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一方の姿を与えられた神狩は信じられない思いで戸惑い気味に優里花を見る。
『何故…?』
彼女の真意がわからないから、まだその口からは肯定も否定も紡ぐことはできず、疑問だけが零れ落ちた。
だがすぐにある可能性に思い至る。
『ああ、消えてさようならなんて都合がよすぎるってことか』
きっと優里花は償うことなく消える自分を許せなかったのだろう。
『だから悪魔になって地獄のような悠久を彷徨え、と。はは…、僕が言えたことじゃないけど、結構残酷なことをするなぁ…』
神狩はそう言って自嘲を浮かべる。
先ほどは薄くなっていった肌が、指先からゆっくりと青く変わっていく様を静かに見つめる。
『でも仕方ないよね。うん。もうなっちゃったし、受け入れるよ』
そして最後に顔が青くなり、白目が黒に、瞳が赤に変わった。
後は翼と角が生えるのを待つばかり、といったところだ。
「なら、受け入れついでに私と契約してください」
肩を落として変化した自分の手を見ていた神狩はその言葉に反射的に顔を上げる。
すると優里花は無表情に彼を見ていた。
その顔からは感情が読み取れない。
怒っているようにも見えるし、泣く寸前にも見える。
『ええ、と?』
「さっきベリアルさんがお姉様と契約したように、私と契約してください」
神狩が戸惑っていると、優里花はもう一度同じ内容をより詳細にして繰り返した。
その際目つきが少し険しくなったため、どうやら彼女は怒っているらしいと察せられる。
『な、なんで?』
「いいから!!」
『はっ、はい!?』
神狩は恐る恐る優里花に理由を訊ねるが、火に油を注いだようで彼女は苛立ったように声を大きくした。
理由はわからないが、今は黙って従った方がよさそうだ。
それにもとより、自分には彼女の命令に逆らうことなどできない。
『えっと、契約って、どうやるんだ?』
しかしさっき遠くでやっていた契約の仕方などわからない神狩は、少し思案した後、素直にベリアルに問い掛けた。
『いいよ、代わりにやってあげよう』
だがベリアルは機嫌よさげにそう言うと神狩と優里花に近づき、彼を介して契約するために2人の間でそれぞれに向けて手を広げる。
彼はこの優里花が齎した流れが面白くて仕方がないようだ。
『貴女の名前はユリカでよろしいか?』
「ええ」
ベリアルは念のためにと優里花に確認し、優里花は頷きを返す。
この体はアンナのものだが、優里花は自分が優里花であると思っているのでそれで問題ない。
例えダメだったとしても、もう一度やればいいだけだ。
『では早速。…我、ベリアルの名において従者をカガリ、主人をユリカとして主従契約を与える。対価は…』
そこでちらりとベリアルは神狩に目を遣る。
そういえばさっきこの悪魔は『自由を対価に』とか言っていたのを聞いた気がすると思い至った神狩は、しかし何なら対価になるのかわからない。
「……彼の対価は、私以外の人間への想い」
なのに悩んでいるうちに優里花が勝手に対価を決めてしまった。
咄嗟に決められなかったのは自分なのだからそれはまあいいとしても、何故その結果が優里花『以外』への想いなのだろうか?
