルリアーナを見上げながら「だってね?」と不服そうに続きを話し始めた。
「この世界を滅ぼす必要はないから僕はもう魔王じゃないってルリアーナ様は言ったでしょ?なのにいつまでも皆が僕のことを魔王って呼ぶのは名前がないせいじゃないかって思ったの」
「なるほど…」
魔王の言い分は納得できるものがあり、ルリアーナは彼の訴えに頷く。
だがしかし、そういえば彼には名前があったのではと思い出してそのことを訊ねてみた。
「でも貴方、カレージ・クレッセンという名前があったのではない?」
魔王の言う通り誰もその名前で彼のことを呼びはしないが、彼の肉体に宿っていた神狩はその名前を使っていた。
意識は神狩のものだった上にその時に一度死んでおり、復活する際には肉体自体も作り替えてしまったが、それでもその肉体の名前はクレッセンだったのではないか。
ルリアーナがそう言うと「違うよ」と魔王は頬を膨らませる。
「あれは神狩が適当に名乗っていた名前なの。僕は『魔王』っていう称号でしか呼ばれることのなかったはずの存在だから、名前を持っていないんだ」
彼は不服そうに恐らくアカシックレコードから得たのであろう自身の名前についての情報を語った。
確かに魔王は彼しかいないのだから、「魔王」と言えば彼のことだとわかる。
けれどそれ故に彼には個を示す名前がないらしい。
「そうなのね。それで、名前がほしいということだけれど、具体的にはどうしたいのかしら?」
ルリアーナは再び頷くと、今度は魔王に希望を訊ねる。
「こう名乗りたい」と思う名前があるのならば今後そのように彼を呼ぶし、「どんな名前にしたらいいのか」と相談されたのならば何かしらのアドバイスをしようと考えていた。
しかし、魔王の意見はそのどれでもなく。
「うん、ルリアーナ様に名前を付けてもらいたいんだ」
貴女は僕の、初めてのお友達だから。
「……そう」
照れたように「えへへ」とはにかみながらこんなことを言う少年のお願いを断れる人間がいるなら見てみたいとルリアーナは現実逃避気味に思った。
「うーん…」
魔王に名前を付けてほしいと言われてから早3日。
いまだにルリアーナは彼の名前を決められないでいた。
「なんだ、姫さんまだ悩んでんのか」
唸りながら頭を抱えるルリアーナを見て、たまたまお茶菓子をせびりに来ていたルカリオはため息を吐いた。
「適当に、とまでは言わねーけどさ、幾つか案を出してあいつ自身に好きなの選ばせりゃいいじゃん?」
テーブルに置いてあった焼き菓子をひょいぱくひょいぱくと摘まみながら、ルカリオは何でもないことのように言う。
けれどそんなに簡単に済むのならルリアーナはここまで悩まない。
「そうもいかないのよ…」
煙が出そうだと思うほどに捻った頭を抱えたまま顔を上げたルリアーナは困ったように笑った。
「実情がどうであれあの子は間違いなく魔王で、そして私は王太子妃なの。互いの立場を考えれば、ここで私が与えた名前はきっと後世まで語り継がれることになるわ。だから下手な名前を付けると後世の魔王の恥となってしまうかもしれないの」
自分の立場も魔王の立場も、どちらも酷く目立つものだ。
王太子妃である自分の名は間違いなく王国史には残ってしまうし、魔王などは民衆向けの逸話としても語り継がれていくだろう。
それは王国史などよりもよほど人々の中に残るはずだ。
「それは…」
考え過ぎではないか、と一瞬ルカリオは思った。
しかし自分のことである『金影』の話は引退して3年が経った今もなお聞こえてくる。
そのことを考えればルリアーナの心配は杞憂とは言えないかもしれない。
「それにね」
ルリアーナほどではないが少し難しい顔で腕を組んだルカリオにルリアーナは気恥ずかし気な目を向けると、
「私からの初めてのプレゼントだから、できる限りいいものをあげたいのよ」
と言いながら笑ったので、ちょっと、いやかなり魔王に嫉妬した。
それからさらに2日間、ルリアーナは迷いに迷った。
そしてある昼下がり。
「よし!もうこれ以上は浮かばないわ!!」
考えられるだけ考えて出した結論を引っ提げて魔王の元へと向かった。
食後の散歩にと庭園を歩いていた魔王を見つけたルリアーナは早速彼に名前を告げた。
「……シエル?」
「そう。空とか、天という意味なんだけど」
彼は聞きなれない単語に驚いたのか、単語を繰り返した後はポカンと口を開けてルリアーナを見ている。
だからその意味を伝えたのだが、それでも少し瞳孔が大きくなっただけで魔王の表情は動かなかった。
「えっと…、気に入らなかった、かしら?」
ならばその表情の理由は気に入らなかったからかとルリアーナは問うた。
いくら悩んで決めたものとは言え、気に入らない名前を押し付けたくはないので嫌なら嫌とはっきり言ってほしい。
自分としては5日間悩みに悩んで前世の知識まで動員して考えた名前だったのだが、こちらの知識しかない魔王にとっては「なにそれ?」としか感じられなくても仕方がないとは思っている。
そう考えていたのに何故か目の前の少年は踵を返して猛然と走り出してしまい、「え、えええ!?」と戸惑い焦りながらドレスとヒールでその後を追う羽目になった。
バタン!!
突然走り出した魔王は王宮内に戻ると一直線に目当ての部屋まで駆け抜け、大きな扉の前で急停止するとノックもせずに勢いよく開けた。
通常それはマナー違反であり、且つその部屋がこの国の王太子の執務室であることを考えれば、マナー以前の問題となる。
「魔王じゃないか。どうかしたのかな?」
しかしそれを行ったのが魔王であるが故に部屋の主であるヴァルトは怒りもせず、笑顔で彼に問い掛けた。
「おま、せめてノックはしろよ」
『ここはともかく、乙女の部屋に入る時には必ずノックをなさいね?』
だがその場に偶然居合わせたルカリオとベリアルからはお小言をもらう。
けれど今の彼はそれどころではなかった。
大きく愛らしい瞳をさらに大きくさせ、キラキラと輝かせながらブンブンと勢いよく両手を上下させると、
「あのね!!僕の名前、シエルになったよ!!」
宝物を手に入れた少年の顔で幸せそうに笑った。
「……喜んでくれるのはいいのだけれど、突然走り出さないでくれるかしら!?」
遅れて執務室に辿り着いたルリアーナは息も絶え絶えになりながら、それでもシエルという名を得て3人の祝福を受けながら満面の笑みを浮かべる魔王に青筋を浮かべて文句を言った。
しかしその喘鳴混じりの怒声に耳を傾けてくれる魔王も人間も悪魔もいない。
全員が熱に浮かされたようにひたすら「シエル」という単語を繰り返していた。
「………はぁ」
そんな状況で一人怒り喚くことなどできず、ルリアーナはとりあえず呼吸の回復に集中することにした。
今回だけは許してあげるわ。
目を閉じてソファに凭れながら、ルリアーナは苦笑に似た笑みを漏らし、喜ぶ4人の声に耳を傾けていた。
読了ありがとうございました。