神狩は理解できないまま優里花の顔を見つめる。
『それでよろしいので?』
ベリアルはまたも笑みを浮かべると優里花に問い掛ける。
後悔はしないか?というその笑みに、
「ええ。この人はこの先、私だけに想いを向けて、私だけを見て、私だけを愛するの。それがこの人への罰になる」
優里花はしっかりと頷くと、まだ自分を見つめている神狩の顔を真っ直ぐに見て、
「私は貴方を、男の人を愛さない。だから貴方は報われない思いを抱いたまま、それでも私と共にこの世界で生きてください。私は貴方を幸せにはできないけど、これからこの世界で共に生きることはできるから」
そう言って、初めて心からの笑みを彼に向けた。
自分でも何故そんな結論を出したのかわかっていなかったが、直感的にこうしないと優里花はこの先ずっと後悔するだろうと思ったのだ。
なら、やって後悔した方がマシだ。
ルリアーナが言った通り、この世界でも未来は自分で作るものだと思うから。
一方、優里花の笑顔を見た神狩の中には、もう他の人間への想いなど一欠片たりとも残ってはいなかった。
例え報われることがなくても。
今後優里花以上に想える存在に出会うことなど絶対にないと言い切れる。
『いいようですね。では、主人以外への想いを対価に、ここに契約を!!』
ベリアルが契約呪文を唱え終わると、優里花の足元から黒い鎖が現れ、それが神狩の元まで伸びていく。
鎖は彼の首と両手、両足に巻き付くと、余った鎖を腰に巻き付けて、そのまま身体に吸い込まれるように消えていった。
『はい、無事完了です』
それを見届けたベリアルは頷くとさっさとルリアーナの元へ戻る。
そして『褒めて』と言わんばかりににっこりと笑った。
「……優里花の願いを叶えてくれてありがとう」
それに応えるようにルリアーナが「悪魔ってイヌ科なのかしら」と思いつつ笑顔で礼を述べれば、
『いえいえ、さっそく主のお役に立ててなによりです』
と、ベリアルはご満悦の様子だった。
悪魔が本当にイヌ科で彼にしっぽがあれば、それは引き千切れる勢いで激しく振られていたことだろう。
その横でアデルは「ルリアーナ様の隣は譲らないから!」とベリアルを睨んでいる。
さらにルカリオとヴァルトは暗殺計画でも立てていそうなオーラで顔だけはにっこりと笑っていて、ルリアーナを挟んで不穏過ぎる空気が流れていた。
そして契約を終えた優里花たちは、しかし見つめ合ったまま動くこともなく、会話をする気配もない。
神狩は喜びながらも『本当によかったのだろうか』と戸惑っているし、優里花は無表情に戻っている。
このまま放っておいてもいいのだろうかと残された面々は静かに見守っていた。
だが不意にそこにイザベルが近寄って行く。
先ほど彼女は衝動的に神狩を殺そうとしていたが今度はどういうつもりなのかとリーネやアナスタシア、遅れてシャーリーとルナとフージャが追った。
「……神狩勇気」
神狩の前に立ったイザベルは神狩の名を呼ぶと、いきなりその頬をぶん殴った。
それはルリアーナ直伝の拳で、威力はまだ彼女の半分にも満たないが、それでも油断している相手ならば十分に殴り飛ばせる威力を持っている。
つまり身構えていなかった神狩はその衝撃のままに殴り飛ばされた。
「す、鈴華!?」
リーネは心優しく暴力とは無縁だった妹の暴挙に驚いて目を剥いたが、イザベルの顔を見て続きを飲み込む。
イザベルは怒りに顔を歪めることもなく、優里花と同じような感情の読めない静かな瞳で神狩を見ていた。
「神狩勇気」
イザベルは今一度神狩の名前を呼ぶ。
『…なにかな』
上体を起こして彼女を見た神狩はイザベルの目に気圧されたように立ち上がるのをやめて問い掛けた。
しかし彼女を目に映した時、本当に彼女への想いが何一つ残っていないことに内心で酷く驚いた。
手に入らないなら殺してしまえと思うほどの愛情はもちろん、先ほどは確かに感じた殺したことを申し訳ないと思った心さえ。
記憶にある感情と現在の感情との差に感覚が追い付かない。
「……今の一発で、私は貴方を許します」
そしてイザベルがぎこちなくではあったが微笑みながらそう言ってくれたことに対する感謝や喜びも感じることができなかった。
けれどそれを見た優里花が涙を堪えるように顔をくしゃりと歪めたことに対しては今すぐ駆け寄って抱きしめたいと感じ、ああ、本当に自分の想いは優里花だけのものになったのだと実感した。
『……いいのかい?』
だが感情を忘れたわけではないし、こういう時どういう感情を抱くのが正しいのかは人間だった時の経験から知っていたので、自分の確認の問い掛けに彼女が頷いたのを見てその場に額づき、礼を述べた。
『ありがとう。それと、本当にごめん。皆も』
同時に、今まで言えなかった謝罪も。
感情は動かないが、その言葉だけは心からイザベルと、その後ろにいる他の4人に向けて言ったつもりだ。
そして、彼女たちに心を向けるのはきっとこれが最後だ。
これから自分は優里花だけを想って悠久を生きるのだから。
読了ありがとうございました。




